第二章










 紅巴は、前線ではなく、軍の中ほどに留まって指示を出していた。未だ彼のところには戦闘の波が来ていないものの、とっくに陣を取り払い馬で移動しながらの指令は、ただそれだけでも気力を使う。自分に体力がないことなど、重々承知していたから、出来る限り力を温存しておきたかった。
 そして神宮の軍は、大部分は本條を包囲していた飛田家が、神宮の方まで手を出してきた流れを受けて、ずるずると後にさがっていた。逃げようとする意志をありありと見せ、不自然でない格好で後方の軍だけが離脱する。前方の陣は「逃げ遅れた」のだという体裁で。その後方と、残った軍と、どちらに紅巴がいるのか判断がつかず、しかしながら大将が自分の軍を減らして逃げ遅れているなどとは思えず、飛田の騎馬は誘われるように二手に別れて、未練がましく両方を攻撃する。逃げた方だけを追えば、残った方とはさまれる形になるから、というのもあるだろうが。
 どっちつかずになったものは、何であれ脆いものだ。迷いが出れば、結束が乱れる。残った半数の軍だけで蹴散らして、逃げるのも難しいことではなかっただろう。
 けれども、だ。
 警告のような法螺貝の音が鳴り響く。甲高く太く響く音は、神宮の軍の内から。
 逃がすまいとするかのように、本條がどうしたことか神宮のほうへ食らいついてきた。警告は、それを知らせるものだった。当然ながら攻撃をしてきたわけではない。逃げるのなら反対側へ抜ければ良いものを、ここにきてまだ助けを求めようとするかのように、飛田の囲いを神宮がいる方向へ向かって突破しようとしたのだ。
 ほとんど飛田家は、神宮に対しては「ちょっかいをかける」程度の攻撃しかしてきていなかったというのに、その飛田家の軍を引き連れたまま、ずるずると動いてくる。巻き込もうとしているとしか、思えなかった。子どもが大人に縋りついてくるかのように。――あるいは、予想もしていた展開だったが。
 こうなれば、本條はもう脆い。この展開をいいことに、飛田はもう本條を討つことを一旦中断し、神宮の方へ本格的に手を出してくることもありえる。
 しかしながら――理解できなかったのは、むしろ飛田の動きの方だ。
 空気を切り裂く鋭い音がして、紅巴は目を見開いた。音を追って首を巡らせる。その間にも、彼を掠めるように、次々と飛来するものがある。銀の光を見た気がした。松明の光に当てられて、束の間冷たく光る。空気を切り裂いたものは、その先で鈍い音を生んだ。彼の隣り、護衛のためにそばにいた兵が突然倒れる。簡素な鎧の胸から何かが生えていた。――弓矢だ。
 認識した。途端、考えるよりも前に叫んでいた。
「標的になる! 皆馬を降りろ!」
 自分自身も、馬から飛び降りる。その隙にも鈍い音と共に、次々と大きなものが倒れる音がしていた。
 刀を手にして、その時には軍全体にまで肥大した前線で戦っていた紅巴の間近で、矢を受けた人が次々と倒れていく。本條の兵、そして赤の神宮の鎧、黒い飛田の鎧。――見境がない。
「この弓は、どこからだ!」
 詰るように叫んだ。弓隊がここまで接近している報告など、受けていなかった。
「前方、飛田家からですっ」
 後ろから、誰かの声があがる。乱戦状態だった場が、戦とは思えない状況になっていた。突然、夜の中に降ってきた矢に驚いて、戦闘も忘れて兵たちが身を低くして上を見上げているからだ。もしくは、怒りに我を忘れて突撃をしてくるか。
 本條の兵も、神宮の兵も飛田の兵も、入り乱れた状態だ。この状況で、弓矢を使うなど! 一方的に相手を狙えるような状況――奇襲であったり、各軍が向かい合って相対している場面でもない。都合よく、自軍の兵にだけ当たらないなどと言うことは、ありえないのに!
