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飛田の軍は、多少とは言え、民からの攻撃で混乱していた。隊列が乱れ、ようやく正したところに、陣を敷くとの命。慌しく人々が動いていた先、進行方向から見て右手から、隊列を整えた一軍が姿を現した。ものものしく鳴り響く、合図の太鼓。そして、人の踏み鳴らす足音。雪に吸い込まれはしても、人が多ければそれは十分に威圧を生じさせる。 突然現れた石川家からの攻撃は、まず駆けてきた騎兵によって、軍の半ばよりも少し前方、一所への猛攻から始まった。 「追い払え!」 当主の命令に応えて、軍に食い込もうとする石川の攻撃を、飛田の兵が押し出そうとする。そのために、さらに後方からも軍を動かそうとした時だった。 逆方向から、軍の真中よりも後方よりの位置へ向けて、新たな後添えの石川の兵が現れる。もともと軍は乱れ、将兵は思うように先へ進めないことに苛立っていた。――大将が露にした感情は、軍全体に伝染する。奇襲で相手の不意をつき、騎兵で徒歩の者を蹴散らし、石川の軍は、飛田を遮断した。前方、中央、そして後方へと。 城を落とすのに力を割いた石川家が、そもそも、自ら力不足で状況を傍観し続けた彼らが、大した兵力を持ち合わせているわけがない。だから、遮断したと言っても、とりあえず、のこと。無謀だと言えた。 しかしながら、軍が遮断されては、指揮系統がうまく行き渡らない。応戦のため、ひとりひとり、飛田当主のまわりからも、将が駆り出されていく。 そして―― さらに現れたのは、石川の兵ではなかった。前方でも後方でもなく、大将の座す陣中央の右手、そこから大きな声があがった。さすがに驚き、飛田当主も顔を振り仰ぐ。 「申し上げます!」 駆けつけてきた兵が慌て、喉を詰まらせて叫ぶのは、ただ単に、急いでいるからというだけではないようだった。さすがに、直に大将を狙ってきたとしか思えない位置からの攻撃、先刻までよりもずっと間近で、敵の旗印もよく見える。争いのためだけでないざわめきが、周囲に満ちた。 白い端に、赤の色で、桜の紋。 「神宮です!」 決定打になる言葉。飛田当主が、目を見開いて紅巴を振り返る。しかしながら彼は、同じように驚いた表情の紅巴と目があって、舌打ちした。 「討って出ろ、これ以上軍の中に踏み込ませるな」 新たな命を受けて、兵が駆け出していく。飛田当主を守るため、周囲にいた人間が応戦に走り出した。それを見送り、飛田当主は再び紅巴の方へ目を向ける。 「どういうことだ」 「わたしには、何も……」 どういうことか分からないのは、紅巴も同じだった。分かるのは、石川家と神宮家が手を組んだのだろうということくらいで。 飛田当主は、苛々と眉根を寄せて、紅巴を睨みつける。 「立て」 脈絡のない命令に、紅巴は反応を返しかねて困惑した。常になく、自分自身が動揺しているのも分かる。その彼の、束の間の迷いにですら苛立ちを募らせた様子で、飛田当主は足音も高く紅巴の元へ歩み寄ると、彼の腕を掴んで無理矢理に立ち上がらせた。 「お前が神宮に応戦しろ。多少の動揺は誘えるだろう。忘れられていなければ」 「しかし……」 「お前が、本気で飛田に寝返るつもりなら、これ以上の好期はないだろう! 一軍を率いて、神宮に抵抗しろ。これがお前の差し金でないと言う、身の潔白を示して見せろ」 行く場所も戻る場所もなく、突然の攻撃に混乱しているのは、当然軍そのものだけではない。勝利を目前にして、栄光を手に入れたも同然のところを、横から背を押されて突き落とされたのでは。まっ逆さまに暗闇へと落ちだした事態に、飛田当主の怒りは尋常ではなかった。