宮城全労協ニュース/第201号(電子版)/2011年8月5日

沖縄から視察団、被災地へ〜
大川小学校(石巻)など訪問




 7月、沖縄からの視察団が被災地を訪れました。


 糸数慶子参議院議員は3月11日の大震災直後、仙台にかけつけました。被災地の惨状を直視し、意見を交換し、何が問われ何が必要なのか、東北全労協対策本部と議論を交わしました。

 今回は沖縄から多くの方々が被災地を訪れました。その同行記を掲載します。

「沖縄の人々のやさしい眼差しは、「東北」の痛みへの共感を軸に、ともに立ち上がるべき未来への問いかけにもなっていることを忘れてはならない」と、同行したGさんは指摘しています。

(注)なお、ニュース本号は8月8日、大川小学校訪問の記述の一部を書き直しました。末尾の注をお読みください。
<写真>

□石巻市立・大川小学校にて慰霊の花束をささげる。

□石巻市立・橋浦小学校の校長室にて。被災当日と現在の状況を話し合う。



「沖縄子どもを守る女性ネットワーク」の皆さんと被災地へ

                     
 7月12日、NPO法人「沖縄子どもを守る女性ネットワーク」のみなさん<糸数慶子さん(参議)、山内優子さん(沖縄大学非常勤講師)、津波古菊江さん(読谷村議)、伊敷郁子さん(糸満市議)、玉那覇淑子さん(北谷町議)、玉元一恵さん(宜野湾市議)>と被災地を訪れた。

 東北全労協の震災対策本部、小川昌義さん(富谷町議員)、Mさん(戦争への道を許さない女たちの仙台の会、宮城ジョネット)らが同行し、被災地石巻の小学校や東松島市の被災現場などへ向かった。


「沖縄子どもを守る女性ネットワーク」は1年前に結成され、これまで沖縄県内で子どもや女性の貧困問題の解消などに取り組んできており、今年5月にNPO法人となった。今回の東日本大震災に遭い様々な思いを抱いている子どもたちが感情を表現できるきっかけづくりを支えたいと、絵本「気持ちのキセキ」(文・箱崎幸恵、絵・せきあやこ/明石書店発行)を被災地の子どもたちに贈ることを決め、この間、沖縄県内で募金活動を進めるなど、準備を進めてきた。

 今回は、同ネットワークとして初めての被災地の小学校訪問である。


 
橋浦小学校と吉浜小学校・相川小学校


 午前中に訪れたのは、石巻市立橋浦小学校(旧北上町)。

 11時ころ到着したが、3時間目の授業中で、3年生が外のプールで水泳指導、ほかは教室で授業中だった。

 橋浦小学校には、津波のため屋上まで水をかぶり大きく被災した沿岸部付近の吉浜小学校と相川小学校の2校が間借りする形で併設になっていた。吉浜小、相川小の職員室は、橋浦小の校舎内にあり、電話もそれぞれにひかれている。ただし、この3校は何れも旧北上町内にあり、人数がさほど多くないため、以前から6年生の修学旅行を一緒に行ってきていた。今回の橋浦小での3校併設にあたって、このような経緯もあり、他の併設校とはちがい、各学年ごとに1つのクラスを3校あわせて編制し、一緒に学ぶことにしたのだとうかがった。

 この日は、出張で出かけていた相川小の校長先生をのぞき、2人の校長先生が橋浦小の校長室で出迎えてくださった。(帰るときには戻られて3人の校長先生が見送ってくださった。)

 糸数慶子参議院議員が冒頭に訪問の趣旨を話し、その後、山内優子代表から「気持ちのキセキ」(明石書店)10冊ずつが3校に手渡された。

 その後、二人の校長先生から被災当事の様子や、その後の子どもたちの様子について話された。沖縄「子どもを守るネットワーク」の取り組みについての報告、北谷町(ちゃたんちょう)や糸満市(いとまんし)・宜野湾市(ぎのわんし)・読谷村(よみたんそん)の各議員さんから取り組みの報告があり、各地のお母さんたちが手作りしたお守りや草で作った虫のおもちゃが紹介され、3校に児童数分ずつプレゼントされた。

 この日、午後からは「鼓童(こどう)」(新潟県の太鼓集団)の演奏会が予定されていた。連日のようにボランティアで演奏会が開かれているとのことだ。(いつ勉強するのか、ちょっと心配になったが、被災から立ち上がるエネルギーを充填するためには全国の人々に支えられていることを実感することも大きな意義があることではある。)会場の体育館には、5月にあった運動会のスローガンが掲げられていた。

