第三章






身を尽くしても




 囁く、その声を耳にしたとき紅巴は床を蹴っていた。
 裸足の足で、回廊を飛び降りる。階の横に立っていた兵の真横に着地した。突然のことに驚いて反応が遅れた相手の隙をついて、紅巴は兵の腰に挿された刀の柄を握る。
 意図に気がつき、慌てた兵が槍を手にしたのとは反対の手で紅巴を振り払う前に、紅巴の手は刀を鞘から抜き放っていた。
 柳雅の方への振り向きざま、刀を一閃させる。切っ先は過(あやま)たず、兵の喉笛を切り裂いていた。血が吹きだすのを見る間もなく、紅巴は再び地面を蹴っている。
 両手で刀を脇に構え、走る。大した距離ではない。小さな庭の、二、三歩走った先に、唐突な紅巴の行動に立ち上がり、けれど顔色さえ変えない柳雅がいる。
「若っ」
 神宮の忍が叫ぶ、もう声にもならないような音を聞いた。驚き咎めている声だ。信じられない、と。そんなものは聞き流す。紅巴は駆けつけた勢いのまま柳雅に向かって斬りつけた。振りかぶりはしない、そのまま薙ぎ払って!
 堅い金属がぶつかる音がした。忍の脇に立って、刀をつきつけていた兵が、その刀で紅巴の振るった刀を受け止めた音だ。紅巴はすぐさま刀を引いて、再び繰り出そうとしたが。駆けつけてきていた別の兵が、後ろから彼の頭を殴りつけた。
 鈍痛に、視界が黒く消える。頭の中に響く痛みさえなければ、夏の日差しに立ち眩んだのかのような眩暈に、足がふらついた。一瞬、本当に気を失ったのかもしれなかった。
 再び体中を衝撃が襲って、気がついたときには視界が横倒れになっていた。頬の下が暑い。目の前に黒いものが見える。それから遠くに緑。地面に倒され、はいつくばっているのだとすぐに気がついた。目の前にあるのは黒い庭土。暑いのは、日に焼かれた庭土の上にいるからだ。
「お優しい穏やかな顔をして、兵を殺すにためらわないか。いい度胸じゃないか」
 上から、声が降ってくる。手を後手にねじり上げられ、背中を押さえつけられ、起き上がることも振り返ることも出来ないが、紛れもなく柳雅の声だ。
「この図は、どこかで見たことがあるな」
 ――それはもう、遠い昔のように感じた。
 状況は今とはまるで違った、喧騒と踏み荒らされた大地と血の色と、人々の荒々しい興奮に満ちた場所でのことだった。暗い夜のことだった。――いいや、同じだ。血の色だけは。たおやかで雅やかな白蛇の城は、血の臭いに満ちている。
「この死にたがりが。せっかく刀を奪ったのだから、俺にではなく自分に刃を向ければ良いものを。殺されるためにそんなことをするより、自刃の方が早いだろうが」
「あわよくば、あなたの命も取られればと思ったので」
「陳腐なことわざだが、二兎を追う者一兎をも得ずというがな」
「一石二鳥と言うだろう」
 押さえつけられたままなのに、動揺のない声で応える紅巴に、柳雅は楽しげに笑う。
「嫌われたものだな」
 横から、紅巴の顔を覗き込む。その顔は――嬉しそうでも、あった。雅やかな楽を耳にして愉しむような、美しい草花を観賞して喜ぶような表情だ。
「もっと助けにすがりつけば、可愛げがあるものを。卑屈だな」
「昔から、なかなか直らなくてね」
 応えて、紅巴は見下ろす黒い瞳を睨むように見返しながら言う。
「あなたは、随分と陰湿だ」
 今の紅巴を流紅が見れば、驚いただろう。滅多になく相手を挑発するような態度をとる紅巴だったが、そんなことが柳雅に分かるわけがない。分かっていたとして、だから彼にとって何の意味を持つものでもないが。飛田の兵が幾人かそこにいたといっても、自分の命を狙われたことに変わりない。それなのに、この泰然さはどうだ。
「昔からだ」
 怒っても当然だったが柳雅は、くっ、と唇を吊り上げて、笑った。そして紅巴を覗き込んでいた顔を離して、身を起こした。
 そうして、続ける。
「どうやら、お前は相当懲りない性格と見える。飛田当主の弟の命を狙ったなどと、本来なら斬首ですまんところだが、残念ながらまだ兄上はお前を生かしておくつもりのようだし、多少痛い目を見る程度ですませてやる。言ったように斬りおとしてやってもいいが、軟弱な神宮の御仁に、それがもとで命を落とされてもつまらん」
 いちいちこれからどうするかを声に出して、説明してみせるのは、相手の恐怖を煽るためだけだろう。本来なら斬首だ。それにかわる残忍な刑は、さてどうしようか、と悩んで見せるのは。そうして彼は言う。
 ――さて、足か腕かどちらがいい。
 問いかけとも自問ともとれる声は、梅か桜かどちらが好きだ、と問いかけているかのように、残忍さの欠片もない。
 冗談を言っている、とは思わなかった。
 やがてくすくすと笑い声が降ってくる。
「兄上はお前の笛が気に入りだったから、腕はやめておいてやろう。これで、唯一の才を失うのでは、お前も口惜しいだろうしな」
 脹脛(ふくらはぎ)のあたりに、何かが当てられるのを感じた。紅巴は、ただ歯を噛み締めた。再び神宮の忍が彼を呼ばわる声が聞こえる。怒ったような声は、先程殴られた頭のせいか、流紅の声に聞こえた。
 ――いいんだ、流紅。これがぼくの戦い方だ。
 思ったとき、あっさりとした、あまりにも簡単な音がした。何かが折れる音。瞬間、全身が冷たくなったかと思うほどに血の気が引いて、次の間には体中から汗が噴き出した。右の足。そこから得体の知れないものが、這い上がってくるかのようだ。他の感覚すべてが消えうせたように、そこだけがただ存在を主張してくる
 噛み潰すかというほどに歯を食いしばる。それでも、うめき声がもれた。噛み締めた歯の奥で、息をするのも忘れて、気が遠くなった。霞がかかったような思考の中、柳雅のひどく優しげな声が忍び込んでくる。
「これで当分、逃亡など考えまい。牢にでも押し込んでおけ。しばらく反省していただこうじゃないか」
 これが、きちんと神宮に伝われば良いけれど。  腕を掴んで引き摺り起こされるのを感じながら、紅巴は遠くなる意識の中で思っていた。





ここのお題がどうして「身を尽くしても」なのかは、次かそのうち判明しますです。


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