有頂天になっていた自分と、きっとそれを嘲笑っているだろう周囲への、八つ当たりのような怒り。 紅巴の腕を掴む手に、ぎりぎりと力が込められる。睨みつける目も、感情の奥から吐き出されるような声も、赫怒に染まっていた。 「そのまま神宮へ逃げられてはたまらぬからな、おかしな動きを見せたら、後ろからいつでも刺し殺せるように見張りをつけてやる。――柳雅」 息を詰めてただその目を見返す紅巴を睨んだまま、背中越しに弟を呼ぶ。返答は返らない。ただ、周囲の喧騒が、怒号と悲鳴が取り巻いている。 「柳雅、聞こえないか」 再度の呼びかけに返ってきたのは、流れるような声でただ一言。 「馬鹿だな」 聞き咎めて飛田当主は、弟がいるはずの方向を振り返る。その真後ろに、呼ばれた少年が立っていた。現状にも、兄の激昂にもまったく動じた様子はなく、赤い唇にいつもの笑みを刻んで、涼やかにそこにいた。それは、怒りに揺れる相手を、見下しているも同然の笑み。 しかしながら、それに対して飛田当主が何かを言う間もなく、柳雅の手が伸びた。振り返った相手の、腰に帯びた太刀の柄を握る。何の迷いもなく引き抜いた。白刃が一閃する。 当主が纏う豪奢な鎧の継ぎ目、胸板の横の脇から真っ直ぐに、刃を突き入れた。心臓をたった一突き。少しの迷いも手加減もない。 「くだらない」 驚きに目を見開く相手にそう吐き出すと、一気に刀を引き抜いた。血を噴き出しながら、すでに息絶えた死体が、支えをなくして倒れていく。 力を込めて腕を掴まれたままだった紅巴は、引きずられそうになりかけ、振りかかる血に濡れながらも、なんとか相手の腕を引き剥がす。顔を上げるよりも先、頭上を迫る風に気がついて素早く身を引いた。血に濡れた刀が、目前の地面に突き刺さる。――柳雅が、投げ捨てたのだろう。 そして間髪いれず、柳雅は自分の太刀を抜いて、紅巴に向かって振り上げた。 何を考えるよりも先に、目の前に刺さった太刀を握る。刃に絡まった血のしぶきがほどけて、ふりかかる。打ち合わされた太刀が、ガキと堅い音をたてる。 「どういうつもりだ!」 怒りを叩きつけた紅巴に、柳雅は太刀を引き、身を引くと、ただ首をすくめて見せた。 「先に俺を狙ったのは、そいつの方だ。先手必勝で狩られる前に、手を下しただけのこと。捕虜と俺と、三人きりになるような状況を招くそいつが悪い」 周りの人間は、応戦のために出払っている。騒ぎも人の声も、ほんの少しの間隔を置いて、先の方だ。もし雑兵がこの光景を目にしていても、握りつぶすことが、柳雅には簡単にできる。 そして妙な動きをする民の叛乱。その中にまぎれて、柳雅を狙い妙な動きをする――多分、どこかの手の者だと思われる人間。そして、実際に包囲中に命を狙われたこと。結局、まだ掌握の出来ていない領内に、いつ本條の臣が反旗を翻すとも再び民が暴れだすともつかない柳雅を残していくと言った飛田の当主の言葉は、柳雅を鎮静のための捨石にするのだと言ったも同義ではあるが。 「何の証拠があってそう決め付ける」 何もかも、証拠などはない。根拠もなく、予想でしかない。民を先導したものも、潜り込んでいた者も刺客も、別の手の者かもしれない。本條家かもしれないし、石川の、神宮の、もしくはまったく別の場所からの横槍かもしれないというのに。飛田当主の考えだって、単純に言葉面(づら)そのままの意味だったかもしれない。――確かに、浅はかなところのある人だったから。 しかしながら柳雅は、反論する紅巴を見て、冷淡に笑った。 「言っただろう。誰の手の者でも、どうでもいいことだと。俺の命を狙いそうな相手を、まずひとつ排除しただけのこと」 確証など必要ないと。 