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戦が起きたのは冬の初めだったというのに、泰明の言葉を聞いてからようやく茜子に会いに行けたのは、桃の花が咲き始めようかという頃だった。父にも誰にも事情を言わず、とにかく世話になっていた泰明に改めて例を言いたいから、と無理矢理こじつけて富岡まで足を運んで。 供を連れて歩いていた流紅は、ようやく目的の人物を見つけて声を上げた。相手が自分に気がついたのを見ると、連れの者にそこで待っているように告げてから、小走りに駆け寄る。立ち止まって待っていた少女は、駆けてきた相手を見ると、あっさりとした口調で笑いながら言った。 「どうしたの。こんなところに来られるほど暇じゃないでしょうに」 「どうしたも何も……」 ようやく見つけて、久しぶりに会った少女の、あまりにも相変わらずの様子に、言葉が続かなかった。呆れたのか、嬉しかったのか、自分でもわからない。 つい先日別れたばかりのように、そして思いかけないところでいたずらな子どもを見かけたかのように、あっさりとした、そして親しみのあふれた態度だった。彼女の言う通り、こんなところに足を運んでいる場合ではないのは事実で、その相手を見て一番に言うのがこれなのだから、もう笑うしかない。 しかも、山村の家を訪ねてもそこに目的の人はおらず、どこに行ったのだと驚いて問えば、相変わらずだと、泰明は辟易して答えた。大きくなったお腹を抱えて、あちこちを歩き回っているらしく、ようやく見つけたのは、やはり田の中をぬうようにしてある道端でのことだった。 「お前こそ、何をやってるんだ。泰明が困ってた」 「あら、妊婦だって運動が必要なのよ。知らないの」 「知らない」 素直に答えると茜子は、あら、と言って笑った。 「とにかく、家に戻れ」 「戻るけど、今は戻らない。話があるなら、歩きながらでも聞くわ。家では話もしにくいでしょ。爺様が卒倒しそうだし」 夏の日に山村家を訪ねた時の老人の様子を思い出して、流紅は苦笑した。確かに、彼女の言う通りかもしれない。 色々考えていたというのに、相変わらず少女は強くて優しくて、流紅では敵わない。 「それなら、とりあえず座れ」 「別に構わないわよ」 「わたしが構うんだ。いいから、大人しく座ってくれ」 懇願のようにして言うと、さすがに茜子もそれ以上は何も言わなかった。大人しく腰を下ろす横に、流紅も腰を落ち着ける。顔を前に向けてため息をついた流紅を見て、少女は笑った。 「黙ってろって言ったのに。やっぱり兄さん、 ばらしたのね」 「どうして」 「前言撤回なんてしていないでしょうって、言ったでしょ。邪魔になりたくないもの」 あまりにもあっさりと言うものだから、先程とはまた違う意味で、返答に詰まってしまう。見損なわれていると、思った。同時に、そうやってあまりにも聞き分けのいい彼女が、寂しかった。 「無欲だな」 つぶやくと、彼女は小さく笑みをこぼす。 「すねてるわね」 「違う。お前たち兄弟、二人とも無欲だっていうんだ。泰明は、相手がわたしだと知っていて、わざとお前をどこかに嫁がせようとしたんだろう?」 「そうね。わたしが身篭ったのを知って、兄さんが怒って相手は誰だって言うから、流紅だって答えたら、余計に怒って黙り込んでしまって。しばらく人と口も利かずに何をしているのかと思ったら、無理矢理、わたしを手近なところに嫁がせようとしたのよ。今のままだとあまりにも外聞が悪いから。誰の子とも知れない子を身篭って産んでしまえば、今後の道がなくなるからって、わたしのために」 茜子が流紅に、何も言う気がないのを分かっていたから。そして流紅に言えば、必ずこうして来ることが分かっていたのだろう、彼女は。 「縁談は突っぱねたと聞いた」 「だって、おかしいじゃない。わたしは少しも恥じてないもの。だいたい、わたしがいなきゃ細かいことに気が届かないくせに、わたしを追い出そうとするなんて、許せないじゃない。それに何より、相手に失礼だわ」 冗談めかして彼女は言う。流紅はつられるように笑い、うまくいかなくて苦笑じみたものになってしまった。彼女は相変わらずに手厳しい。口調はきっぱりとしていて、どんな猶予だってあるのだとは思わせてくれなかった。 はじめに彼女に会ってから、いくつも季節が動いた。吹きすさぶ凍風は過ぎ去り、再び国中を、和やかな光と色に満ちた季節が訪れようとしている。雪は融け、若葉が萌える季節。あたたかな日差しの下、風が山嶺(さんれい)を行過ぎていく。光風が、草木を揺らす。目の前の少女の髪を、着物の袖や裾を翻して去っていくのを眩しく見送りながら、流紅はその言葉を口にする。 「桜花に来ないか」 来い、とは言わなかった。 わざわざ会いに来て言う言葉など、茜子も当然予想出来ていたのだろう。彼女は動じもせずに流紅を見返した。――言葉がそれで終わりではないのを、知っているかのようだった。その目に促されるように、流紅は続けて言う。 