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夜半になって紅巴が部屋に戻ると、暗い室内に人の姿があった。開いた障子の隙間からもれる光に照らされて、影が長く伸びている。 束の間驚いて動きを止めた紅巴だったが、中にいる人物が誰か気がついて、すぐに力を抜いた。 「こんな夜更けにどうしたんだい」 百合は立ち上がると、部屋に入った紅巴の方へ駆けてきて、そのまま抱きついた。 「ねえ、戦にお兄さまも連れて行かれるって、本当なの?」 抱きついた顔を上げもせずに、くぐもった声で問い詰めた。顔は見えなかったが、その声と震える肩で、彼女が泣きじゃくっているのが分かる。少女を見ていると、別れたときの妹を思い出した。彼女も、別れ際に同じように泣いていた。切実さは、きっと百合の方が上だろう。肉親と離れ離れになる悲しみよりも、彼女の環境の苛酷さのほうが哀れだった。 唐突に悲しくなった。戦になれば何が起きるか分からない。誰も命の保障をもたない。誰もが、自分の命も他人の命も保障なんてできない。兵法書の言うすべての条件を整えて戦に望んでも、必ず勝てるとは言えないのが戦だ。そしてただでさえ紅巴には、人よりもそれは切実な問題だ。体の弱い紅巴が、冬の行軍に耐えられる保障は更にない。特に今回は、身を守られて陣頭にあった今までとは違い、助けてくれる人も守ってくれる人も、身を案じてくれる人すらいない。 そして今回は、柳雅に折られた足のこともあった。傷は完治していたし、日常の生活には差し障りないが、骨を折った直後の手当てが十分でなかったためか、走るには支障がある。百合姫が心配しているのは、そのせいもあるだろう。 もしかしたらもう会えないかもしれないと改めて思った。妹とも、こうしてここにいる少女とも。 「連れて行かれるというよりは、ぼくが望んで行くんだよ」 「どうしても行かないといけないの?」 「そうしないと、身の証をたてられない。ここで生き延びることもできなくなってしまうから」 言わば賭けのようなものだった。ここで身の証を立てなければ、神宮の捕虜として殺される。戦に行けば何が起こるか分からないし、それを回避できず手に余った場合も、死ぬことになる。暗殺されないとも限らない。だけどもじっと座っているよりは、戦に行く方が、まだ生き延びられる可能性が高い。 「そうなの」 宥めるような紅巴の声に対し、少女の声は、まだ不満と不安が色濃かった。そして、諦めが。 「戦になったら仕方がないんだ。大丈夫だよ。ぼくはともかく、柳祥殿は多分無事に帰ってくる」 「柳祥さまのことはいいの、別にわたし、心配なんてしないもの!」 望んで政略結婚の道具になるのではないのだと、力を込めて少女は声を上げた。 紅巴はただ、彼女の頭を優しくなでる。しばらく声もなく泣きじゃくる彼女の気が落ち着くまで、ずっとそうしていた。 彼女の呼吸がおさまって、時々しゃくりあげるだけになったのを認めて、紅巴は少女にそっと声かける。 「百合姫、落ち着いて。座らないか?」 少女はただ黙って首を振る。離れるのがいやだ、というようにしがみついてくるので、紅巴はそのまま無理矢理にならないよう、彼女を抱きかかえるようにして、床に腰を下ろした。それには少女も逆らわずに、素直に座り込む。 追い返されないのをようやく認めて、彼女は少しだけ紅巴を離した。それから顔を上げて、泣き腫らした目を恥ずかしそうに袖でぬぐいながら、紅巴を見上げて、無理矢理のように笑う。 「ねえ、おにいさま。お話をして」 いつも彼女とは、一緒に本を読んだり、たくさんの話しをしたりして過ごした。いつもそれをせがむ時と同じように、少女は懇願して言う。紅巴は微笑んでそれに応える。 「そうだね、何の話がいい?」 