 それなのに、前方ではなく側面に面していた飛田の軍は、次々に兵を送り込んでくる。前を矢衾に、別の場を突撃してくる敵軍に圧されて、飛田はともかく神宮も本條も、混乱していた。飛田の常識外れの攻撃は、とりあえずよく効いていると言えた。自軍の兵をも失っていっていることを除けば。
 ――しかしながら、報告漏れは、仕方のないことかもしれなかった。
 この場この状況で、弓を使ってくるなど、思わなかっただろう。たとえ弓隊を目にしていても。但しその判断を下すのは紅巴であって、見聞きしてくる者ではない。それは確かに、忍びや伝令の失態ではあったが。
 紅巴の目の前、彼の馬に弓が当たって、大きな体が倒れた。様子を見てやる暇もない、飛来してくる物に抜いた刀を振るう。刃に鏃が触れる、鋭い金属音が響いた。
 ――否、それでも、報告は来るべきだった、と思う。
 飛田家のことだ。非道と怖れられ、今までの戦の中で、さまざまに信じられない手を打ってきた彼らの中に、少しでも疑問に思うようなことがあれば、黙っているべきではなかった。今更もう、遅いが。
「前線、とにかく弓隊をどうにかしろ。これでは指揮が行き届かない!」
 紅巴の言葉に、矢の雨の中、伝令が走り出す。指揮系統だけは、しっかりと掌握しておかなければ。万一の備えも、生かすことが出来ない。
 あとは、もう待つしかない――
 再び飛田の陣が騒がしくなって、何事かと顔を向けると、近くにいた者が叫んだ。
「紅巴様、尊芳殿です!」
 前方、飛田の黒い鎧の波の向こう、神宮の旗が見える。たどり着くまではもう少しかかるだろうが、思いかけない援軍に、飛田家が動揺した。弓の勢いがゆるくなる。
 一応、尊芳に戻ってくるように指示を出してはあったが、紅巴はそれまでに片をつけるつもりだった。実際、彼の考え通りに事が運んでいれば、間違いなくそうなるはずだった。尊芳への指示は、皆を安心させるためと、万が一のためだったが。
「皆、立て! 合流するぞ!」
 その頃には、足の踏み場を探すほどに人が倒れ伏していた。頭を屈めていた一人が、問い返す。
「合流ですか!?」
「飛田の陣を突破する。ここを抜けるなら、相手が動揺してる今しかない」
 この混乱の中にあっては、命令だけでは人は動かない。真っ先にしっかりと立ち上がり、再び叫ぶ。
「こんなことをして、当然あちらも損傷が出ている。突破といっても、敵軍は大した数じゃない。走れ!」
 目の前の援軍と、的確な指示。命令に従って、少しではあっても立ち上がり、走り出す者があったのは日頃の訓練の賜物と言うしかない。動き出すものがあると、次々に続く者があった。
 走れ、走れ、とあがる声があった。駆け出すと、覚悟して来た合戦上とは言え、こんなところには留まりたくない、という気持ちに押されて、出口を求めてまず目の前の敵に、そして前方の軍に突っ込んでいく。
 恐慌によって、空気が飛田の流れになりつつあった、それが神宮の元へ戻りかけていた。ただ命令に後ろを押されて攻撃してくる飛田の兵たちよりも、目の前に抜け道が見えた神宮の兵の方が、勢いがあった。馬がやられたのはなんとも痛いが、立ち上がり、目の前の一団に向かって再び戦闘をはじめた兵たちと共に刀を振るう。
 しかしながら飛田の唐突な行動への驚きと、それによって混乱した状況と、そして現在の乱戦と。感情の動きですら、体調に影響することのある紅巴に、耐えられる重荷ではなかったのだろう。それに加えて、この暑さだ。夜の中、視界の悪さだけでも気に重い。息の乱れが鬱陶しくなり始め、手が重く動きが鈍り始めて、まずいなと思った。もう少しだ、しっかりしろ、と心の中で叱咤するが。
 味方の軍を目前にして、歩調がゆるみ始めた紅巴を守り続けていた兵の一人が、突然倒れたのはそんな折だった。驚きと嘆きと、乱れる息のせいで鈍る思考のせいで、瞬時には何が起きたか分からなかった。長い槍の穂先が突然視界に降って見えて、ようやく窮地に気がつく。刀を振り上げ、間に合わないと思い、自分を呼ぶ声を聞いたと思ったときには、衝撃が脇腹を突いていた。
 なおも、呼ぶ声が聞こえる。
「構うな、撤退しろ!」
