第六章






生まれたところ




「再度、飛田家に、講和を申し上げる」
 すでに三度目。あがる息を呑み紅巴が上げた声に、周囲の人間の目が、自分の方へ向くのが分かった。神宮も飛田も。紅巴の方へ向かっていた飛田の兵が、何事かと足を止める。
「飛田家は、国の東をもっていかれるがよろしかろう。蒲原と、才郷を抑えた神宮は、西の地をもらう」
「わが兄の慈悲で生き永らえた者が、いかな戦国の世とは言え、卑劣な手段で相手をだまして命を奪った。そのような人間の言葉に信はおけぬ」
「神宮の将は、ぼくではない。流紅だ。お前が信のおけないのは、流紅なのか、ぼくなのか」
「答えが必要か?」
 周囲の喧騒に負けず、強く言い返す柳雅の声は、相変わらずにも雅やかで、嘲るようだった。
 分かっていた。はじめから。単純にそうすることが、何よりも講和の役に立つことも、飛田の大義名分をなくすことができるということも。だけど、これだけは避けたかった。どうしても。だから、何とか柳雅を抑えられればと思ったけれども。
「木崎、ぼくよりも流紅を守れ」
 静かに声を上げる。人の波をかきわけようとしていた将は、憤慨して怒鳴り返した。
「何をおっしゃいます!」
「神宮を思うなら、そうしろ。停戦の使者は必要ない!」
「兄上!」
 咎めるような声が聞こえる。引き上げさせなければならない。再び標的になるようなことがあってはならない。
 ――柳雅の言葉に反して、白蛇の雪を見ることはできた。だけども、彼の言う通り、桜花の桜は望めないだろう。
 馬を射られ、徒歩(かち)で駆けてくる弟を見ながら、紅巴は人々に蹴散らされ、靄のように巻き上がる雪の中、佇んでいた。何の命も下さない主に対し、飛田の兵は動きかねているようだった。
 ひどく、静かだ。
 血煙の中にあって、呼吸は苦しくても、それでも心は静かだ。それこそ降り積もった雪の日の、誰もいない朝のように。
 悲嘆に暮れた結果ではないからだろう。それともやはり、嬉しいのかもしれない。助けに駆けつけてくれたことが。自分で選ぶのだということが。
「ぼくも神宮の血を引く人間だ。神宮家の恥になるわけには行かない」
 その言葉に、紅巴がどうしようとしているかなど、察しない人間などいない。
「兄上、栄光ある死など、わたしは望まない! あなたは神宮家に必要な人間だ!」
「お前がいる」
 紅巴は、静かな顔で微笑んだ。
「わたしにすべて押しつける気か!」
 誰もに流紅が言われ続けたことなのだとは、紅巴も知らないはずだ。だけども強(したた)かな兄は、笑ったまま言った。
「押し付けるよ。このことに責任を感じるなら、流紅が神宮を良い国にすればいい」
 簡単に言い切られ、束の間流紅が言葉を飲み込む。
「流紅、ぼくも栄誉は望まない。だけど、お前と、神宮と、民のためだから」
「わたしがそれを望まないんだ。あなたが必要だ、兄上!」
 泣き叫ぶ流紅を見て、相変わらずだな、と思う。
 流紅を、殺してやりたいと思ったほど、憎んだこともあった。それはとても幼い頃の話ではあったけれども。あまりにも遠い昔のことで、そんな記憶も霞んで遠い。
 小さな頃はよく一緒に剣の稽古などもした。だけど一度、紅巴が流紅に怪我をさせてしまったことがある。大したものではなかったが、流紅の泣く声に臣が慌てて駆けて来て、紅巴を叱責した。黙ってそれを聞き、誰もが流紅を気遣い手当てのために連れて行こうとしてるのを大人しく見ていた。その頃には泣きやんでいたはずの流紅が、人々に囲まれながらまた泣きそうな顔をしていた。とても申し訳なさそうな顔で、紅巴を見ていた。それは紅巴を一層惨めな思いにさせたし、馬鹿にしていると怒ってもいいものかもしれなかった。
 そんな紅巴の気持ちに、流紅が気づかないわけがない。だけども、向けられていたのは、ただ紅巴を気遣う目。そしてそれまでいつも、稽古をしようとしつこいくらいに紅巴にまとわりついていた流紅が、二度と稽古をしようなどとは言い出さなくなった。
 優しい弟を憎み続けることができるわけがない。
 拒絶を向けても慕ってくる彼を、愛しいと思えないわけがない。強く毅然と立つ心を、妬むよりも羨むよりも強く、愛しいと思わないわけがない。
 眩い陽の光を憎んだりしないのと同じように。
 ――生き延びるための理由が、命を盾にされるためだけでも構わないと、思った。生きてさえいれば、機を見て逃げ出すこともできるだろうから。
 でももし、それが現実になるなら、物事は振り出しに戻る。紅巴の命の問題は、彼一人の手に余るものになる。仇討ちを大義名分に押し立てる飛田家を抑えるのには、その仇を討たせるしかないのなら。
 百合姫に、生き延びると約束したそれは、嘘ではない。本心だった。
 だけどもそれは。最も優先されるべきことが目の前に立ちはだからなかった場合のこと。嘘ではない、本当に、彼女を迎えに行くことができたらいいと思う。
「できればもう一度、桜花の桜が見たかった」
 つぶやく。あまりにも小さくて、平凡な願いだった。故郷に帰りたいというのは、けれども、あまりにも難しすぎる問題だった。
 そして、顔を上げる。冷笑を浮かべる少年に対して。宣戦布告のように、強く声を上げた。
「神宮家の誠意の証を受け取るがよろしかろう。我が身に信が置けないと言うならば」
 心の中で少女に詫びて、手にした刀を一閃させる。腹ではなく、確実に首筋を狙ったものは、彼の覚悟の程をあらわしていた。
 血のしぶきが、鮮やかに虚空を染めた。雪の上に滴り落ちた染みは、花弁のようだった。
 ――花は桜木。
 桜の宮には、神が住まうという。
 艶やかで、優しいひとが。







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