第四章



十二


隔て






 弓を離れた矢は、勢いよく的に刺さる。小気味のいい音をたてて、それは遠くはなれた的の、中心近くを射抜いていた。
 片肌脱ぎになっていた飛田の当主は、それを満足そうに見て、傍らに控えた小姓が差し出す手拭を受け取り、額の汗を拭う。日差しは強く、紅巴ならばそこにずっと立っているだけで眩暈を起こしかねないものだったが、飛田の当主には何ほどのことでもないようだった。手拭を戻し、次いで差し出された矢を手に取る。弓を下に向けて弓弦に矢羽を当てがい、けれどもそれをつがえて構える前に、近く彼を見ている人物の方へ目を向けた。
「お前の言った通りだったな」
 当主に呼び立てられ、回廊に座してそこにいた紅巴は、ただ彼を見上げた。穏やかに見返してくる相手に、柳祥は言う。
「神宮の次男が、領内視察と称して桜花を発ったと言う。聞いたか」
「はい」
「実質、次代を継ぐ人間をお披露目するのとかわりない。お前はやはり、完全に見捨てられたな」
「そうですね」
「飛田家にとってお前の価値はなくなった。今ここで、お前を射殺しても構わないというわけだ」
 紅巴は静かに、その通りですが、と応えた。瞳にも声にも感情の揺れは感じられない。未だ自由の利かない足を投げ出して座る彼は、しかしながらやはり、弱いところを少しも見せなかった。
「お許しいただけるのなら、その件はもうしばらく熟考願いたい、と申し上げる」
「ほう」
 飛田の当主はおもしろそうに応え、手にしていた矢を小姓に戻した。強弓を地面に刺し、改めて紅巴に向き直る。
「どういう意味かな」
「わたしの命の価値を、もう一度お考えいただきたく」
 言葉とは裏腹に、その声音には動揺も切羽詰ったものもない。ただ静かに、己の利を考えてみるよう相手を説いていた。
「わたしは、自分を過大に評価もしないし、過小な価値も申し上げない。わたしは神宮の領土のことも、神宮の人のことも熟知しておりますし、必ずお役に立てるでしょう。そしてわたしがこちらに与したと知れば、神宮はもとより他国も必ず動揺する。対立していた神宮の人間を従えたのだと、恐れるものも多いでしょう。わたし自身の価値は、先日の戦の折の働きを考慮していただきたいと思います」
 捕らえられてきた紅巴を前にして、なかなか見事だった、と評した柳祥の言葉を逆手にとったものだった。
 そしてこの言葉は、ただ単に人質や捕虜としての価値を説いたものではない。
 思いがけない紅巴の言葉、それの意味することに、飛田の当主は少し驚いたようだった。それよりもずっとおもしろがっていたが。
「命乞いをするのか」
「いけませんか?」
 紅巴はただ、真意の見えない表情で笑んで相手を見返している。
「一概に悪いとは言えないな。だが、お前が飛田に降るのか」
「神宮は、わたしを見捨てたのでしょう」
 真意を問われて、言葉を反復する。そして続けた。
「神宮がわたしを捨てるのなら、わたしが神宮を捨ててはならない道理もない」
 先刻の紅巴の言葉は、飛田家の臣としてあってこそ意味があるものだった。そこにあるだけの客人のような、そして行動を束縛されるような立場の人間ではなく、生まれや立場のみの利を説くのではなく、己の力をそこで発揮して見せると言うのなら。
 紅巴は、神宮を裏切り、飛田家へつくのだと公言したことになる。
「神宮の人間は、飛田を憎んでいるのではないのか?」
 初代はその生家を滅ぼされ、何代にも渡って神宮家は飛田家に命を脅かされてきた。
「それは飛田のお人の方でしょう」
 神宮家は、飛田がそのように手を出してこなければ、自ら人を憎むような気質はもっていない。未だ、戦国の世の伝説であり伝統のように両家が対立するのは、飛田が招いたことだ。柳祥も紅巴も、どちらも正しい。
 言葉を返し、そして紅巴は続けた。
「しかしながらそれも昔のことです。そして例えわたしの中の血が、飛田家を憎んでいても、劣り腹のわたしには大した影響を与えなかったのでしょう。わたしには、家の問題よりも、自分が生き延びることの方が重要なようですから」
 命を惜しむな、名こそ惜しめ。というのが戦国の慣わしだ。
 生き恥をさらすくらいなら、死を選ぶ。命を惜しんで逃げ回るよりも、家の栄誉を重んじて敵陣へ向かっていくものだったが。
「それなら、何故神宮の忍びをかばった」
