第五章






もし・・・





 襖を締め切った部屋に、冷気が滞っている。客人が去るために開けたわずかの隙間も今は塞がれているが、その時に舞い込んだ木枯らしが、未だに部屋の中を渦巻いているようだった。空虚に広い謁見の間は、足元から這い上がるような冷たさを孕んでいる。
「父上」
 竹寿が去って、戸が閉められるのをじっと見守り、相手の出方をずっと辛抱強く待っていた流紅だったが、とうとう耐えかねて呼びかける。仏頂面で真正面の襖を見ていた父は、息子の声を受けて、大仰にため息をついてみせた。
「お前はもうちょっと大人しくできんのか。そんなに感情がだだ漏れでは、相手に足元を掬われる」
「わたしが、腹芸が得意でないことくらい、知ってるでしょう」
 だったら同席させなければいいのに、と言外に告げる流紅に、神宮当主は飄々と返す。
「知っているが、お前もわしの涙ぐましい行為を理解しろ。滞りなく当主の座を明け渡せるように、地道にも下地を整えていってやってるというのに」
 当主のみが行う謁見に同席させる。それは同時に、お披露目の意味もある。場を学ばせる意味もある。
「分かってますよ。これでも努力してるんです」
「努力といってもなあ」
「結果が全てだって言うんでしょう。分かってるよ」
 今の物事にしても、治世のことにしても、軍事のことにしても、そして後世で語られることにしても、努力の経過もその量も、問題にはならない。民にしても他国にしても、彼らが受け取るのは、目に見える現実だ。巻き起こった物事だけ。
 それも重々分かっているし、自分がまったくそれに叶っていないことも分かっているが、今回ばかりは小言など聞き流した。どうせ相手も意地悪で言っているだけなのだ。流紅が話したいことなど分かっているくせに、わざと引っ掻き回している。
 せっかちな流紅に対し、父は呆れたような目で息子を見返した。大げさにため息をついて、話を戻す。竹寿が持ってきた情報に。
「まあ、予測はできたことだがな」
 ――紅巴が、飛田の将として陣頭に立つ。
「捕虜として連れて行かれて、他国で生き延びようとしたら、相手に媚びるしかないだろう。それを良しとしないから普通は自害するし、逆に自決もしないで靡いてくる相手を、敵方だって見下す」
 十分に人からの侮蔑に値する。足に取りすがって頼んでも、蹴り飛ばされて殺されることだって当然ある。もしそれを捻じ曲げて、紅巴に価値を見出した飛田の当主が受け入れたとしても、飛田の家臣はそういかないはずだ。捕虜としての価値のない今、暗殺されないとも限らない。命の危険は常にあり、故郷との隔たりはずっと遠くなる。
「それでも、生きることを選んだってことだろ」
 あれは、細かいことをあまり気にしない性質だから、と神宮当主は嘯くが。
「どちらにせよ、神宮の領内の些事にも、人間関係にも詳しい人間を他国においておくわけにはゆかぬ。他国の将になるのなら、自ら進んで協力することが求められるだろうからな」
「じゃあ」
 その言葉に単純に喜び、流紅の顔が明るくなった。
 だが、流紅が期待するような反応は返ってこない。頷くことも、言葉もない。かわりに父は顔を上げて、少し遠くを見るような目をしていた。珍しく疲れたような表情に、少し不安になる。見守る目の前で足元に目線を落とすと、神宮当主は唇の端を持ち上げて、つぶやいた。
「もしかしたら紅巴は、本気で、神宮家に対立するつもりかもしれんな」
「まさか」
 考えるよりも先に声が出た。冗談だと笑うよりも、妙なことをと怒るよりも、するりと言葉が出た。けれども、父の顔は変わらず暗い。
「ありえないことだ。だが、どんな可能性だって、考えておく必要がある」
 起こりそうな物事すべてを、予測しておく必要がある。苦い表情で言い放つ父に、流紅は半ば呆然とした気持ちだった。内から沸き起こってくる不安。反論の声は、それを抑えようとするかのように、知らず大きくなった。
「でも、神宮のために、足を折られるようなことまでして」
「そんなもの、捉え方次第でどういう意味にでもなりえる。もう迷惑だから人手を寄越してくれるなってことかも知れんだろ。……わしは最近、ようやくそういうこともありえるのだなと、改めて思った」
 憶測でしかない。何もかも。
 しかしながら、もし彼の言う通りに、本気で紅巴が神宮を見限ったのなら。それは、これ以上のない脅威だ。神宮の内実に詳しく、何より彼ら二人とも、紅巴の才覚を認めていた。その彼が敵になるのなら。
 浮かんでいた気持ちが、停止した。急速に冷えて暗闇に飲まれていく。父の言葉の示唆すること。極端な、あまりにも極端な二つの意味。
 寒苦するかのように、身が震えた。
「でも、それじゃあ、もし兄上が……」
 本気で、神宮を見限ったのだとしたら。
 顔を強張らせ、言葉を最後まで続けることの出来ない流紅を横目でちらりと見て、父は脇息をひきよせると、頬杖をついた。ため息をついて、やれやれとつぶやく。
「そんなこと、あいつも覚悟の上だろ。もしもそうだったらの話だがな」
 当然、まだ断定などではない。そうかもしれないというだけのことなのだが。
「あれは、ここではずっと不遇だった。折角の才も大して生かせずに、大人しくしていたからな。国を出たいと思っていたとしても仕方がないことだ。他国で悠々と力を発揮していけるのなら、無理に連れ戻すのもはばかられてならん」
 いつになく弱気な父は、それだけこの問題に参っているのかもしれなかった。もし本当に、紅巴が自身の境遇を憂えて国を捨てたのだとしたら、その状況を防げなかった自分の責任だと思っているのだろう。そんなことはないと、例え口先だけでも否定することができず、流紅は黙り込む。父は慰めがほしいわけではないだろうし、紅巴に窮屈な思いをさせていたのは、流紅自身の存在も大きかったから。
 黙り込んでいると、父は珍しく大人しい流紅に目を向ける。何を思ったのか――弱気を露呈してしまった自分を悔やんだのか、気を遣う流紅がおかしかったのか、唐突に普段の調子でにやりと笑った。
「また一人で突っ走っていこうとするなよ。この期に及んで、神宮の人間が接触する気配だけでも、相手は過敏に反応するだろうからな」
「しませんよ」
 憮然として答える。前例があるだけに、強く言えなかったが。
「紅巴がどういう思惑にしろ、飛田が本気で紅巴を配下にするつもりなら、大々的に前面に押し立てて、戦に繰り出すだろうな。これは結構、神宮だけでなくて、他国にとっても脅威だ」
 神宮家と飛田家の対立は、戦国の伝説であり伝統だった。誰もがその対立に疑問を抱かないし、飛田が捕虜として連れて行った紅巴が、どんな惨い殺され方をしても誰も不思議には思わないだろう。――それを、臣に迎え入れる、とは。
 飛田の当主の手腕に、神宮家の出方に、誰もが驚き怪しんで、成り行きを見守ることになる。特に神宮の臣の動揺は大きなものになる。石川家が、何よりも先にその知らせを運んでくれた事は、神宮家にとっては有難すぎる収穫だった。だが、彼らが何の見返りもなくそんなものを持ち込んできたとは考えられない。――そして神宮の将の不安を抑えるには、石川からの要請に応えない訳には、いかないだろう。
「戦になるな」







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