第六章






何処に




 突然腕を強く掴まれて、紅巴は何を考えるよりも前に、思い切り振り払った。不測の事態に驚き焦り、彼の腕を掴み命じた飛田当主の手を思いだす。そして、柳雅の暴挙を。当然のことながら、まだまざまざと脳裏に焼きつく光景だった。
 無理矢理それを押しやり、腕を掴んだ相手を見るよりも前に、手に握ったままだった太刀を振り上げるが。
「若君!」
 驚き慌てる声が聞こえて、上げた手が止まってしまった。どこから聞こえたものなのか、誰が誰に向けてそう呼んでいるのか、考えてしまった。
 そこにきてようやく、呼びかけてきた相手の、飛田の鎧を着た人間の顔を見て、唐突におかしくなって笑ってしまった。走ったせいで早まった動悸とこみ上げる笑いで、息が苦しい。
「何をやってるんだ?」
 誰何の声をかけるまでもない。当然、飛田の人間が、紅巴に向かってそんな呼び方をするわけがない。
 それは紅巴自身、見覚えのある神宮の将だった。木崎と言う名の壮年の将は、血に汚れた飛田の雑兵の小具足を身にまとい、息を切らして紅巴の前に立っている。彼の周辺、数人の兵が見えるのは――彼に付き従っているようだから、同じように、彼に従ってついてきた神宮の兵だろう。
「笑わないでください。あなたを助けるように命じられて、やっとなんとかこちらに紛れ込んだんですから」
 救出劇と再会にあたって、突然笑われるとは思わなかったのだろう。真面目な顔をした木崎は、少し腹を立てたような表情で言った。
「そんな格好をして、逆に味方に攻撃なんかされたらどうするつもりだったんだい?」
「ちゃんと目印がついています」
 言われて見ると、確かに腕には白い布が巻かれている。しかし今はまだ、戦闘の波が押し寄せてきていない陣の内側だから、こうして話などしていられるものの、混戦状態の前線でいちいち目印など確認している余裕があるはずもない。彼らがたった今姿を見せたと言うことは、もともと紛れ込んでいたものではないのだろうから、前線を通り抜け、飛田の陣の内側に駆け込んできたのだろう。それは大変な労力と危険があったはずだった。
「そこまでして、どうして飛田の陣に? 柳祥殿なら――」
「違いますよ。それも、できればの下知はありましたけど、暗殺目的じゃありません」
 紅巴の言葉に、少し力の抜けた笑みを浮かべて、木崎は言う。
「あなたは、変わらないですね。勿論、我々はあなたをお守りして、お連れするようにと遣わされたのですよ」
 吐息がもれた。目の前を、白い空気が掠める。紅巴が顔をうつむけると、木崎は再び彼の腕を掴んだ。飛田当主が陣を張るといったときに、用意されて放置されているいくつかの天幕のうち、近くに建つものに駆け寄る。――彼の飛田の兵の扮装は、こんなところでも役に立っていた。兵に追われていた紅巴を捕らえているのだと誰もが錯覚する。身を潜めると、彼は言った。
「お屋形様から、命じられております。まずはあなたの真意を問うようにと」
 何の示し合わせをしたわけでもない。紅巴が飛田の配下へ降った現実は、やはり神宮家へ逡巡とためらいを招いたのだろう。紅巴は、小さく笑みを浮かべる。
「父上は、ぼくをなめているのかな」
 くすくすと、笑いがもれる。けれども来崎は、今まで何度も紅巴に従って戦へ足を運んだ将だった。どちらかというと、流紅よりも紅巴寄りの人間で、確かに彼が紅巴を迎えに来たのなら、簡単に見捨てられることはないだろう。その人選を思うだけでも、そんな命令をしておきながら、結局父は何もかもをお見通しなのだと思うと、おかしかった。
「ぼくは、最初から最後まで、神宮の人間でしかないよ。帰れるものなら、帰る」
 紅巴にとっては、これ以上ない人選だ。だが、神宮のことを思うなら。
 実質、神宮は流紅を次期当主と決めた。それを皆も認め始めている。そこに紅巴が帰るのは、良いことなのだろうか。
 ――家中に、混乱を撒くことになりはしないか。
 よぎったことを、とりあえず押しとどめておく。後でもいい問題だ。
 紅巴の返答を聞いて、木崎はあからさまにほっとした様子を見せた、違う返答を返した時の命も、受けていたに違いない。
「背負ってでも、神宮へお連れいたします。必ず」
 断固として言い張る木崎に、紅巴はまた笑みを浮かべる。律儀なこの将なら、実際にそうするだろう。だからそれにはいちいち応えず、状況を把握するために、別のことを問う。
「なぜ神宮がここにいる」
「石川との盟約で。石川家は、この土地を手土産に神宮へ降ると。神宮家は形だけの参戦ですが」