「何度も失敗しているのですから、これ以上犠牲を出して、神宮がわたしをあきらめるようなことになったら、自分の命の保証がないでしょう。そう思ったら無我夢中で。もともとわたしは、神宮にとってはいらぬ人間です。どんな些細なことですら、見限られる要因にならないとも限らない。必死になっても不思議はないでしょう?」
 少し困ったような顔で、紅巴は言った。
「結局、臣にとっても民にとっても弟が嫡男であり、わたしなどはどれだけ神宮のために尽くそうとも、この様ですが」
 当主名代として起ったのだという弟を引き合いに出す彼の言葉に、飛田の当主は少し唇を歪めて笑った。神宮家中での紅巴の立場を、飛田の当主も当然知っていた。
 紅巴はその歪曲した笑みに向けて、続けた。
「飛田の方ならわかっていただけると思ったのですが」
 骨肉の跡継ぎ争いは、むしろ神宮ではなく飛田のお家芸だ。その皮肉とも、指摘とも、批判ともつかない言葉を、飛田の当主はただ額面通りに受け取ったようだった。
「弟を憎んでいるのか?」
「憎まないわけがない」
 さらりと、当然のことのように、穏やかな口が答えた。それはむしろ、静かだからこそ、見る者の目に、彼の心の内を深読みさせるものがあった。いつも静かに佇んで耐えてきたからこそ、たわめられた暗いものを。
「わたしは、本来の自分があるべき立場も何もかも、今はこの命ですら、弟ゆえに奪われるようなものですから」
 飛田へ降る理由を、自分の命のためと、憎しみゆえに、わざわざ弟の敵に回るのだと言ったのと変わりない。
 柳祥は、紅巴の近くに座して控えていた弟を見た。柳雅はずっと、口を差し挟むことなく、黙ってその艶やかな気配すら押し殺すようにしてそこに座っていた。冷笑を浮かべ、飛田の当主は紅巴の方へ視線を戻す。
「しかし、命乞いだというだけなら、理由には弱いな。お前も武家の人間なら」
「ご納得いただけませんか? 困ったなあ。もしかして、ご当主はすべてお見通しで、わたしに白状させるおつもりなのでしょうか」
 それまでずっと穏やかに、少しの余裕も失わずに話していた紅巴は、ここに来てさすがに困惑した様子を見せた。
 裏を見透かされて困った、という様子で束の間口を閉ざす。ためらいはしたものの、後ろ暗さのない彼に飛田当主の方も、始めて不審そうに彼を見た。
 その視線を受けて、それでなくても何も言わないのが得策ではないと分かっているようで、紅巴は再び笑みを取り戻して言った。
「百合姫は、かわいらしい姫君ですね」
 柳祥は、紅巴の言葉に目を見張った。驚きを隠さずその顔に浮かべ、そして次には大声で笑った。
「あれはたいそう、お前になついていると聞いていたが、そうか」
 喉を鳴らして、おかしそうに笑いながら彼は言った。その表情には、いくらかの安堵や、からかい、そして見下したようなものも混ざっている。
「あれはやれん。昔から当主の正室になると決められている。滅多なことを口にすると、当主を狙っていると思われかねんぞ」
 相手が百合だから、というわけではないのが、ありありと出た言葉だった。ただ彼女が、飛田当主の従妹だから。
 柔らかな面差しに、遠慮がちにも見える困惑した表情を浮かべたまま、紅巴は応えて言う。
「わたしの価値を汲んでいただけるのなら、このような政略結婚もあながち無きものではないと思うのですが」
 政略結婚とは、国同士の結びつき、同盟を結ぶ役目をもつが、それだけではない。嫁いだ娘は夫を見張る。国を見張り、それを自国へもらさず伝える役目を負わされるものだ。夫は、娘の命を手中に収めていることで、相手の国を牽制する。――それは当然ながら、いざとなれば簡単に無くなってしまうような、か細い保障でしかなかったが。
「考えておこう。今後お前の働き次第で」
「いずれにせよ、機会さえあれば、わたしの言葉が偽りではないことを証明してみせますのに、残念です」
 この足では、と嘆いて言うその言葉には応えず、飛田の当主は、流麗な顔を無表情にして庭を眺めていた弟を見た。ここまで話を進めておいて、もののついでのように尋ねる。
「神宮の嫡子が飛田の傘下へ降るなど、まったく前例のないことだが、どうかな」
 柳雅はただ、その叡智と高圧な力をたたえた瞳を伏せて頭を下げて隠し、御意、とつぶやいた。
「兄上がお決めになることですから」
「わたしが決めたことなら、臣が反対しようとも、お前は反論しないと言うのか?」
「もちろんです」
 柳祥が、小さく鼻で笑う。
「そうか」



