第六章






嘆き




 悲鳴があがった。
 鬨の声でもない、悲痛な大声に、喧騒の中にも困惑が生まれている。
 異常さに困惑の色を見せるまわりの状況などまったく目に入らず、流紅は無意識に、声をあげていた。喉の奥から、体中の力を振り絞るかのように、わめき続けている。
 雪の中に滲みる赤が目に痛い。
 ――――助けたかった。
 ただ、それだけだった。すぐそこにいたのに。叶いそうだったのに。
 それがなぜ、こうなるのか!
 彼を奪って行った飛田が憎くてたまらない。自分から諦めた兄が憎くてたまらない。どうして、どうして、どうして。
 ひたすら心の中で繰り返す。答えのわかっている問いを、飽くことなく繰り返す。
 そして、助けることを何より望んで、できなかった自分が、悔しい。この事態を止めることができなかった。兄が、何もかもを諦めたのではないのは分かる。どうしてそうしたのか、わかっている。流紅だってそれを防ぎたくて、止める尊芳を振り切って停戦の申し立てのために出てきたのだから。それでも、たったひとつ最後のところで、諦めないでほしかった。神宮のためとは言え、流紅のためとは言え。――これは有事だ、それは分かる。国を贖える命を持つものとして、逃げるわけにはいかない道だった。だけども!
 一体どこから間違えたのだろう。どこからやり直せば、違う道に辿り着いたのだろう。
 望んだのは、こんな結果ではない。決して!
「若君っ」
 横から神宮の兵が彼を止めようとするが、流紅は喚きながら前に進むのをやめようとしなかった。
 成り行きを見守っていた飛田家も、未だ手を止めている。当主の仇を討つという名目で血気に逸っていたところ、目標がなくなって少しの間だけ動揺しているかのようだった。すぐに、目の前の流紅に気がつく。その前に一度引き上げて、あらためて停戦の使者を出さなくてはならない。その前に飛田家が立て直せば何もかもが終わりだ。戦の終点が、見えなくなってしまう。紅巴の行動も、まったく意味がなくなる。遺体を放り出してでも、戻らなくては。
 それでも流紅は、身を守るのも忘れてもがきながら進もうとしていた。押さえられながらも、懸命に手で雪を掻く。彼の目は一点しか見ていない。
 その彼の横からさらに、刀を持たないほうの流紅の腕を両腕で掴んで、引きとめた者があった。
「若君」
 その声には、流紅も聴き覚えがあった。
「流紅様。聞いてください」
 ――懇願のような声音も、言葉も、聞き覚えがあった。それもやはり、悔恨の記憶と共に流紅の中にある。そして、わずかの間の安らぎと共に。
 喚くのをやめた流紅の耳に、さらに泰明の言葉が飛び込んできた。
「茜子が、身篭ったんです」
 大きく息を吸って、流紅の動きが、止まる。目を見開いて、兄を見据えたまま、止まった。
 泰明は、彼も涙を流しながら、訴えていた。
「あなたには、神宮の地を守る義務がある。あの土地と、人を。ここで立ち止まるのなんて、俺が許しませんよ」
 ――――それは。言われるまでもなく。
 言われるまでもなく。
 目に映るのは、駆けつけてくる人、立ち向かってくる人、彼を守ろうとする人。泥の色と鎧と馬と翻る旗と。すべての雑多な現実。
 そして血の色と、倒れ伏す人。
 ただ後に残るのは、案じてくれた心。残ったのは、案じていた心。そして人がもがき、苦しみ去っていく間にも、それを惜しむ間にも、期せずして飄々と、生まれてくる命。
 それは言いようのないものを、心の中から沸き起こす。ただもう悲しみを。――愛(かな)しみを。



 雪が降る。それは音もなく、天から降りてくる。
 桜よりもずっと白い、色のない空白の色で、染めていく。無に帰していく。
 今は、そうやって何もかも、消し去ってくれればいいのにと、願った。
 己の所業も、起きた結果も、それを巻き起こした人への怒りも。手に残されたものも、何もかも何もかも。



 命のあり方に、短命だなどという命運があるのだろうか、と茜子は思う。そんなもの、一体誰が決めるのだ。怨念だとかで振り回すことなど、出来るわけがない。
 常盤の言葉に、茜子は変わらず明るく笑う。
「そんなもの、生きた人の意志の前では、無意味だわ」
 人外の力を認めて、まあ仕方ないとあきらめるのも、強さかもしれない。何もかもを放り出してそのせいにするのではなくて、あっけらかんとして立ち向かうことが出来るのは、それもまた力だろう。
 達観するのだって、突き進むのだって、意志ひとつだ。
「紅巴様のことはよく知らないけれど、流紅は、生きて生きて生きて、何があっても律儀に生きぬくことをやめない人だわ。怨念だなんてそんなもの、強く進む人の前には、何の意味も持たない」
 悲観せず、自分の抱えたものを決してあきらめず、言い切った茜子に、常盤はただ感心して応える。
「さすがだな」
 ――笑う。
「あなたとあなたの子に、幸があるように」
 心から、そう思う。
 茜子はその言葉に、珍しく素直なことを言う常盤の顔を見上げた。目があうと、飄々としたいつもの顔で笑った彼に、笑みを返す。
「ありがとう」
 その声は、晴れやかだった。空が暗くとも、雪化粧で寂しい色彩の中にあっても、鮮やかだった。
 迷いのない顔で茜子は笑った。







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