「排除だと……!」 吐き気のする理屈だ。 「自分の兄を手にかけるなど、お前は!」 同族殺しの家系だと、噂されていた。実際にそのせいで飛田の血は減っているのだと言われていた。だがそれでも、目の前でそれが繰り広げられるとは思わなかった。 敵であっても、いくら戦の世であっても、気分が悪い。――それは、神宮が甘いのか。自分の考えが甘いのか。飛田がおかしいのか。 逡巡する紅巴を見て、柳雅は笑みを深める。 「守るべきものは、己のみだ」 それは、悲しい理屈かもしれなかった。飛田当主が、懸命に虚勢を張り続けようとしていたのと同様に、己のみを守ろうとしなければ生きていけないのが飛田という家ならば。しかしながら、不遜に笑いながら言う柳雅には、そんな影は少しも見えない。 彼はどこまでも尊大で、その笑みは鮮烈で、意識も存在も、強者そのものだった。 「それに、よく見ろ」 柳雅は、自分の足元を指し示す。倒れ伏した兄。踏み荒らされた雪にしみていく赤い血。そして、その兄の腰には、太刀がなく。――柳雅に刃を向けられ、とっさに紅巴が取った、この太刀。大将の周りに従うべき諸将や兵は、応戦のために駆けずり回り、出払っていて誰も見ていなかった。たまたま、今この時だけ! 「俺じゃない。お前が殺したんだ」 こんな状況でも、柳雅の笑みはどこか雅やかだった。返り血に鎧をぬらして、けれどもまとう空気に穢れたところがないのは、理不尽だ。だが今の柳雅を見れば、血族を恐れていた飛田の当主の方がやはり、まだ人間らしかったように思う。 「人間らしさも何も必要ない。これが戦国だ。引き際もわきまえず、いたずらに軍を振り回すことしかできない凡愚が頂点に立つよりはずっといいだろうさ」 しかしながら、柳雅のこの行動が決して、たった今思いついたことではないことが、紅巴には分かっていた。たまたま人が出払っているのに気がついた、衝動的な行動じゃない。 「知っていただろう。砦が狙われているのも、城が狙われているのも! お前がそれを握りつぶしていたくせに、情報がなくて、正しい判断などできるものか」 「現状だけでも、多少の予測はできたはずだ。それもできなかった人間が、例え何を知っていたところで、狼狽して自滅を招くだけだ。それにあんな砦のひとつ、惜しんで何になるか」 砦だけではない、砦を落とすに至った労力ですら、簡単に切り捨てる豪胆さ。――冷淡さ。 「最初から、何かがあれば、砦など捨てて後を追ってくるように言ってあった」 それなら、砦は落とされたわけではない。単に、飛田が捨てたのだ。まだ兵力は生きている。追ってきているのなら、飛田には援軍が来る。 「城は?」 「飛田は城のほうにはそれなりの力を割いて攻撃した。滞在している兵も少なくはない。砦のように小さなものならともかく、いくら叛乱でも民は城を攻撃などしないだろうし、それで落とせるとは石川だって思わないだろう。城を狙ってくるなら、当然石川の兵がからんでくるとは分かっていたからな。それが簡単に落ちては怪しまれる。城は、本当に落ちたのだ」 見捨てたのだ。 「石川は、城を落として満足している。こちらが罠にはまったと思っている。神宮もだ」 「自分だけ把握して、誰も彼も騙したのか」 「何が悪い。最後に勝てばいいことだ。どうせ石川には、飛田の軍を分けてそのまま長く抑えていられる余力があるとは思えない。そもそも、こちらの斥候に見つからずに行軍してきたのなら、神宮にも大した兵力があるとは思えないし、奇襲をかけて驚かせておいて、浮き足立ったところを、当主を狙うつもりなら、迅速でなければならない」 しかし、当の大将は死んでいる。 「さあ、どうする。神宮のお人は」 |