「桜花のお話も、ご家族のお話もたくさん聞いたもの。お兄様のお話がいい」 「ぼくのかい?」 彼女の要望に応えたくて、いろいろなことを考えたが、思いつくことは家族のことと、彼らと桜花での思い出ばかりだった。 自分自身のことはあまりにも小さなことで、口に出して語れるようなことは何もないような気がした。 「ぼくの、話か……」 それから、みすみす妻を死なせてしまった愚かな男の話がふと思い浮かんだ。口をついて出そうになったそのことを、不思議に思いながらも喉の奥に押し戻す。ただの弱音だ。 本当に、つまらないことしかない。つまらない人間だと思った。流紅なら、もっとたくさんのことを話して聞かせてあげられるのだろうけれど。 「あまり、お話になるようなことはないよ」 申し訳なく思いながら紅巴が言うと、少女は少し暗い顔をした。残念、という様子とは違うようだった。悲しい顔でうつむいてしまった。何かを考えるように黙り込んで、しばらくして再び顔を上げる。表情には、切羽詰ったようなものがあった。 「神宮の人たちは、戦に来るの?」 「多分ないと思う」 「敵になって戦うことはないのね?」 確証などはない。紅巴が飛田の傘下に加わることで、どれだけの動揺が他国や神宮にあるのか、予測がつかなかった。しかしながら、念を押して尋ねてくるのに対し、再度事もなく頷いてみせると、彼女はほっとしたようだった。 家に帰りたいと言っていた紅巴が、その家族と戦わなくていいのだということを、素直に喜んだ。 「もしおうちに帰れたら、お兄様は、神宮のご当主になれるの?」 多分彼女は、それで幸せになれるのかと聞きたかったのだろう。勿論、飛田にいるよりはずっといいと分かっていても。 神宮の当主に。それを望んだことがなかったかと言えば、それは嘘になる。だけど結局、ほしいとは思わなくなった。今も、それを望まない。 「ぼくは当主に向いていない」 「どうして?」 「自分のことしか、考えてないからね」 「そんなこと、ないじゃない」 「本当なんだ。もし神宮家の誰もがいなくなって、ぼくにとってあの土地を守る意義を失ってしまったら、ぼくは多分もう何もしなくなるだろう。ぼくは、ぼくの大事なもののことしか考えていないから」 柳祥は、紅巴のことを神宮の人間らしくないと言った。それは、こういうところにも当てはまるだろうと思う。 「流紅は結局、ぼくよりもずっと視野が広い。責任感も強い。ぼくが死んでも、父が死んでも、誰が死んでも、あの土地を守り続ける」 その言葉は、まるで最初から死を覚悟することを覗かせているようで、百合姫は怒ったように言った。 「諦めているの?」 帰ることをではない。――望みを。 確かめる言葉に、紅巴は穏やかに笑みを返した。 「もうお手打ちになってもいいなんて、言わないって言ったろ?」 瞳を見返して、百合は、小さく頷いた。それでも必死に紅巴の腕にすがって言い募る。 「ちゃんと帰ってきてね。ずっと一緒にいたいわ。もっとたくさんお話がしたい」 「うん」 紅巴はただ頷く。それに怒ったように、駄々をこねるように少女は続けた。 「おにいさまがここにいられないなら、わたしも桜花に行きたいわ」 「うん、いつか、行きたいね」 「ちゃんと約束してくださらなきゃいやよ。わたし、このままご当主の正室になるのも、お兄さまに会えないのもいやだもの」 彼女が自分のことを思って言ってくれているのなど、分かっている。できることなら、紅巴もそうしたいと思う。幼い彼女にとって、飛田の家にいるのは過酷なことにしか思えない。 それとも、と彼女は言う。 「戦になったら、もしかしたら混乱に乗じて、逃げられるかもしれないわね」 体力と機会さえあれば、できないことでもないだろう。そうだね、とただ静かに応えて、紅巴は続ける。 