地域再建の一歩〜福祉施設の再開
〜ボランティアの現場からの報告
宮城全労協は3月中旬から救援・支援活動と被災地の視察活動を展開している。その一つとして、東松島市でのボランティアに取り組んできた。東名地区には石巻全労協の被災組合員らが居住していて、その近隣にある福祉施設の復旧を支援してきた。
ボランティアには関西、徳島、首都圏、青森などから多くの仲間たちが駆けつけた。なかには「リピーター」となった人たち、1週間単位で泊まりこんで泥出しに励んだ人たちもいた。
まだ被災の傷跡が生々しく残っているが、6月には震災百か日の「鎮魂の会」が催され、7月にはついに施設の開所式にこぎつけた。地域の再建にとって確かな一歩となった。
以下はボランティアにかかわった仲間からの報告。

●「鎮魂の会」で再建を誓う/6月18日
(電通労組・日野正美)
大震災から百日が過ぎた。被災地を歩くと、津波被害を受けたのは昨日であるかのような惨状だ。まだまだ手付かずの地域がほとんどである。
3月下旬、大阪電通合同労組の支援隊がかけつけ、東松島市東名地区で被災した石巻全労協の組合員宅の支援に向かった。4月中旬、大阪全労協、徳島全労協の支援隊と東名地区で活動しているとき、近くでデーサービスやグループホームの事業を行っていて被災した福祉施設とめぐりあった。
施設の中は泥だらけで、悲嘆にくれていた。住民のほぼ全員が避難所で暮らすか「疎開」しており、復旧・復興の目処がたつような地域の状況ではなかった。そこから、ほぼ毎週末のボランティア活動が始まった。
当初はいつ終わるか予測もつかなかったが、徐々に泥のかきだしや壊れた家具の撤去が進んでいった。5月連休の頃には、首都圏からも仲間がかけつけてきた。福祉関係者たちによる支援の輪も広がっていった。こうして破壊された内部の修繕も終え、7月9日に「復興式」(開所式)を予定できるまでにこぎつけた。
復興式を前に、震災から百日目の6月18日、施設の支援者たちやボランティアで駆けつけた全国の仲間ら80余人が参加して、犠牲になった方々を追悼する「鎮魂の会」が執り行われた。
「五月末まで延べ500人のボランティアが駆けつけてくださった。全国からの皆さんの力でこれまでになった。施設の利用者さんたちは、一日でも早い再開を待っている。それに応えて、皆さんから頂いた支援を大切にし、再開を望む声に応えていきたい」。
施設の代表は、「全国のみなさんから勇気をもらい、震災時の絶望感から抜け出してここまでこられた」とふり返りながら、これからの決意を語った。
東北全労協、大阪全労協、宮城全労協の代表も紹介され、労働組合の支援が大きな力になって復旧・復興を進めることができたと感謝の言葉をいただいた。
翌日は、参加した仲間たちで、津波のドロで埋もれていた側溝の清掃を行い、地域の住民からも喜んでいただけた。福祉施設の復興に力を得て、近所の住民の方々も「この地でもう一度生活してみよう」と一軒、二軒と戻りつつある。
労働組合が地域と結びつき、絶望の淵にある被災した方々の「生きよう」とする支えになり、少しだけでもお手伝いできたことは、私たちのこれからの運動にとっても大きな体験となった。社会的労働運動、労働組合の社会的な責任とまではいわないが、3.11を転換点とした「パラダイム・シフト」もこのような実践から作り出されていくのではないだろうか。
●「ここで頑張るのが使命」
〜ついに施設の復興式が/7月9日
「被災後、どこが入口なのか、なんの建物なのか判別できないくらい瓦礫の山状態で、家の中は30pものヘドロが堆積していました。お父さん(夫)は『こんなもの潰せ、潰せ』の一点張りでした。私も落ち込んでいましたが、見ず知らずの方々と出会い、それが横につながって、一人ひとりの力と気持ちを借りて今日を迎えています。これまで日本のみならず、世界各国から支援していただいた方々が延べ700人になりました。
これで復興だと思っていません。東名地区で174名の方が亡くなり、15名が未だ行方不明です。いまこの地区で生活している家は4〜5件です。35年前にここへ来た時より少ない件数です。地域のみなさんが帰ってくるまで、ここで頑張るのが私の使命かなと思っています。これからも皆さんのお力をお貸し下さい」・・・
7月9日、東松島市東名地区で宅老施設の復興式(開所式)が開催された。復旧を支援してきた約70人が参加した。施設の代表は、地域の再生も考えながら高齢者のケアに携わっていきたいと決意を述べた。
県議会議員や新東名地区の区長の挨拶に続いて、宮城全労協の大内議長が挨拶に立った。労働組合が事業者と力を合わせて施設の再建を支援してきたのは、震災で解雇せざるをえなかった職員を施設が再開したら再雇用をするという姿勢に賛同したからだったと、組合と施設の出会いをふりかえった。これからも地域と結びつきながら復旧・復興の活動を進めていきたいと抱負を述べた。
大阪電通合同労組の山崎委員長は、被災地に届けてほしいと滋賀県の100歳になるおばあちゃんが作ってくれた「おはじき」150個を大阪から持参した(◎写真)。

