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本條家の当主が逃げ込み、仮の居城にしている蒲原の砦に到着したのは、それから三日後のことだった。天候は飛田の味方をしたのか、ちらほらと雪を降らすことはあっても足を止めるほどに積もることはなく、あれ以後民の攻撃を受けることもなく、大した徒労もなく蒲原に到着している。八千程の飛田の軍を見て、数百程度の兵の備えしかない本條家は、飛田家と少しの刃を交えることもなく、当然のように篭城の構えを取った。 「どこから援軍が来るというわけでもなし、ここで篭城したところで何が変わるというわけでもないだろうに」 野営の準備にかかる兵たちの様子を見ながら、柳雅は眼前の砦を見ながらつぶやいた。篭城は、どこかからの援助を頼りに出来る場合に、敵を前にして踏ん張るには有効だが、今の本條家には当然そんなものは望めない。ただ、そうする以外なかっただけだ。 蒲原の砦は岸壁を背にしたところだった。強固だと言えるのはその一点くらいだが、攻撃するのは正面からしかできず、大軍があまり意味を成さない、というところでは本條家にとっては重要なところだろう。それを頼みにするなら、そう簡単には降伏してないだろうが 「兄上に連絡をしておけ」 彼のために、木枠を組み白い幕を張って整えられた陣へ腰を下ろし、柳雅は配下の将へ命を出した。 「まだ包囲したばかりで、早いのでは」 柳雅を上に、向かい合うようにして座す将たちが大将へ驚いたような顔を向ける。戦況を整えてから、当主を呼ぶ手はずになっていたはずだ、と返る声に、柳雅は笑う。 「秋を越えたが、本條も大した蓄えなど出来てはいないだろう。徴収しようにも民が税を出すわけもないし、強要してみたところでどれだけのものがあるか。どうせすぐ弱気になって出てくるさ。この季節に、こちらもあまり長い間野営して待ってやるつもりはない」 なるほど、と他の者が返す。言われるまでもなく、彼らの目の前にある砦からは、何が何でも抵抗して見せるという覇気はまるで見られない。何倍にもなる軍に包囲され、援助の保障がない状況なら尚更だ。 「兄上が軍を率いてここに来るには、十日もかからないだろう。兄上が到着してくるまでの間に降伏してくればよし、してこなければ容赦なく力攻めだ。どうせ兄上は大勢引き連れてくるのだから、余裕だろう」 「かしこまりました」 「降伏してきても、簡単に受け入れるな。全部兄上が来てからだ。――何かと、疑われるのも面倒だからな」 最後の一言は、ふいに心中が零れ落ちたかのように、小さなものだった。間近にいた紅巴の耳はその言葉を広い、うつむけていた顔を上げる。他に聞こえた者はいないのか、席を立って指示を出す将の方へ気をとられていたのか、誰も気にした様子はなかったが。 顔を向け、柳雅を見ると、彼は問うような紅巴の視線を受け、ただにやりと笑った。 野営を張っていた飛田の軍が再び急襲を受けたのは、その夜のことである。急襲、というには正しくないかもしれない。 陣内に響いた悲鳴に駆けつけようとした紅巴は、見張りと護衛を兼ねた兵に阻止されてしまっていた。陣中、しかも夜に勝手な行動をとろうとすれば、当然詰問を受けるし、怪しまれて当然だった。様子を見に行くのも、わざわざ紅巴が動く必要はない、報告を待てというそれを言い聞かせるのが面倒で、それならついて来いと言い置いて駆ける。 悲鳴は、陣の中だった。ただ事ではない。しかも遠くではなかった。この広い陣内では、むしろ紅巴がいた幕屋からすぐ近くだったはずだ。一度響いた悲鳴以外はもう何も聞こえなかったが、紅巴は目的を持って走っていた。辿り着いて、その幕屋の外で、入り口を守備していたはずの飛田の兵が倒れているのを見つけた。 何も言わず、入口に垂らされていた布を払いのけ、中に踏み入れる。その途端、目の前に現れた影に、何かを考える前に後ろへ飛退き、幕屋の外へ出た。眼前を白刃がよぎり、更にたて続けに振るわれたものは手の太刀で受ける。続いて繰り出される前に、紅巴の太刀が相手を斬り伏せていた。 とっさのことに、相手が一体何者なのかも見る余裕がなかった。地面に薄く積もり、淡く光を放っている雪の中に相手が倒れてしまってから、ようやく足元を見る。鎧は着ていないが、飛田の兵だった。後ろから追いついてきて、驚きの声を上げる見張りの兵たちを手で制し、太刀を血振りしてから幕屋に再び足を踏み入れる。 「お見事」 その途端にかけられた声は、様々なものを含んでいた。苛立ちと、おかしみのようなもの。そして、何かほの暗いもの。垂れ幕をあげたせいで入り込んだ月の明かりに照らされた幕屋の主は、寝具の上に胡座して、血に濡れた刀を倒れた兵の着物で拭っていた。 「お前が最初に駆けつけてくるとは思わなかった。見張りを連れてきたのは、懸命だったな。あらぬ誤解を受けずにすむ」 「これがぼくの仕業とでも?」 「他に何があるか」 柳雅は、太刀をおさめずにいる紅巴を見ながら、拭った刀を鞘にしまった。 立ち尽くして、紅巴はその幕屋の中を見回した。戦の大将のために用意されたこの幕屋は、他の簡素なものとは違い、作戦を練るための陣営と同じように、木の枠組みでしっかりと建てられた仮屋のようなものだった。他よりもやや広い屋内には、二人の兵が倒れている。どちらも鎧は着ていないが、飛田の兵だろう。暗殺者という風体ではなかった。 髪も顔も血に濡らして、辺りを赤黒い血の海に囲まれて、柳雅は平然と座っていた。鎧は着ていない。緊迫した状況ならともかく、篭城されてしまえば長期戦になるのは目に見えている。そんな時にまでいつもいつも、鎧をまとって眠るわけではない。鎧の下にまとう着物だけを着て休んでいたのだろう。 「怪我は」 夥しい血の量を見て問う。すると柳雅は、蛾眉をあげて驚いた顔をした。 「おや、心配してくださるわけか」 「……当然だ」 こんな状況ですら、からかうような見下すような相手の態度に、少しばかり言葉に詰まる。苛立ちとは違い、気圧された、とも言えるかもしれない。それとも、戸惑ったと言うべきか。それを見て、柳雅は楽しげに笑った。 「これしきのことで、いちいち傷など負っていられないな」 「本條の手の者か」 「さあな、口を割らせる前に殺してしまった」 あっさりと柳雅は言う。 「飛田の兵の格好をして、本條の手の者がまぎれこんだと考えるのが妥当だろうがな。誰の手の者でも、どうでもいいことだ」 どうでもいいわけがない。自らの命を狙われていながら、柳雅はあっさりとそんなことを言った。しかしながら嘲笑う様な声の響きで。 幕屋の外からは、柳雅の名を呼ばわりながら駆けて来る足音がある。ようやく駆けつけてきた将たちを、紅巴の体越し、幕屋の外に見ながら柳雅は苦笑を浮かべた。 そして室内の惨劇、転がる死体と飛び散った血へ、改めて目を向ける。そこにあるのは彼の肢体と血だったかもしれない。 「先手必勝というつもりか」 顔にかかる、血に濡れて重い髪をかきあげ、柳雅は暗くつぶやいた。 |