被災者(東松島市野蒜地区)からの手紙
この手紙は、かつて石巻の介護施設で働いていた宮城合同労組の元組合員・Mさんが、石巻全労協・郵政合同労組の組合員であるYさんに宛てたものです(Mさんは元郵政労働者でもあります)。Mさんは津波で家を失い、またYさんも東松島市で被災しました。
手紙は4月16日に書かれました。MさんとYさんの了解のもとに、ここに紹介します。名前と住所に配慮した以外は、書かれたままの全文です。
Mさんはいま、東松島市の仮設住宅で、両親とともにいます。

壊滅した野蒜地区(4月3日、石巻全労協撮影)
Y様
1千年に一度といわれる大震災を受けながらも、それでも今年も桜は咲き、満開となってくれました。この1ヶ月あまり、自然の持つ脅威的な力と、暴走を始めたら止まらぬ人工物の原発とは対照的に、桜は着々と開花の準備に取りかかっていたのでしょう。
さて、先日はYさんからの「はんげんぱつ新聞」を、確かに受け取ることができました。そして、同封されたメッセージを見て、Yさんの暖かい思いやりの気持ちに、頭が下がりました。
それと同時に、多くの局舎が被災しながらも、とにかく各宛名に郵便物を届けてくれる、現場のスタッフの皆さんにも感謝の気持ちで一杯になりました。
Yさんのお宅も一階部分が浸水されたそうで、大変だったことでしょう。私の家は津波で消失しましたが、新東名の弟の家は、一階の天井近くまでドロ水が入り込み、再び住めるような状況ではありません。今後、私たちの地域が果たしてどのようになるのか、見当もつきません。両親を抱え、不安だらけです。
あの3月11日、私は家の二階で仕事をしていましたが、突然の強く大きな揺れに驚き、このままでは家が崩壊すると思って、慌てて外に出ました。
防災無線とクルマのラジオからは、高さ10m以上の巨大な津波が来るとの情報で、両親と居合わせた叔父をクルマに乗せて、野蒜小学校に逃げました。そのとき、野蒜(郵便)局の前に何人かの職員の姿が見えましたが、あの人たちは、その後どうなったのか、今も気になっています。
私たちが小学校に着き、両親と叔父をクルマから降ろそうと思ったとき、突然大勢の人々がパニックになって校舎を目ざして走ってくるのが見えました。一体なにが起きたのか、私にはすぐに理解できませんでしたが、さらにその奥を見たとたん、津波がものすごい勢いでこちらに向かって来るのが目に入りました。真っ黒な水が、ガレキを巻き込みながら自分たちに迫ってくるのを見たとたん、一瞬ですが時間が止まったように思えました。