「心一つに輝く笑顔でかけぬけよう」

 3校の子どもたち、そして教職員、地域の父母たちが一致協力して震災被害にたち向かおうとする思いと復興への願いがこもっている。地域の一体感と力が子どもたちを支えていることを感じた。



大川小学校では花をお供えしてきました
 

 石巻市立大川小学校では多くの子どもたちと教職員が3・11大震災で大津波のため命を落としている。旧河北町にあり、橋浦小学校とは北上川をはさんで対岸になり、より河口に近い。いまだ6名の児童が行方不明である。残った22名の児童は、現在、飯野川第一小学校に通っていると聞いた。

 訪問者全員で花をお供えしてから、校地内を視察した。校舎からは土砂や瓦礫が取り除かられており、各教室、ホールに出入りできるようになっていた。昇降口脇に掲げられた校歌の木製レリーフは、ぽつりぽつり、ところどころ字がまばらに残っているだけの状態で、津波のすさまじさを伝えている。この日も、酷暑のなか、大阪府警の車両4台ほどが停まっており、機動隊員多数が捜索活動に当たっていた。一日も早い発見を願うばかりだ。


 
釜小学校


 午後からは、旧石巻市内の門脇地区にある釜小学校を訪れた。ここでは、3・11当日、迎えに来た親と帰宅した後に、石巻工業港方面から襲った津波で25名の児童が命を落としており、大川小に次いで犠牲者が多かった学校だ。

 この日は職員会議開催直前の忙しいなかを、校長先生が、私たちを校長室に迎えてくださった。糸数参議から訪問の趣旨説明の後、山内代表から絵本「気持ちのキセキ」を寄贈。その後、校長先生から現状報告があった。現在も体育館が避難所になっている。にもかかわらず、放送施設が壊れたままで、何かあったとしても避難の指示もままならない。プール設備がこわれたままで水泳指導はできず、夏休みには近くの他校のプールを借りて通わせることができるかどうかを、教育委員会と検討中だと話されていた。

 20分ほど懇談した後、3年1組の教室に移動し、教諭から被災当日のこと、現在までの学校や子どもたちの様子を聞かせていただいた。

 校庭で遊ぶ子どもたちの姿からは、子どもらしい元気な様子が伝わる。いくらか、気が休まり、ほっとする思いだ。



終わりに

 石巻市内の小学校数校の限られた訪問ではあったが、沖縄「子どもを守る女性ネットワーク」の皆さんに被災地の現状を直接に見ていただけたことが何よりだったと思う。(子どもたちとの接点が十分に持てなかったのが残念でしたが・・・。)

 沖縄の人たちは、テレビで震災被災地の映像を見ると、1945年4月1日の米軍上陸に始まり6月23日まで続いた沖縄戦後の焼け野原を思うのだという。また、避難所の映像に、米軍の強制的土地取り上げにより無理やり入れられた収容所暮らしのつらさを思い出すのだという。

 そのような沖縄の人々の思いは、米軍基地を本土(ヤマト)の利害によって一方的に押し付けられてきた沖縄の痛みに深く根ざしている。

 だから、「集団就職」や「出稼ぎ」によって高度成長を人的資源として支えた「東北」が、大都会「東京」への食糧や電力の供給基地となって支え、その挙句に原発事故に遭遇した過酷な現実を見るにつけ、虐げられた「東北」の痛みへの共感を覚えるのだといえる。

 沖縄の人々のやさしい眼差しは、「東北」の痛みへの共感を軸に、ともに立ち上がるべき未来への問いかけにもなっていることを忘れてはならない。

 人間を根底から破壊する原子力発電を止めるための、今回が、いわば千載一遇の好機であることを肝に銘じよう。


(7月17日記/同行した教育労働者:G.K)

(注)大川小学校訪問の記述に関して、石巻全労協の仲間から次のような指摘を受けました。

「見るたび、読むたびに胸が苦しくなります。<6名の児童の遺体がみつかっていない>という表現は、<6名の児童がいまだ行方不明である>と直すべきではないでしょうか。どこかで生きているかもしれないと思っている親族もおられるでしょう。せめて「遺体」とは言ってほしくないと思います。」

 配慮に欠けた記述であったと反省しています。筆者の同意の上で、指摘された部分を直しました(8月8日/宮城全労協事務局)。


■以上/宮城全労協ニュース201号(2011年8月5日)