第三章






幼い子




 自分が紅巴を部屋まで連れて行くのだと言い張った百合姫だが、いくら紅巴が細身であるとは言っても彼を支えることが出来るわけもない。ほとんど寄り添って歩く程度の支えにしかなれない彼女の、一生懸命な姿が微笑ましくありがたく、なるべく負担にならないようにと少しずつ静かな回廊を歩いていた。
 そしてようやく辿り着いた暗い部屋の中、敷かれたままだった寝具の上に倒れこむ。そこにきて、ようやく紅巴は詰めていた息を吐き出した。多分、熱があがってしまったのだろう。意識は朦朧として、口から出る息すら熱い気がする。
「ひどいわ。ひどいわ、柳祥様も柳雅様も」
 泣きじゃくる声がする。そのままうずくまってしまいたいような気持ちを堪えて、身を起こした紅巴の目には、傍らに座りこんだ百合姫が、ぼろぼろと涙を零しているのが見えた。
 そして彼女は、泣きながら上掛けを引っ張りあげる。そのまま、きちんと座って百合姫と向き合おうとしていた紅巴を寝具に押し込んだ。
 泣く子には逆らえないというべきか、人と相対するときには少しの弱みを見せることも嫌う紅巴だったが、されるままに寝具に横になっていた。逆らう力もあまりなかったというのが正しいかもしれないが。
 横になって少女を見上げる。月の光が差し込む薄紺色の部屋、黒髪の愛らしい姫君は、瞳からただ雫をこぼしている。少しぼんやりとした思考の中に、それはとても綺麗な光景に見えた。
「戻った方がいいよ。あなたが怒られてしまう」
 出た声は自分でそうなるようと思ったよりも、宥めるというよりは、ただ穏やかだった。
「いいのよ。柳祥様はわたしのわがままなんていつもおもしろがってるだけだもの。柳雅様は陰険だから、ひとつくらい怒られることが増えたって、少しも怖くないわ」
 柳雅は、彼は飛田の血にあって、現当主のような、言ってみれば人間らしい、とえるそんな感情とは縁遠いところに立つ人だ。決して表には出さないが、どこか暗殺に怯えているように見える当主に比べ、彼は、それができるならやって見せろ、と堂々と立つようだった。――堂々と、というのとは少し違うかもしれない。紅巴は、自分が彼に刀を向けたときのことを思い出す。
 彼は、冷たく見据えて両手を広げ、相手を挑発しながら、実際に歯向かって来たなら容赦なく冷酷にやり返す人だ。笑みをうかべながら。
 なるほど、陰険とは、的を射た言葉かもしれない。
「ねえ、ちゃんとお食事してるの? 本当に、牢のお食事は腐ってたの?」
 唇に笑みを浮かべる紅巴に、すがりつくようにして百合姫の声が大きくなった。手打ちになって殺されても構わないと紅巴が言ったときと同じく、理不尽さに怒りを覚えているかのようだった。
「ちゃんと食事は出たよ。何も食べられなくて、手をつけなかったから、そのあとで腐ったかもしれないけども」
「じゃあ、お毒見は? ちゃんとしてるの?」
「あの人たちも、まだぼくを殺すつもりはないみたいだから、毒の心配はないよ。大丈夫だから」
 慰めるつもりだった。自分のことよりも、愁眉を寄せて泣く彼女のために言った事実だったが、少女はそれが更に無頓着なように見えたのだろう。
「いやよ、いや。どうしてそんなに無頓着なの。あの人たちなんていつ気が変わるかわからないわ、絶対にだめ。百合が、ちゃんとした食べ物作ってもらうから。ああでもまだ食べられないかしら。ねえ、瓜は? 冷たい瓜とかなら食べられる?」
 困惑したように、憤慨したように言う。紅巴が笑みと共にただ、ありがとうと言うと、感情の昂った彼女はもう、駄々をこねる子どものように、紅巴に縋りつくように泣き伏してしまった。
「だめよ。紅巴様は、百合が守るんだから。絶対、守るんだから」