 衝撃はそのまま鳩尾を突き抜けていた。息が詰まる。それでも、ありったけの力を持って叫んだ。
 ぼくを見捨ててでも撤退しろ。
 万一のために、戻ってくるように言っておいた尊芳は間に合った。多分、流紅への使いも間に合うだろう。それなら、こうなってしまっては、ぼくに固執する必要はない。
 痛みに気が遠くなるような思いの中、紅巴は振り上げていた刀を、脇腹を突いてきた槍めがけてふりおろした。折れた槍の先は、地面にあっさりと落ちる。――刺さっていなかったのだ。
 まさかと思って見れば、相手はわざと刃先ではない柄の部分で突いてきたのだった。痛みに脇腹を抑える余裕もなく、目を瞠って、槍を握る相手を見る。
 それは馬上から、紅巴を見下ろしていた。夏の夜、満天の星空を背に、見下ろしてくる目があった。冷徹な夜の色の瞳。そこだけ、その男の表情は真夏の最中にあって、冴え凍る冬の夜のような冷笑がある。
 まずい、と瞬時に悟った。相手の意図を悟った、それと同時、紅巴は刀を握りなおしていた。逆手に。
 けれども彼が動くより、相手の方が早かった。一息で駆けてきて、尚も残っていた紅巴の護衛に、手に未だ持っていた槍先を投げ捨てるようにして突き殺す。紅巴が刀を振り上げたときには、相手は間近にいた。足が鐙を外れて、振り上げられる。頬を思い切り蹴りつけられ、紅巴は後ろへ倒れこんだ。踏みとどまれなかった。その力もない自分を、激しく憎む。こんなにあっさりと、倒されている場合ではないのに!
 口の中に血の味が広がった。倒れた衝撃で先刻の脇腹に激痛がはしり、うめき声がもれた。突かれたところに刃はなかったにしても、ひどい内出血くらいにはなっているだろう。近く、自分を呼ぶ声がまだ聞こえていたが、応える余裕もない。早く、早く、早くしなければ――
 半身を起こし、素早く馬から下りてきていた相手に、しっかり握って手放さなかった刀を振り回した。わずかな手ごたえがあったが、完全に振り返り確かめる間もなく、その手首を掴み取られる。後ろから強い力で突かれて、紅巴は地面に倒れこむ。
「柳雅様!」
 口々に、名を呼ぶ声。そして紅巴を呼ぶ悲痛な声、彼を詰る声、怒りの声。まるで閧(とき)の聲だ、と思った。それから、ああ、まるで、などというものではないのだと悟った。これは、閧(とき)の聲だ。大将が捕らえられたのだから。本條がどうなったかは分からないが、戦の終わりを告げる声だ。それでも、神宮の軍の大半は、逃げ延びただろう。これも万が一のために、軍を二つに分けていたおかげだった。尊芳がしっかり率いて帰ってくれる。
 だから今、何よりも重大なことは、神宮の命運を握るのはすでに、軍が無事に撤退することでも戦の勝敗でもなくなっていた。神宮は無傷で帰らなくてはならないと尊芳に言った。何がなんでも逃げる、と言った。それが最善で、自分自身それを望んでいた。ちゃんと帰って流紅の無事を確かめる。でも、それが出来なかった場合の道などひとつだ。何が起きても、生きて捕まることだけは、あってはならなかった。あってはならなかったのに……!
 入り乱れるものが耳に届く中、紅巴は頭を踏みつけられ、刀を奪われた右手を後ろに掴まれて、地面に押さえつけられていた。
「中々、いい度胸をしていらっしゃる。神宮のご長男は」
 只中に落ちてきた声は、冷淡、の一言がよく似合った。横目で睨みあげるようにして見る紅巴の目に、黒い髪が見える。まるで貴族のように香油で髪を梳いたような艶やかな、漆黒の髪だった。そして赤い色。
 紅巴の方へ、わざわざ顔を近づけてきた相手の頬に、一筋の赤い色が走っていた。だらだらと滴る赤い血。先刻の手ごたえは、これなのだろう。そして紅巴を覗き見る鋭利な黒い瞳は、冷笑を浮かべていた。再び発せられた囁くような声は、優雅とも言えるようなものだった。
「俺の顔に傷つけるとは重畳。殺してやろうか?」
 ――願ったりだ。
 思うが、口にはしない。
 しかしながら相手もそれがわかっているのだろう。血の滴る頬をゆがめて笑う。
 飛田家の先代の第四子、飛田柳雅(りゅうが)だった。





飛田のお人は基本的にナルシストでエゴイスト。
…だけど柳雅は、女王様だなあ…。踏みつけちゃって…(笑)。


「戦国恋話」トップへ