|
立ち尽くす。 空には鋭角な月。夕刻には聞こえていた遠雷の音も絶え、少しだけ気まぐれに降った雨も去り、艶やかな夜は静かに満ちている。そして大地には偏狭な人。 一人で月見酒に興じていた郭嘉は、通りかかった知人と他愛ない言葉を交わしていたが。相手は、思い出したように言った。おかしみを込めて。 「二股かけていたと聞いたが?」 女官たちの間で取り沙汰されている噂を小耳にはさんだのだろう。郭嘉の名に連なってあがるものとしては、決して珍しい噂話ではない。 言われて、郭嘉はくつくつと喉を鳴らして、笑った。――嗤う。多分この嘲笑に、相手は気がつかないだろうとわかっていて、楽しみながら答える。 「とんでもない、そんな誠実なものではありませんよ」 あくまで丁寧に。相手の気を悪くしないように。人の行動に、わざわざ口を挟むなんて、それはそれは、とってもご苦労なことだと思いながらも、そんなものは表には出さない。 「別に彼女を恋人にしたつもりはないですし、他の、二股だと騒いでた相手の方だって、わたしは恋人だとは思っていないですし。そんな相手なら、あげるのも馬鹿馬鹿しい程おりますけど」 「それを聞いたら、また相手が一騒動起こすな。そのうち自殺されたり刺されたりしないよう、気をつけた方がいいんじゃないか」 気にせず耳に入れれば、親しい知人の、冗談交じりの忠告。それが、決してすべてではないことなど、言うまでもないことだが。どうせこうやってからかうような口調で、気遣うようなことを言っていながら、どこか陰で先程の郭嘉の言葉を広げるだろう事など、分かりきっていることだ。 人の行動に口を挟む。何ほどのことが出来ているわけでもないくせに。妬心とおせっかいと保身と、自分の身に纏う感情だけを気にして、人のことなんてどうだっていいくせに、慢心して人をつつく。そんなつまらない人間に、何を言われても自身の価値の何一つ傷つかない。 例え外聞などどうであれ。 「もちろんわたしも人とのつきあいに後腐れ残したくないとは思っていますよ。来るもの拒まず、去るもの追わず、ですから。文句を言うなら勝手に言えばいい。私は痛くも痒くもありません。ま、刺されるのは勘弁願いたいですけどね」 郭嘉の言葉に、相手が苦笑する。 「凡人には理解できないがね。誰にも彼にも好かれて、うらやましいことだ」 立ち尽くす。それは決して絶望してではなく。つまらない。ただ嘲笑う。 だいたい、と陳羣がつぶやく。 「また、人に迷惑かけて」 話していた知人が去った後、通りかかった彼は、いつものように小言を吐く。 どれだけ言葉を尽くしても結局、郭嘉が変わることなどないことが分かっているくせに、そうしていつも飽きもせず、彼に構う。そんな暇もない程忙しいくせに、いちいち、彼をからめとる。 けれどもこの日は、いつものように問答を繰り返したあと、少しだけ言葉をつぐむ。そして珍しく嫌味のようなものを混ぜて、言った。 「世間の方々は、あなたの味方ですからね。どれだけ風聞が悪くても、わたしの訴えよりもあなたの言い分の方が通るんだから」 つまらない冗談を、冗談などではなく本気で口にする。だから郭嘉は、半分くらいは本気の言葉を、冗談めかして言う。 「俺だったら、長文の言うことの方を汲むけどね」 歪んでいる。真っ直ぐではない自覚はある。むしろ自信もある。だからどうした、と思うけども。 どうせ人には二面性がある。表に出ないところで、人を罵り、陥れている。――あからさまに、どうでも良いと態度であらわす、俺のようでなくても。俺の方が、おかしいのだとは、それもやはりわかっているが。 目の前に揺ぎ無く立ち、自身の感情に翻弄されながらも、決して流されない人の言葉には、少し揺らぐ。結局、いつも真っ向から見据えてくる、その実直な目。 時々、人の誠心を信じてもいいかな、と思ったりする。思わせられたり、する。 本当に、少しだけ。 「また馬鹿にしてますね」 ただ、喉の奥で笑う郭嘉に、陳羣がむくれて言った。更に笑みを深めて郭嘉は応える。 「やーだなあ。してないって。俺は長文のことがこんなにも好きなのに、残念だなあ」 やはり、からかわれたと思ったのだろう。陳羣は不機嫌そうに「そうですか」とだけ応えて、さらに一言ふたこと、郭嘉に釘を刺すような言葉を残して去っていく。 立ち尽くす。途端に、目に付いてくる雑多なもの。わたしの愛であなたを変えるなんて、むずがゆいことを口にする女も、その驕りも。人の妬みも。ごくごく稀にある、誠実さも。 ただ歩いていくには、まとわりついてくる、つまらないもの。ぬかるみ、足元を危うくする泥水のような。着物の裾を重くして、足を止めようとするもののような、徒事だ。 けれども、たまには人のしがらみに絡まってみたくて、振り返る。 |
| 「50のお題」トップへ |