第二章






優れた




 陣の中央、大将が座すための白い幕の中では、すでに神宮家の主だった家臣たちが集まっていた。煌煌と篝火が踊る中、白い陣幕の内は沈黙で満ちていた。皆が黙りこくったまま紅巴に礼をする。やっと動き出した状況だというのに、誰もが活気を持たない。本條に怒っているのかもしれないし、彼らを率いる紅巴に不安を抱いているのかもしれない。その背景に、遠く怒号が聞こえていた。
「状況は」
 彼のための床机に座して紅巴が問うと、今のところ大きな動きなし、の声が返ってきた。本條も飛田も、まだ、大きく動くつもりはないのかもしれない。空はそろそろ赤い色を失いだしているが。
 時刻を計るように顔を上げて空を見る紅巴の耳に、思いがけないほど近く荒々しい音が聞こえたのはその時だった。叫び声がこちらへ向かっている。驚くような、咎めるような声が時々あがる。――伝令だ。
 兵は馬を降り、陣幕を守る兵がかける制止の声も聞かず、紅巴の元まで駆けてくると膝をつきながら叫んだ。
「本條の伏兵が、後方から飛田へ攻撃を仕掛けた模様!」
「後方から?」
 どよめきが上がる中尋ねると、大きく肩を上下させながら、兵は叫ぶように言った。
「挟み撃ちです」
 ――うまくいったのか。
 束の間、思うが。
「これは、うまくいくのではありませんか」
 同じように思ったのだろう、尊芳が言うのに首を振る。
「いや。飛田は閉じ込められたのか」
「前後から押されて、横へ広がるようになっているようです」
「騎馬隊。多くでなくていい、飛田に備えて出ろ。手を出すな、出るだけでいい」
 あっさりと言った紅巴に、皆が動揺の声をあげる。それを流し、命令を聞いた兵が再びすぐに駆け出していくのを見送りながら、紅巴はさらに声を大きくして言った。
「馬を」
「紅巴様?」
 まだ神宮が動く必要はないのではないか。その意のこもった反論のような問いかけがあがった。紅巴は立ち上がり、続こうとしない将兵に向かって、あっさりと言う。
「飛田が横に広がっているのなど、そうされてやってるに過ぎないだろう。逆に本條は囲まれるぞ。これは確実にこちらまで来る」
 前後から押される形をとって横に広がる。そのまま二つに分かれた軍は、後ろからの伏兵もろとも、左右から挟みこんで逆に包み込んでしまうだろう。――それから、神宮に対してどう出てくるか、だ。
 もしかしたら飛田はもう、神宮が本條を見捨てる気なのを予想しているのかもしれない。そうでなければ、こうまで神宮を無視した展開にはしない。
「申し上げます!」
 再び、皆の耳に兵の声が届いた。先刻とはまた違う兵が駆け込んでくる。急ぐあまり馬のまま陣幕に入った兵は、馬が完全に止まるのも待たずに飛び降りる。息をつく間もなく地面に膝をついて叫んだ。
「本條の軍、飛田に包囲された模様!」
 驚きの声を上げる間も、承知の声をかける暇もない。その彼の後ろから、また別の兵が駆けてくる。
「飛田の騎馬、本條の陣を包囲する軍から離れてこちらへ来ます! 先程出た騎馬が応戦の構えをとりました!」
 どよめきが大きくなる。驚きは、本條が翻弄されているからではない。飛田が神宮に手を出してきたからではない。ことごとく紅巴の言うとおりに運んだからだ。
 あたりは、松明が必要なほど暗くなってきている。闇夜ではないが、潜伏するわけでもない戦闘にはあまり嬉しくない。――散開して逃げるのには良いかもしれないが。
「潮時だな」
 つぶやいた紅巴を、問いかけるように尊芳が見る。
「退却だ」
 問うような視線に、あっさりと応えた。
 爆ぜて飛び散る火花。遠くの喧騒の中、叫び声と地を揺るがす馬の蹄の音の中、小さく火が弾ける音が奇妙に大きく聞こえる。そして揺れる炎に照らし出された兵の顔。窺うように、紅巴を見ていた。声を待つ誰もの額に汗がつたう。
「皆、ここまで耐えてもらってこの結果では不満かもしれないが、これ以上本條に肩入れする必要はないと見た。ここで堪えても、本條殿があの様子では意味もないだろう。本條は多分、窮地を見ての我々の支援を期待しているかもしれないが、わたしはこれを見捨てる。これから我々は、なるべく無傷で神宮へ戻ることを優先とする」
 これには、先刻までとうって変わって、威勢のいい返事が返ってきた。現金な彼らに、つい苦笑してしまう。
「まずは陣を二つに分けて後方だけ逃げる。尊芳は後陣を率いよ」
「若君」
「わたしがいれば飛田は逃げた隊の方は追うまい。持ちこたえるから、半分だけ戻ってきてくれればいい。山を旋回して、飛田の後ろから」
「大丈夫ですね」
 捕らえようによっては、失礼な発言かもしれない。一人で大丈夫かと問うその声は。だが、尊芳の言葉には違う意味が込められていた。――自分を盾にして皆を逃がそうというのではないのか。
 咎めるような尊芳の声に、紅巴は少し笑う。
「ぼくはね、怒ってるんだ。尊芳」
 少しも怒ってなどいないような表情だったが、簡単に本條を見捨てると言った彼の言動は、確かに怒っているのかもしれなかった。叫ぶよりも取り乱すよりも、それは静かな怒りだった。
 本條が勝手なことをしたせいで、突然負け戦になった。何が何でも、ここは踏ん張らなくてはならなかったのに。
「神宮は無傷で帰らなきゃいけないんだ。そうでないと流紅が無事ですまない。ぼくひとりのことならともかく、安心してもらっていい。ここは何が何でも逃げる」
「了解いたしました」
 真面目な表情で応え、それから尊芳は晴れやかに笑った。あっさりと納得したのは、流紅の名を聞いたからだろう。素早く立ち上がると、すでにつれて来られていた彼の馬にまたがって駆けていく。その蹄の音が遠のくのを聞きながら、紅巴も自分の馬に近づいて手綱をとる。そのときになって、それまで動かずにいた将の一人が顔を上げて言った。
「あなたは何故、いつも弟君の影に隠れようとされるのか」
 あまりにも状況にそぐわない問い、今更とも言える問いに、紅巴が手を止める。壮年の将を見ると、彼は何か悔しげで神妙な表情をしていた。周りにいる、黙りこくっている他の者も似たような顔で紅巴を見ている。不安な色は、そこにはない。
「何もせずに戻ってきたことを、国に残ったものは責めるかもしれない。ですが、あなたの判断がどれだけ優れたものだったか、この場にいる者が皆証明するでしょう。あなたが跡継ぎにふさわしくないなど、どの口を持って言えたことか」
 紅巴は力を抜いて、少しだけ呆れたような顔で笑った。
「ありがとう。だが、今はそれどころじゃないだろう」
 地響きのような騎馬隊の向かってくる音が、徐々に近づいてきていた。









「戦国恋話」トップへ