第二章






いのちある限り




 先程までの、聞き慣れた声の耳慣れない怒鳴り声をいぶかしむ間も惜しく、流紅は遠慮など忘れはてて、駆けつけた勢いまま部屋の中に踏み入れる。
 かつて春の日に、兄と共に神宮の当主が座っていた謁見のための間。そのただただ広い、寂しいほどに広い部屋の中、父は一人で上座に座していた。鮮やかで、趣向をこらした部屋の中に漂う空気は張り詰めて重い。満ちたものがちりちりと痛い。
 礼も何もなく駆け込んできた人物を認め、神宮の当主は束の間ぽかんと目を見開いて流紅を見ていた。驚いた顔のまま立ち上がり、歩いてこようとしてよろけた。それを見て流紅は、部屋に踏み込んで止まっていた足を、考えるよりも前に再び前に踏み出していた。けれど彼が駆けつけるよりも、父の近くにいた人間が立ち上がって支えたのを見て、ようやく他にも人がいたのに気がつく。空気が痺れるようだと思ったのは、向けられた視線のせいだと今更思った。
 同じように手を貸そうとして、少し遅れをとってしまった形のまま中腰でいる神宮の重臣、その父親よりも素早く神宮の当主を支えた、鎧姿のままの武藤尊芳、そして流紅を迎えに来た男。
 父親の元に駆けつけようと部屋を大股に横切る間に、そこにいた人々を視界におさめ、遅ればせながら駆けつけて尊芳の横から父を支えた流紅は、何よりもまず叫んでいた。
「兄上は!」
 戻ってくるのに時間がかかってしまった。桜花へ戻るのに気が急いて、神宮の領内に入ってからも、途中で家臣の城に寄ることもしなかった。臣がすべての情報をすでに知らされているとも思えなかったし、とにかくとにかく、早く桜花に帰りたくて。
 だから流紅はその間の情報をほとんど知らない。捕らわれたと聞いたが、生きているだろうと言われただけで、確かではなかったから、ずっとそればかりが気になっていた。
「開口一番、それか」
 無事の挨拶も、自身の状況の説明も何もかもをすっ飛ばして、雑多な物事を放り捨て、ただそれだけを問う。相変わらずな息子に向かって、父親の表情が、途端に和らいだ。自分の顔が、張り詰めて強張っているのくらい、流紅にも分かる。それだけの緊張をたった一つのことだけに向ける流紅を見て、逆に相手の方は力が抜けたのかもしれなかった。呆れたようだったから。
「とりあえず、生きてはいるんだろうが。忍びからの報告待ちだ」
「飛田からは何か?」
「何も来ぬわ。どうせなら何か言ってくればこちらも開き直りようがあるものを、相変わらず気味の悪い連中だ」
 そうして父は、憎々しげに吐き捨てる。そしてはっきりと続けた。
「どちらにせよ、生きているのなら取り戻す。飛田になんかやれるか」
 出た声は、迷いがなかった。早々に開き直っているかのようでもあった。物言いたげに彼を見る武藤には、ただ宥めるような一瞥を送る。――分かっているのだ、本当は誰も彼もが。何が神宮にとって最善かなど。……それでも。
 彼は流紅の後ろに目をやると、流紅を追いかけて来ていた幾人かの兵に、下がるよう手で合図をする。パタパタと駆けていく足音を後ろに聞きながら、流紅はとにかく父をもとの場所に座らせる。流紅が駆けつけたときに、すぐに遠慮して手を引いた尊芳は、彼らの間近で再び平伏すると、流紅に向かって言った。
「わたしだけがおめおめと戻ってしまい……。捕まるなり斬られるなり、わたしであればよろしかったのに」
「いい加減、そのくだらないことを言う口を閉じろ。もしその通りになってたら、わしがお前の首を晒してやる。観桜宴で使った舞台の上において来てやるぞ、光栄で涙が出るだろうが」
 神宮の当主が相手の言葉を切り捨てる。言葉は多少きつくとも、本気ではない声だった。完全にいつもと同じとは言えないが。
 その様子をおとなしく見ていた流紅だったが、聞きたいことを聞いてしまうと、すぐにくるりと彼らに背を向けた。
「どこにいく」
 歩き出す前に、詮議の声がかかる。
「桔梗殿に謝罪を」
「お前が何を謝ってどうなるってんだ。戦は、紅巴が行ったからこれだけの損失で済んだと皆が言っておる。人質にはお前が行ったから、無事に逃げて来れたんだろうが。お前たちに出来る最善でなるようになった出来事に、謝罪など偽善だ」
 見透かされたようで、反論も出来なかった。自分が無事で戻ったのに、まるで入れ替わりのようにして窮地に立った紅巴の、その母に謝罪に行くなど、自分の気が少し晴れる程度のことでしかない。
「だいたい、あれは紅巴と同じで、見かけによらず頑固で気が強い。お前みたいなガキが余計な気遣いをする必要などないわ」
「しかし父上」
「紅巴を取り戻したいなら、迅速でなければ意味がない。他人の気を構っている暇も余裕もお前にあるか。そんないらん気をまわしている暇があったらお前はさっさと湯を浴びて着替えて来い。いつまで薄汚れた石川の兵の格好してるつもりだ、この馬鹿息子」
 それには、流紅もむっつりと口を閉じる。迅速でなければ意味がない。それならもし、素早く助け出すことができなかったら? 問いただしたかったが、恐ろしくて出来なかった。はっきりと断言されるのが恐ろしくて。
「嫌なら、ここに大人しく座って、尊芳の報告でも聞いていろ」
 諌められ、流紅は憮然とした顔で黙り込んだ。それからすぐに、父の近くへどすんと音をたてて座り込む。何が起きたのかということは、当然何よりも知りたいことだった。言われなくたって、尊芳を締め上げたって、聞きたいところだ。
 さあ話してみろ、とばかりに、尊芳を見る。父に軽くあしらわれて拗ねているのも、多少はあったが。
 促すようでもあった神宮当主の言葉に、尊芳は平伏して顔を伏せたまま、語りだした。
「わたしは、紅巴様の命で先に一旦陣を離れたものですから、詳しい状況は知らないのです。命じられた通りに、先に軍の大半を逃がし、一部を率いて戻ったときには、乱戦状態でした。ただ、神宮が原因とも思われませんので、本條が取り乱したのではないかと思うのですが……」






ううーむ、親父、かっこいいかもしれない…(笑)


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