「茜子にそばにいてほしいと思う。一緒にいたいと思う。でも、正室としては迎えられないんだ」 他に言いようもあっただろう。けれどその口から出てきたのは、何も隠さない事実だけだった。強引にでも連れて行って、彼女を正室にすることも、不可能ではない。家臣に文句など言わせず、自分のやりたいようにやればいい。誰が何を言おうとも、どれだけの問題が巻き起ころうとも、神宮の領内にいる限り、流紅の言葉を曲げることが出来る人間など、もうほとんどいない。――するべきでないことでも、出来ないわけではないから。だけども。 それでは、家内が一層荒れる。石川との盟約を失い、神宮家は体面に傷を持つことになる。約束を守らないような主を民は信用しない。――兄のかわりにその地位に着く者が、そんな我がままで、臣の結束をわずかたりともゆがめてしまうことなど、許されない。 「知ってるわ」 一言、短く応えて茜子は笑う。 「本当に前言撤回するつもりなの?」 「だから、前にもちゃんとそう言っただろう」 「後悔するわよ。わたしには、あなたの信念を曲げるほどの価値もなければ、あなたの持ってきた思いは、そんなに簡単に曲がるほどのものでもないでしょう」 「それが曲げられたから、言ってるんじゃないか」 「わたしを連れて帰って、問題を巻き起こした後でも、そう言える?」 問題が、起こらないわけがない。 「覚悟はしている。何が起きても、投げ出さないと約束できる。だから」 茜子は、顔を流紅の方へ傾けて、大人しく彼の言葉を聞いていた。流紅が言葉を打ち切ると、その、以前会ったときよりも心持ちふっくらとして見える顔で、穏やかに微笑む。馬鹿ね、とつぶやく言葉が聞こえたような気がした。 茜子は、そうして彼を見据えて、はっきりと言う。 「わたしは、あなたとは行きません」 以前と同じ答えを返す。簡潔で、以前と同じように、あっさりとした言葉で。 「桜花へ従って行っても、わたしではあなたの役には立てない。それだけの権力もわたしは持っていないし、逆に騒動の種にしかならないわ。あなたは強いから、わたしがいなくても、立っていられる。誰が何を言っても揺るがない人だもの。わたしがお守りをする必要はどこにもない。――正室を娶るのなら、わたしはむしろ邪魔になるでしょう。そしてどうせ家中から側室を迎えるなら、力ある家臣の娘を娶りなさい」 たしなめるように言って、茜子は、力強く笑った。 「それがあなたの義務。それがあなたの選ぶ道。もう、とうに選んだ道だわ」 己自身を押し殺して、歩いていくことを。 流紅は黙って茜子を見返して、そして足元の地面に目を落とした。目を合わせていられなくて。 茜子は、ただでさえ律儀で融通の利かない流紅が事実を知れば、こうして来ることを、分かっていたのだろう。流紅はただ頭を垂れて、つぶやく。 「すまない」 謝るのは、無様だと思った。だけど口にせずにいられなかった。 流紅の申し出を撥ねつけたのが、彼女のわがままでないことなど、説明されるまでもない。言ったことも本音だろうけれど、何よりも、それを選んだのが誰のためであるかなど、説明されなくても、分かってしまう。だから、それをしても仕方のないことだと分かっていても、謝ることしか出来なかった。命令したくなかったのも事実で、だけども、甘えたのも事実だったから。 「いいのよ。――あなたのことは好きだわ。でも、神宮家当主の奥方になりたかったわけではないもの」 茜子は、流紅が必ず行動を起こすだろうと分かっていた、けれどそれは迷い悩んだ後のことだろうと言うことも、分かっていた。彼が望まないと言った争いも、家中への火種も招く。ほんのささいな軋轢さえ望まないのは彼女も同じ。――だから相手を追い詰めないように、はじめから黙っていたのに。 お互いに、意地を張り合って、そのくせ相手の考えていることなどお見通しだった。 何も言えず、歯を噛み締めて地面を睨みつける流紅に、茜子は強く言い切った。 「それに、わたしがわたしとして生きられるのは、この土地でのみだもの。そしてこの子は、ここで、山村家の子どもとして、わたしと同じように育つの」 晴れやかだった。それを見て流紅は、結局、敵わないと思ってしまった。わがままに見えるくらい奔放に振舞いながらも、彼女の奔放さは何よりも目の前の誰かのためを思っていた。迷い、悲しまないわけではないだろうに、相手のことを考えて、何のこだわりもなくその道を指し示してくれる強さ。何より人の気持ちを考えてくれる優しさを、愛しいと思う。そんな彼女だからこそ、愛しいと思った。 「それでもまだ、理由には、なってくれるだろうか」 諦め、小さくため息をつく。妥協するように、もしくは縋るようにつぶやく流紅に、茜子はおかしそうに笑った。声をあげて、晴れやかに。 「いいわ、それくらいなら許してあげる」 多分それは、いつまでもいつまでも、自分の中の願いと、戒めになってくれるだろうということを、信じて疑わなかった。もう二度と会うことがなくても、その笑顔と、与えてくれた思いは。 |