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眠っていた流紅は人の気配に目を覚まして、考えるよりも前に寝具の中に忍ばせてあった刀を手にした。起き上がりながら抜こうとした彼の腕を、冷たい人の手が掴んで止める。 舌打ちした流紅の耳に、彼の枕元に膝をついた人影が告げた。 「急ぎ帰国を」 低く抑えた声は抑揚に乏しい。言われた言葉に、抵抗のために体に力を込めた流紅は、力を放つ前にそのまま止まってしまった。 まだ、気はゆるめないが。 「神宮の者か」 「御意」 帰国をうながすのが、他国の人間であるはずがない。戻った返答に、ようやく刀を掴もうとした手から目線をはがして、間近にいる相手を睨む。明かりのない部屋の中、色の深い衣を着て、闇に忍ぶのが役割のその男は、空気に溶けるようだった。しっかりと見えたわけではないが、いつも流紅の元に状況を知らせに来る人間とは違う。 「紅巴様から遣わされました。目立たぬ場所に手勢を待たせてあります。どうか、急ぎ帰国を」 暗殺者ではない。捕らえに来たわけでもない。帰国を促すのが、神宮以外の人間だとは思えない。油断させるために口にした、とも考えられるが、その利点が見つからない。 安堵はできない。たとえ神宮の兵ではあっても、正式にではなく、こうして夜陰にまぎれて流紅のところに来ると言うことは。何か悪いことが起こったことの証明以外の、何というのだ。しかも、父からではなく兄からだとは。 「兄上は?」 有無を言わさず一緒に来るよううながす相手の言葉を聞き流して手を振り払うと、相手は素直に流紅から離れて、間近い床に膝をついて頭を下げた。流紅自身、床の上に起き上がって、相手を睨みつけるが。 「どうなっている? 交戦中だろう」 「戦は膠着状態で、わたしが起った時には時にはまだ、完全に交戦状態であったわけではありません。わたしは、突然本條家が動き出して、飛田の進軍がはじまったところで使いに出されたので。どうなっているのかわたしには分かりません」 そんな曖昧な状況で、なぜ帰国のための使いが出されるのか。状況が見えなくて、苛立ちが募る。声が大きくなりそうになって、堪えるのに一呼吸間を空けてから、流紅が言う。 「帰国の理由は」 そんなことを問い返されるとは思わなかったのだろう。帰国しろ、と言われれば、すぐに従うのが当然だった。しかしながら応えに窮した使者を見て、言えない事でもあるのかと、流紅の語調が強くなる。 「あの人が、わたしのところにお前をよこすと言うことは、絶望的な展開になりえるってことじゃないのか」 「まだ、確実には言えません。あの方は退却もお考えでした。もう戦が終わるから、石川に何かされる前に戻れということかも知れません。わたしには、万が一のため、としか」 万が一のため、といわれて、その言葉には納得できるような気持ちと、同時に釈然としない気持ちが生まれる。あの兄のことだ、ここに使者をよこしたのは、先々のことを予想してたくさんの手を打ったうちの、わずかひとつのことかもしれない。それだけのことかもしれない、戦などどれだけ条件が揃っていても、何が怒るかわからないものだ。でもそれとは逆のことも、考えてしまう。その「万が一」を高じなければならないようなことが起きているのではないか。 「あの兄上が適当な判断でわたしに使者と手勢など、遣わしてきたりするものか」 つぶやいた自分自身の言葉で、釈然としない理由が分かった気がした。兄上は、他の人間には分からない、彼にしか判断できないようなことに気がついていたのではないかと。彼の中ではしっかりとした根拠のあることではないのかと。 「ですから、急いでお戻りください」 しかし流紅の重いとは裏腹に、使者は詳しいことを答えない。頭を下げたまま口をつぐんで、流紅を見ない。彼が立ち上がるのだけを待っている。 使者は、本当に知らないのかもしれない。けれども、黙り込んだその姿は、何かを知っているのに教えようとしないだけに思える。無言であるということは、肯定に他ならないのではないか。彼が流紅のところに来るまで、それなりに時間がかかっているはずだ。もう今はどうなっているのか分からない。 「助けに行く」 一刻の猶予もない。それなら、迷っている暇もない。 流紅の言葉に、使者はあきらかに慌てた。 「何をおっしゃるのです」 ただ、流紅の予想外の言葉に、動揺しただけなのだろう。自分に与えられた密命を果たすのが彼の仕事だ、職分をまっとうできないことを懸念して、感情を出すことなどないはずの忍びが少し驚いただけのことだろう。けれども、その少しの動揺ですら、流紅には不審に映る。 何か、隠し事があるのではないか。 思い至って、ぞくり、と血が一瞬にして冴えたような感覚に襲われる。湿り気のある重く暑い空気も、じんわりと身に滲む汗も、どこかへ消えた。体中を流れる温かなものが、刹那の間に、凍った冷水に入れ替わってしまったような悪寒が駆け巡る。本当は、とんでもないことになっているのではないか――? そして付け加えられた使者の言葉は、流紅の思いに油を注ぐには十分だった。 「わたしは紅巴様に、助けに来てほしいなどとは言伝されておりません。あなたが国に帰る助けをしろと言われただけです」 「あの人は、いつもそうだ……!」 「あなたは、あの方の力量を疑っておられるのですか」 荒げそうになった流紅の声にかぶさるように、抑えた声が、それでも強く言った。請われてもいない助けを出すのは、紅巴の力を疑うことになる。 言い募ろうとした、流紅の声が止まってしまった。疑っているわけなどないじゃないか、と言いたい。ただ助けたいだけだ。使者は、ただ単に流紅を鎮まらせようとしてあんなことを言ったに過ぎない。それでも、言葉は核心をついている。 もしここで流紅が助けに行ったりなどしたら、また紅巴への家臣の評が悪くなるのではないか。紅巴自身は望んでもいなかったのに、流紅へ助けを求めた軟弱者と言われるのではないか、と。思いついてしまった。 彼が侮られるのは、許せない。そんなこと、兄自身の命に比べればどうでもいいことだけれども! 紅巴自身も、同じように思っているか、自信が持てない。それに思い至って、流紅は愕然としてしまった。 口をつぐんでしまった流紅に対して、使者がさらに何かを言おうと口を開きかけた。そこに廊下を歩いてくる足音がして、止まる。 深い色の着物をまとった男は、流紅のそばを離れて廊下添いの襖の前に潜んだ。刀を抜いて、身を低くして耳をそばだてる。 いつも情報を運んでくる人間ならば、人の気配がすればどこかに隠れてすぐいなくなが、今日ばかりは悠長に隠れている場合ではなかった。人が来たとすれば、流紅を突き出すために、もしくはどうするかを相談するため、捕らえておこうとする役目の人間のはずだ。立場が表向き客人だったものから捕虜にかわる。すぐに殺されて、死体で飛田に突き出されないとも限らない。 息を呑む彼らの目の前で、襖が開けられる。瞬間、戸の前に控えていた男が刀を振るった。室内でも振り回せる長さの刀は、普通のものより短い。だが、至近距離で相手の首を狙うには十分だった。 けれども―― 「待て!」 寝具の上で刀の柄に手を当てて構えていた流紅が、慌てて声を上げる。 突然の声に、戸を開けた方も、刀を振るった方も、驚いたのだろう。戸を開けて部屋に踏み込もうとした方はその姿勢のままで一瞬静止し、振るわれた刀はなんとか軌跡を変えて相手をそれる。襖の縁に当たって突き刺さった刃は、入ってきた月明かりに反射して鋭く光った。 危うく着物の襟だけを切られて、竹寿がそこに立っている。 |