 短く応じ、もう柳雅の存在など忘れ果てたように、飛田の当主は傍らに立っていた小姓に向けて手を出した。そこにはいない者のようにじっと控えていた少年は、慌てることもなく、矢を当主の手に渡す。風雅を称えられる飛田の人間にして、武断の主を気取っている飛田当主は、そうして再び弓を的に向かって引き絞った。
 それはただ、そうあれない自分を悟りながら、そうあろうとしないのだと懸命に主張しているだけだ。恐れ、それゆえに反発している。弱さを露呈しているのだと気づかずに。
 惰弱な凡夫が。
 柳雅は、伏せた眼差しの中、嘲笑を浮かべて思う。
 飛田に降ると言い出した紅巴が、問い詰められ、百合のことを出した途端に態度が軟化した。それは偏に、問題が目に見える位置に落ちてきたからに過ぎない。国同士の関わりではなく、策略でもなく、分かりやすい問題に摩り替わったから。
 紅巴の内には陰謀などなく、敵国の姫にひかれて自国に仇なすのだと、単純に納得した。命を惜しむのだということも、弟を憎んでいるのだと言うことも、それに付随する問題に捉えたのだろう。
 ――愚かな。
 吐き捨てるように、ただ心の中で言い放つ。
 あれが、色恋で、国を捨てる人間か。
 問題を単純なものに摩り替えた。それは、紅巴がそうしてやっただけのこと。百合のことなど、本音でもないだろう。飛田の当主は、紅巴に抑制され、うまく空回りさせられたに過ぎない。
 柳雅には、紅巴が二面性を持つ人間なのだと、分かっていた。表は穏やかで軟弱に見えても、実質その内面では暗く強いものが沈んでいる。決して優しくなどない容赦のない人間だ。目的のためなら、きっと歪んだ道も通る。その本質に、自分自身と似たものを感じ取っていた。
 飛田家など、目的のためなら、そして目的を果たしたなら、何ほどのものでもないように裏切るだろう。――裏切るなどと言う言葉は正しくないかもしれない。彼は所詮、最初から最後まで神宮の人間だ。
 柳雅は分かっていて、兄には何も告げなかった。誰にも、何も言わない。
 強い日差しを投げかけてくる日輪の元、ただ、心の内で冷たく笑った。








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