「流紅を陣頭に押し立ててか」
「そうです」
 木崎は、はっきりと言った。
「我々は、あなたをまず保護するようにと使わされました。弟君は、飛田の当主を討つことを最優先に、最短で戦を終わらせると」
 奇襲は、すみやかに行動してこそ意味がある。柳雅が言ったように、迅速だからこそ意味がある。けれど、彼らが駆けつけてくる間に、彼らの知らない間に、状況はまったく変わってしまった。彼らの手によってではなく、敵自身の手によってだ。この先どう転がるというのか。
「誰かすぐに動ける者は」
 声をかけると、すぐに木崎が、誰でもお望みの通りに、と応えた。生真面目な彼に笑みを向け、紅巴は再び思案する。
 普通、戦の大将が討たれたなどという方法は、何が何でも押し隠すもの。一気に軍が崩れるのは必至だからだ。しかし、どうする。もし自分が飛田家の立場なら。戦の真っ只中で、あんなことを仕出かした柳雅の立場なら。彼が、勝算なくあんなことを仕出かすとは思えない。そして、考えがあるからこそ、紅巴を逃がしたのだ。
「神宮の陣へ戻って、飛田当主が討たれたと知らせろ。石川にもだ」
 神宮は浮き足立つだろうか。知らせを受けた将その人が血気に逸れば、朗報であってもかえって軍は混乱する。しかし、流紅なら引き締めていられるか。
「流紅には、ぼくの無事を知らせてほしい」
「しかしそれなら、あなたが、ご自身で軍にお戻りになれば……」
 何か良からぬことを考えて自分を危険にさらす気では、と怪しむ様子の木崎に、紅巴は静かに返す。
「ぼくでは、この混戦状態の中を突き抜けて知らせを持っていくには、不安がある。別の者が行った方が早い」
 またそんなことを、とぶつぶつ呟いてから、木崎は、ハッとした様子で言った。
「飛田の当主が死んだとは、本当ですか。騒ぎが聞こえたのは、そのせいなのですか。一体誰が」
「でまかせじゃないし、殺したのはぼくじゃない。でも、この際それはあまり関係ない」
 事実がどうであれ、それは大した問題ではない。結果として、何を表に出せば人を誘導できるかが重要だ。
 どちらにせよ、神宮がこうやって出てきて飛田と争うのであれば、機を狙って紅巴自身が実際に手を下さなかったとも断言できない。
 それに、飛田がこれを利用して兵の士気をあおろうというのなら、神宮にだって同じことだ。捕らえられていた嫡男が、敵の大将を討って復讐を果たし、軍に戻ってきたというのは。十分に士気を高めることが出来る種だ。しかし。
「当主がすでに亡き者であれば、この戦はもう勝ったも同然ではないですか」
 木崎はそう言うが。そもそも、どうすればこの戦は終わるのか。
「大将が討たれたら、戦は終わりか?」
 疑問を口に上らせる。声に出してみて、そんなわけはない、と心中で答えが出た。
 柳雅が、飛田の当主を殺したことで、事態が思わぬ方向へ転がりだしている。もし飛田の当主が戦闘中に陣頭で討たれたのなら、例え柳雅が陣を保とうとも、士気が下がるのは防げないことだろう。利用しようなどとは思わないはずだ。素直に撤退したに違いない。
 しかしながら、事態はまったく違う。この土地を手に入れたかったら、本條を下さなければならなかった。しかしながら本條家は、すでに落ちている。本條を追い落とした飛田をどうにかしなければならないのというのなら、当主はすでにいない。それなのに、飛田の陣は崩れていない。――まだ、この事態が知れ渡っていないからかもしれないが、それだけではないはずだ。
 飛田家には、まだ柳雅が。
 こうなったら戦の展開は、柳雅を討つか、流紅が討ち取られるかの、どちらになってしまう。それとも、消耗戦になるか。
 柳雅が何を言おうと、現状では、優位なのは当主の討たれた飛田ではなく、神宮の方だ。しかしながら、だらだらと消耗戦になり戦が長引けば、石川は飛田を抑えていられなくなるだろう。更に、蒲原を捨てた飛田の兵が追いついてくる。迅速に終わらせてこそ神宮に利があり、長引かせてこそ飛田家に有利に運ぶ。飛田は粘るだろう。――それが、できるはずだ。
「とにかく、どこかで馬を拝借しよう。あちらの陣へ向かわなくては」
 あとは紅巴自身が、神宮の足手まといにならないようにしなくてはならない。自分から、あちらの陣営に走っていく必要がある。そしてあとはただもう、自分自身の存在が、これ以上この戦の流れを止める存在にならないことを願うばかりだった。








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