「もし無事に神宮へ帰ることができても、いつかあなたを奪いに戻ってくると、約束するよ」 半ば言い聞かせるような言葉だった。口約束にもならない。紅巴がこの城から逃げ出すのすら、何度も失敗し果ては諦めざるを得なかったというのに。もし神宮家が飛田を降す日が来るとしても、それが一体どれだけ先の話になるか。 それでも、本心だった。彼女を放り出していくことはできない。小さな姫君がしてくれたことは、それだけの危険を冒しても、と思えるほどのものだったから。 しかしながら百合姫は、小さく言葉を落とす。 「戦に行かずに、一緒に逃げるって言わないのね」 言うなりうつむいてしまった。 彼女の沈んだ表情を、細い月明かりが照らしている。 従妹だから当然だろう、柳雅とも柳祥ともどこか似た面立ちだったが、彼女の優しい性格は相手に与える印象をまるで違うものにしていた。それは美しい月と同じようなものだ。同じものでもその表情で、冷たい冴えたところを見せるもの、温かな気持ちにしてくれるもの。 ひとしずく、その頬に涙が落ちた。 「いいのよ。白蛇には戻ってこなくて」 駄々をこねた時とは違うことを、彼女は言った。落ち着いた声で。 「お兄さま、大好きよ。絶対生き延びて。敵になったって構わないわ。それで百合を殺しにきてもかまわないから」 生きていてくれればどこにいても、敵になっても構わないと。 温かさの中に寂しさを持った少女は、可憐さの中にも、断固とした強さを持っていた。それはやはり彼女も、武家の女だからかもしれない。飛田の血を持つからかもしれない。ただの、意地なのかもしれない。そして何より最後に残るのは、優しさだった。 紅巴は何も応えず、懐に収めていたものを取り出した。いつも身につけて持っていたもの。神宮から持ってきたもの。 「これを預かっていてくれないか」 昔宮廷にあったという名器だった。どこから贈られたものだったか、神宮家に対して貢物として捧げられたもののなかにあったそれを、父に頼んで譲ってもらった。紅巴が滅多になくわがままを言ったことにおもしろがりながら、どうせこれを生かせるのはお前だけだから、と笑って下げ渡してくれたもの。 紅巴自身が、己のものとして持ち、財産と言えるのはこの笛と刀だけだった。刀は弟に渡した。またここで一つ、己の身を切り取って渡すように、自分の身を、心を明かすものを残していく。――他にもう、どうすることも思いつかなかった。彼女との絆は、これ一つに集約されるようなものだったから。 「次に会う時の約束に。また、ぼくの笛につきあってくれると嬉しい」 百合は袖で涙を拭い、紅巴を見上げた。 「いいわ」 確固とした声で応えると、紅巴の手から黒塗りの笛を受け取った。顔を上げて笑う。目元を赤く腫らして、それでも健気に笑う少女に、紅巴も笑みを返した。 そして彼は小さな姫君を優しく抱き寄せる。細い少女の体はとてもか弱く、悲しくなった。その白い額に唇を寄せる。 「ありがとう。あなたのおかげで、白蛇での日々もとても楽しかった」 白蛇に来て得たものがあるとすれば、彼女との小さな憩いの日だったと、思う。それはある意味、神宮にいるよりも和やかで、こころ静かに過ごせたときだった。 「お部屋にお戻り。小さな妹」 別れの言葉をつぶやく。君の幸せを願ってるよ、と。声に出して言えばきっとまた怒るだろうから心の中で付け足して。 その夜から、雪が降り出した。 静謐な町に、音もなく雪が降り続けて、翌朝には薄く積もった。進軍を迷わせるほどのものではなかったが、多少の障害にはなるだろう。 何より、城下を見下ろす眼前に広がるのは、この国の絶景のひとつとして語られる風景。桜花の桜と対比して語られる、白蛇の雪。しろく静かな町。 冷徹といわれる主君からはあまり連想できないような、和やかで、けれどもやはり、厳しい風景だった。 ――白壁の町が、ましろな雪に沈むのは。 |