 小さな少女の義憤は、どうしてそこまで、と問いかけても良いものかもしれなかった。飛田の人間が、捕虜である神宮の人間に対するには、あまりにも親密すぎる。けれども彼女は、紅巴が感じているような飛田家の気風には染まらないように見えた。幼く優しい少女は今まで、同じように捕らえられて来て、無残に殺された人たちを見てきたのかも知れない。それが積もり積もって、耐えられなくなっただけかもしれなかった。
 それとも、そんなものではないのかもしれない。
 紅巴は、彼の腕にすがりつくようにしている少女に、反対の腕を伸ばした。上掛け越しにそっと抱き寄せる。あやすように、小さな頭を優しくなでた。静穏な夜の藍の中に聞こえるわずかな衣擦れの音と、嗚咽がむしろ耳に心地良い。だから、ただもう素直に、こんな地にまで来て、自分のことに涙を流してくれる人がいることが不思議で、そして嬉しかった。
「大丈夫だよ。もう、お手打ちになってもいいなんて、言わないから」
 神宮へ帰るのが一番最善の道だった。神宮に帰ってそこで生きるのが。けれども、それは不可能だと分かっていた。だから、飛田に留まって死ぬしかなかった。神宮の手が紅巴の上にある以上、選択はその二つのみだった。だがその手は、切り離された。紅巴が離した。絶壁に立つ者へ示し続けられた道は途切れてしまった。
 けれども、神宮が紅巴を見捨てるなら。もし、彼らのために命を賭ける必要がなくなるのなら。彼らのためを思って、飛田での死を選ぶ必要がなくなるのなら。
 それならやはり、生きることを選ぶ。何年先のことになろうとも、いつか神宮へ帰るために、生きることを選ぶ。
 ――もし、柳雅が当主なら、神宮に切り捨てられた紅巴が生き永らえる可能性は、本当に、万に一つもなかっただろう。
 彼は、世間が飛田に持つ印象そのもののような人だ。 彼が紅巴に対する態度は、常に強者のものであって、子どもが小動物を虐めるのと変わりない。つついて反応をおもしろがっているだけ。もし獲物に飽きたり、刃向かってきたりすれば、何の迷いもなくその手で縊(くび)り殺す。用済みの相手は、塵を捨てるのと同じに、さっさと始末するだろう。だが、現当主は柳祥だ。
 彼は恐れている。身内の人間を、まったく怖じ気ない弟を。今日の事だって、もしかしたら、柳雅がわざわざ紅巴を連れてくる役目を負ったのは、柳祥の命なのかもしれないと思った。そもそも紅巴の足を折るなどという行動は、柳雅の独断だった。結果的に同じことをするのであれ、気分を害したのかもしれない。
 だから優柔不断であるかのように、紅巴に構う。逃げ道でもあるかのように、対立し続けている家の人間を連れ歩いて、矛先をそらそうとしているようにも見える。そして今紅巴がこうして手当てを与えられて、人としての扱いを受けている時点で、彼の迷いは表されているといっていいだろう。
 何が何でも、命の価値を認めさせてやる。今まで、そんな感情は、紅巴には無縁のものだった。表に出ること、能力を振りかざして力を振るうこと、人を陥れることは。けれども、したことのないことでも、多分、可能だろう。やろうと思えば出来ないことではないことを、自分にそれだけの力があることくらいは自負している。
 例え、生き延びた理由が戦のときの盾のためでも構わない。――それが現実になってしまうのは問題ではあったが、今すぐのことではありえない。少しでも生き永らえて、機会を手に入れる。その可能性がわずかでもあるのなら。
「神宮がぼくを見捨てて、ぼくの命の問題が、ぼく一人だけのものになるのなら、何が何でも食らいついてみせる」





そして紅巴は、さりげにタラシくさい。
つうかただお兄ちゃんなんだけどこの人…。

BGM林明日香アルバム「咲」より「笹舟」
むしろこれは大人になった百合姫のイメージかなあ…


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