野蒜駅周辺の「東名運河」(4月3日)
理屈では津波というものの恐ろしさがわかっていても、イザそれが直前に迫り身の危険が迫っても、なんだかそれは夢の中のできごとか、テレビの画面の中のこと、そんなようにも思えたのです。現実とは思えませんでした。
それから慌ててクルマをUターンさせ、校舎の昇降口に着いたとたん、津波に追い付かれ、波に巻き込まれてしまいました。周辺にいた多くの人たちが波に呑まれ、家の廃材と一緒に流されるのが、車内からはっきり見えましたが、どうすることもできません。
クルマは凄まじい力で波にもまれ、流された人たちにも何度もぶつかりながら、校舎の裏側に押されてゆきました。流された人たちの顔が、フロントガラスからはっきりと見えました。目をまんまるに見開いていたその人たちが、そのあとどうなったのか、わかりません。
その後、クルマは校舎の北側の山にぶつかって止まりました。両脇には同じように流されたクルマ、そして周囲には無数の廃材が浮かび、あちこちから救いを求める声や悲鳴が聞えてきます。
流されている間に、私のクルマの後部窓ガラスが割れ、私は車内に置いていた長靴を履いて、そこから外に出ました。そのとき床は少し浸水してきましたが、まだまだ沈まないと思って、救助を求める人たちを助けようと動き回りました。
水没しそうなクルマから赤ん坊を抱え上げて、ほかの人にわたし、電柱のようなものにつかまって“助けてけろ〜っ”と叫んでいる男の人のところに向かおうとしたとき、私のクルマの中から両親が“クルマに水が入ってきたど〜っ”と叫ぶ声がしたため、急いでそちらに戻りました。
すでに車内はだいぶ水が入り、父・叔父・母の順で外に連れ出しましたが、高齢のため思うように体が動かず、最後に母が出るころには、クルマは半分以上が水の中に沈みかけていて、こちらも必死で連れ出しました。幸いなことに、両脇のクルマのボンネットの付け根につかまることができ、また流れてきた廃材などを足場にして、近くにあった物置小屋の屋根に上って助かることができました。
そのころから雪が降り始め、気温も下がってきましたが、先に校舎に避難した人たちから、教室のカーテンを投げてもらって、それを頭にかぶって寒さをしのぎました。夕方の5時ごろには水も引いて、校舎がわの人たちに足場を作ってもらったり、ロープ代わりの消防ホースを投げてもらったりで、ようやく校舎に入ることができました。
校舎の2階から校庭を見ると、それまでの風景は一変し、大量の廃材とクルマが積み重なる沼のような状態になり、海岸からここまで入ってきた津波の力に、ただただ驚かされるばかりです。
当初の避難場所となっていた体育館では、中に大量の水が入り込み、かなりの人たちが犠牲になったそうです。もし私たちがもう少し早く小学校に着き、この体育館の中に入っていたら、おそらく助からなかったことでしょう。
そして翌日、自宅の様子を見るため地区を歩いてみましたが、本当にあまりの変わりように声も出ませんでした。わが家のみならず、地域一帯の家のすべてが流されており、現実に津波を見ていても、目の前の光景が信じられず、まるで夢を見ているようでした。
新東名の弟の家は、形こそ残ってはいましたが、津波が1階をブチ抜いており、これから修繕もできない状態になっていました。
避難して2日目の夜に仙台の弟が迎えに来てくれ、現在に至っています。お彼岸前に、両親は酒田の妹の家にゆきました。
津波によって、財産も仕事の機器や部品なども全部失ってしまいましたが、テレビや新聞を見るたびに、自分はずいぶん恵まれている方だと感じています。ときに精神的に落ち込むこともありますが、上を見ればキリがありませんし、あれだけの災害の中で命が助かったことは、本当にありがたいことだと思います。
仮設住宅には申し込みましたが、倍率も高いようで、いつ入居できるかわかりませんね。最後には両親を引き取るつもりですので、早く目鼻がついてほしいものです。
自分のことばかりを書き並べてしまいましたが、Yさんのお宅でも、本当に大変だったことでしょう。これから、国や県や市がどのような対策をとってくれるのか、まだまだ先が見えませんが、少しでも希望のもてる方向に進んでほしいものですね。
また、神話が崩れた原発事故は、一体だれがその責任を負うのでしょうか。ニュースを見るたびに、あの高木仁三郎先生のことを思い出します。女川原発も次の地震では果たしてどうなるかわかりませんし、福島の事故も“明日はわが身”のような気がします。
今年の年賀状の“お年玉”は、珍しいことに切手シートが7枚も当たり、新年から運がいいと喜んでいました。でも今はドン底でも、これから少しずつ運が開けることを期待したいと思います。
まだ気温の差が大きいようです。Yさんもなお健康に留意され、地震に負けないでほしいと願っています。奥様にも、どうぞ宜しくお伝え下さい。
乱文で失礼いたしました。
(2011年4月16日)
*注/野蒜(のびる)は「奥松島」への入り口になる。奥にはいくつかの浜が分岐していて、そこは有名な海水浴場と民宿街だった。それらの多くは津波に飲み込まれた。JR沿線沿いは新しい住宅街も広がっていた。復旧・復興に向けて、いろんな努力が行われている。しかし、被害は大きく、見通しは決して明るくはない。JR仙石線は仙台周辺、石巻周辺で回復しているが、この地域一帯に関しては、線路を従来のままで維持すべきかの議論があって通線の見込みはない。
■以上/宮城全労協ニュース194号(2011年5月29日)

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