また大阪教育合同労組の仲間からのエピソードも紹介された。小学校の児童たちが「被災地・東北に何か送ろう」と考えた。そこで「東北に花が咲きますように!」と一人ひとりが図工の時間に花の絵を描いた。その絵をつなぎ合わせて一枚にしたものを校舎に張り出した。その写真が参加者に回された。
宅老連絡会の方からは次のような話があった。
「津波の危険な所で頑張る必要はない。新たなものを準備してやるから、津波にあったものは全部捨ててと私は言った。だが、家が津波に流されなかった者がここに住まないと、誰も帰ってこない。全部捨てたら東名は空っぽになってしまう。(施設の代表の)そういう話を聞いて、自分の考えは間違っていたと気付いた。この施設が元気になれば、地域の人たちも戻ってきて、町が活性化してくると考えるようになり、ネットワークを使って支援をしてきた。これからも、ともに地域の再生に向けて力を合わせていきたい」。
式の終了後、開所をお祝いして乾杯し、懇親を深めた。大阪全労協が準備してきた「たこ焼き」「餃子」も振る舞われ、宅老連絡会の仲間のサンシンによる沖縄民謡、踊り、地域の皆さんによる民謡、徳島全労協のKさんの「月光仮面」の寸劇(?)も飛び出して、場は大いに盛り上がった。
施設は7月10日から運営を再開した。地元の「石巻かほく」紙でも紹介され、「東松島のNPO法人、デイサービス再開」「地域の高齢者の心のよりどころとして、新たな一歩を踏み出す」と報じられた。
●首都圏からのボランティアに参加した仲間の報告
*以下の文章は首都圏の仲間から5月23日にいただいていたものです。なお、宮城全労協の災害対策本部が発行しているボランティア交流紙(「こころ紡ぎ」)には、各地からの参加者の声が紹介されています。
5月3日、東松島市のNPO法人・介護施設の支援に参加してきました。今回の日程にあわせて、東京からattac会員やピースサイクルの方を含む10人が参加。それにあわせて宮城全労協からもたくさんの方が参加していました。
JR仙石線の東名駅の近くにこの施設はあります(仙石線は、津波で線路がジェットコースターのようにうねっていて、代行バスしかありません)。国道よりも低い東名地区は見渡す限りの廃墟が広がっていました。およそ500戸のうち、現在もどってきているのはわずか数戸。ほとんどが避難所か他の地域に避難。地区の海側は牡蠣の養殖場をはじめ、ほとんどの産業や住宅が壊滅状態。海が広がる浅瀬のように見える広大な地域も、実は地盤が1mほど沈下して水が引かない田んぼだという。
そんな状況を車窓から眺めつつ現地に到着。自己紹介もほどほどに、さっそく作業開始。敷地の庭に押し流されて堆積した砂を土嚢に詰めて運ぶ作業。砂の中から、どこから流されてきたのか、いろんな生活用具がでてくる。

作業の合間に、海沿いの被災状況を車で見学。東名運河には津波で流されてきた乗用車が半分顔を出している。スーパーや郵便局が瓦礫のなかに沈んでいる。砂浜沿いにたたずんでいる「かんぽの宿」は1階が津波で押し流されていた。防波堤は無残に大破している。防風林だったのか松林が津波でねじり倒された脇を自衛隊車両やダンプが行き来する。想像を絶する風景だった。
ボランティア作業はいろいろあった。床下の泥だし、敷地に堆積した砂のかき出し、屋内の泥落としはもちろん、生活感をだすために庭園造形や庭木の移植など、終えてみると、達成感のある作業ばかり。
ボランティアに入るにあたっては「食料や寝袋などは自力更生で」と厳しく言われていたので、それなりの準備をしていったが、施設ではスタッフの方々が、暖かいお汁などを作ってくれたりと、けっこうな接待を受けてしまいました。迷惑ボランティアにならなかったか、ちょっと心配です。
地域に根ざしたケアをモットーとしてきたこの施設の代表からは、被災当日からこれまでの苦労話を聞きました。入居者や職員全員と避難して外で一晩を過ごした話をはじめ、厳しい状況の中でもなんとか施設を再開して、地域のお年寄りのケア、そして雇用の回復をしたいという思いが伝わる話でした。わずか3、4日という短い期間でしたが、わたしたちの支援がその一助になればと思います。
老人ケアのネットワークが県内外にあることから、私たち以外にも各地からボランティアの方が訪れていました。普段からの社会的なつながりが、危機の時には力を発揮するのだということを目の当たりにしました。
5月5日の午後には、石巻の被災状況を見学しました。石巻の状況は、ほんとうに言葉につまるほどのものでした。石巻港に隣接する住宅地は基礎を残してほとんどが瓦礫と化していました。ここに人が生活していたのかと疑うほどの惨状でした。市街地も津波の爪あとが激しく、1Fを津波が襲い、倒れかけた家屋が道路の両脇にたたずみ、電信柱と屋根の上に挟まれた乗用車が頭上からぶら下がっています。
小高い丘になっている日和山公園から見た石巻の風景は忘れることはできません。写真で見た東京大空襲や原爆が落とされた広島・長崎の状況のようでした。見渡す限りの瓦礫と崩れかけた家屋。手をあわせる人や呆然と眺める人。なんともいえない状況でした。
わずか3日ばかりのボランティアで見ただけですが、「がんばろう東北」「がんばろう日本」などというメッセージが空虚に思えました。ボランティアの3日間、テレビもラジオも聞く暇もありませんでしたが、仙台に帰って来たときに「浜岡原発、停止へ」のニュースを聞きました。政治や経済や社会が持っているすべての力を被災地支援に振り向けるためにも、原発災害地域からの避難への全面的支援とすべての原発の即時停止が何よりも必要だと思います。
当初参加を予定していた、岩手県遠野のボランティアセンターを拠点に活動している共生ユニオンいわての皆さんの活動にも、今後日程を調整して参加したいと思います。今後の取り組みについて、皆さんと意見交換ができればいいとおもいます。「がんばろう東北」などという他人行儀のメッセージではなく、「また来ます東北」という人と人がつながるメッセージを胸にこれからも。
■以上/宮城全労協ニュース199号(2011年7月24日)

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