●仙台中心部からの大震災報告(三日目)
読者からの投稿
大震災から三日目の夜を迎えている。
時間が経つにつれ、被害の甚大さが明らかになりつつある。想像を絶する規模になると、宮城県警本部長がさきほど発表したらしい。一人でも多くの人々が救い出されることを願う。
宮城全労協の仲間たちはどうなっているのだろうか。ほとんどの仲間たちとは現時点で連絡がとれていない。
電話はごく例外を除いて通じていない。石巻、東名、塩釜、名取、古川など県内各地とはまったくつながらない。
沿岸部に居住している仲間たちがいる。車で駆けつけようとした組合員も近づけなかったという。
運輸や通信、介護・医療、郵便など、とくに公的部門で働く仲間たちがどのように災害に立ち向かっているのだろうか。それを知ることはいまできないが、仙台の中心部では徐々にライフラインが復旧しはじめているようなので、徐々に明らかになるだろう。
地震発生から今日まで、私が遭遇、目撃したことを簡単に振り返る。ただし、これは仙台市中心部の狭い範囲に限定されている。しかも、二日目の夕刻まではテレビをほとんど見ていないので、実際に何が起きたのか、読者の方々のほうが詳しいのではないだろうか。
まず携帯のアラームがなり、直後に揺れが始まった。私のいた所は地盤が固く一階だったこともあり、揺れはさほどでもないように感じたが、その時間はいままで経験したことのないほど長かった。外に出てみると、あたりの光景(電線の揺れ具合など)から、大地震の予感がした。
テレビは消え、あわててかけた携帯ラジオからは、大津波が間もなく東北地方沿岸部一体にとどくと、警報が繰り返されていた。
仙台中央部の宮城全労協事務所に向かうために、すぐに国道に出た。ディスカウント・ショップで働く女性労働者たちが、道行く人々に軍手を配り始めていた。車は順調に動いていた。バスはすぐやってきた。
それから周りの状況が刻々と変化していった。
あっという間に渋滞となった。信号は消えていた。歩道は周辺の会社から飛び出した労働者たちで、すぐにあふれ始めた。会社から支給されたのか、
ヘルメットを装着した人たちも目立った。人々は家路を急いでいるのか、町の中心部から逆の方向へ、北側へと黙々と歩き始めていた。見たことのない光景だっ
た。
雪が振り出した。救急車や消防車が何台も出動していた。要所には警察官が立って交通整理を始めたが、とても対応しきれなかった。
それがバスに飛び乗ってから10分間ぐらいのことだった。バスは立ち往生し、あきらめて降りた。運賃を渡そうとすると、運転手は「お金はいらないから、早く」と落ちついた声を返してくれた。
ミゾレまじりの強風を避け、多くの人たちが中心部のアーケード街に向かっていた。びっくりしたが、私の横を、仙台中心部でよく見かけるホームレスの女性が、毛布を身にまとって歩いていた。
大きな余震が何度か起こり、アーケードの上から何か落下するたびに悲鳴が起きた。しかし、火災や倒壊した家などは目撃しなかったので、どんな被害になっているのか思い浮かばなかった。
仙台駅に着いてみると、雪を避けるように大勢の人々が駅舎の前に集まっていた。駅は閉鎖されていた。JRが全線ストップしていることはすぐに理解できた。避難所はどこかと尋ねられ、その質問に答えることができなかった。
仙台駅の二階には、東西を行き交う通路があり、交通の要衝となっている。せめてそこだけは通すべきだろう。駅の閉鎖に怒りがわいた。
全労協事務所の室内は散乱していた。ビルは一階入り口のガラスが砕け散り、支柱壁が落ちて鉄筋が見えていた。ビルのライフラインはすべて止まっていた。ビルは余震で何度も大きく揺れた。携帯電話での仲間との連絡はまったくつかなかった。
暗くなって自宅にもどった。携帯のワンセグを見たが、三十分ほどでとまった。非常用の簡易用電灯に接続して充電を試みたが、十分な電力は得られなかった。あとはラジオからの情報に頼った。
被害がとてつもなく大きなものであることを実感したのは、仙台市荒浜で二百人ほどの死体が確認されているが近づけない、気仙沼が燃えている、南 三陸町(旧志津川町など)で町民多数の安否が不明になっているとラジオが伝えた時だった。マグニチュードが訂正され、想定外の地震だったと報じていた。
さらに深夜になって、地元の東北放送が災害伝言を放送しはじめた。アナウンサーは未確認情報であると断ったうえで、気仙沼や志津川の情報を読んだ。仙台市内の安否確認情報のほとんどは、老人ホーム、介護施設に関するものだった。
二日目、福島原発の危機がラジオから伝わってきた。菅首相や枝野官房長官の会見は何度か、断片的に聞いた。菅首相の「米国など五十カ国からの支援要請が来ている」発言など、ひどいと憤りを感じた。なぜ「米国など」なのか。
朝、地元紙・河北新報社の前で、初めて新聞を見た。仲間との連絡のために自転車で行き来するが、会えたのは十人に満たなかった。
街中ではコンビ二などが販売を始めていた。みやぎ生協のいくつかの店舗の前は数百人が列をなしていた。現場は目撃しなかったが、ボランティア活動が始まったとラジオが伝えていた。
何カ所かで携帯電話の充電のために多くの人が集まっていた。自家発電機を使った路上の充電現場や、ドコモのビルにも殺到していた。
三日目、午前、若林区役所(仙台駅から東南方面)に自転車で向かった。区役所まで津波が押し寄せている、あるいは冠水しているとの報道を聞いて
いたからだ。区役所は安否確認板やテレビの前に多くの住民が集まっていた。充電コーナーには長い列が出来ていた。新潟県からの救援物資が積み上げられてい
た。だが冠水の様子は、区役所も周辺居住区も見当たらなかった。聞き違いだったのか「誤報」か。同じ情報を聞いたという仲間がいる。
そこから先、避難所になっている学校があり、中に入った。東部に煙があがっていた。仙台新港の火災だと教えてもらった。
さらに沿岸部に向かおうと、同行していた友人が言ったが、自転車では無理だと判断して引き返した。途中、仙台駅の東部にあるお寺では、墓石が倒れていた。三里塚開港阻止闘争の年、一九七八年六月、宮城県沖地震の時もそうだった。
午後、宮城県女川原発でも放射線測定値が上がっているとの報道があった。「人間には影響がないという」と。詳細はいま、わからない。
仙台中心部は、私の印象では、落ち着いている。復旧もおそらくスピードアップしていくだろうと思う。しかし、沿岸部の壊滅的な被害を思うとき、言葉がでない。
まず仲間たちと再会しなければならない。青森、岩手、山形、秋田、福島など各県の仲間たちとも。
二〇一一年三月十三日夜
(仙台・八木)

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