宮城全労協ニュース/第202号(電子版)/2011年8月24日

小出裕章氏・講演会に参加して




 8月5日、仙台市で小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)の講演会が開かれました。参加した仲間から報告と感想が寄せられました。ここに掲載します。

 第二章の<講演要旨>は大幅に縮小しました。詳しくは小出さんが執筆された書物をお読みになることをお勧めします。

 なお、せんだいメディアテーク(仙台市青葉区春日町2−1)が講演の録画・中継を担当しており、その「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のトップページから小出裕章さんの8・5仙台講演の演題「3・11から始まったこと」を探すと視聴できるとのことです(http://recorder311.smt.jp/)。




小出裕章氏・講演会(8月5日)に参加して 
 


◎はじめに


 3・11大震災からほぼ5か月。福島第一原発の溶融事故とその後の放射能流出事故は収拾の兆しもまだ見えず、現在も1号機から4号機のすべてから放射性物質が流出し続けている。

 福島県内はもちろん宮城県でもとくに南部では、事故直後に爆発等によりばらまかれ今も出続ける放射能が、土壌や農作物にどんな影響を与えるのか、住民(とくに子どもたち)にどのような健康被害を及ぶすのか、皆が大きな不安を抱いたまま日々を送っている。

 直後から「ただちに健康に害のあるレベルではない」とか、「安全だ」と繰り返す政府関係者や「学者」たちの発言が、事故の現実からほど遠い虚言だったことは誰の目にも明らかになってしまった。何か発表されるたびに、住民は「また嘘をつかれるのではないか」と疑心暗鬼に陥っているのが現状だ。

 そうしたなかで、信頼できる情報を出し続ける科学者の一人として、小出裕章氏への期待感は日増しに高くなってきたと言えよう。

 今回、8月5日夕刻6時から、仙台市青葉区ハーネル仙台を会場に、「小出さんをよぶ会in仙台」の主催で小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の講演会が開かれた。私もその一人だが、多くの人たちが小出氏の講演会を心待ちにしていたのではないか。

 
 小出氏の講演の要旨と、私の若干の感想を記したい。



 
演題「3・11から始まったこと
 〜東京電力福島第一原子力発電所原発震災を生きる私たち〜」



「仙台で私の講演をきくためにこんなに大勢が集まってくれたことはありがたいが、(それは原発事故が起きてしまったからであり)残念でもある。3・11原発震災で世界はひっくりかえった。今までとはまるでちがう世界になった。これから、私たちはどう生きていけばよいのか」。

 小出氏はそのように話を切り出した。

「方丈記には『5つの厄災』が描かれているが、その1つが「人災」で、平清盛による福原(今の神戸)遷都とその失敗をあげている。残りの4つは「火」「風」「水」そして「地」の災いだ。「地の災い」としての地震が日本では避けられない。であるなら、日本の耐震の専門家である学者たちが「地震災害に対する(日本の)知識レベルの高さ(が安全を担保する)」と言っていたのに、阪神大震災を受けて手のひらを返し「予想を超えるレベルだった」と語ったことには納得がいかなかった。深まれば、分からないことがさらに広がっていくのが学問の世界である」。

 そもそも「想定外」という言い方自体、ありえないはずなのに、今回の福島でもまた、繰り返された。


 小出氏が仙台の大学で学んだことはよく知られている。

「1968年4月、核の平和利用としての原子力発電に大きな希望を抱いて、東北大学工学部原子核工学科に入学した」「当時、東北電力が宮城県女川町に原発を作ろうとするのに対し、漁民たちが反対しているのを知って、最初は、なぜ反対するのか不思議に思った」「だが、<(安全なら)なぜ仙台市に作らないのか>を問う女川現地漁民たちと出会ったことで、都会・人工密集地には作れない原発の危険性に気づいた」、それからは「原子力発電はやめさせなければ」と思うようになり、今に至っている。

 1999年9月30日、東海村の臨界事故を受けて、2000年度の原子力安全白書では「誤った『安全神話』」にふれ、「安全設計への過剰な信頼」「無事故実績への過信」「事故経験の風化」、あげくには「絶対的安全への願望」までをその要因にあげている。

 3・11福島第一原発での事故は、その「安全神話」がまだ続いていたことと、そして、その崩壊を決定づけた。


 小出氏は、3月11日の地震から始まる「事故」とその後の事態、そして政府による避難指示や対策について、具体的な数値も上げながら振り返った(詳細は略)。


 それらの結果、「世界は3・11を境に変わってしまった」。

「人々が普通に生活する場が(私たち専門家が仕事をする)放射線管理区域以上に汚れてしまった。土地も食べ物も、がれきも下水の汚泥も、すべてが放射性物質になった」「労働者は(ほかの土地に移って生きていけるという意味で)まだいい。だが、酪農家や農家は土を離れては生きていけない」。


「私たちは止めることができなかった、無念だ」。

「でも、放射能で汚れた世界で生きるしかない。どう生きるか、その方策はあるのか」。


 小出氏はまず、子どもたちが置かれている状況を詳述し、「子どもたちを守ること」を強調した。「自分たち大人には、原子力を選択してきた責任がある。その意味で、被曝をしても(ある意味)自業自得だ。だが、子どもたちには全く責任は無い」。

 その上で、私たちが直面している「被曝による健康被害」か「避難による生活の崩壊」かの選択のなかで、どのように生きるか。

「福島原発事故の本当の被害の大きさは、どれほどのものか。失われる土地。強いられる被曝。崩壊する一次産業・・・」「東電が何度倒産しても購い切れない程の被害、日本国が倒産しても購いきれない被害の大きさ・・・」。


 小出氏はさらに「原子力は事故が無くても悲惨なものだ」と講演を続けた。

「人間は核分裂生成物などの放射性核種(同位体)を作ることができるようになった。けれども、その毒を消し、無毒化する方法を持っていない。それらは、100万年にわたって生命環境から隔離し続けなければならない」。

「(にもかかわらず)これまでに、宇宙処分(技術的に無理)、海洋底処分(ロンドン条約に抵触)、氷床処分(南極条約に抵触)が検討されては破綻した。地層処分しか残されていないが、数万年〜数百万年も安定的に隔離し続けることには無理がある」「地球は46億年前にできたといわれるが、命が根付くことができた稀有な星だ。人類が誕生して数百万年。原始人は環境にとけ込むように生きてきた。数十万年前には狩猟生活をし、1万年前から定住農耕生活が始まった。産業革命があり、蒸気機関が発明され、それまでの家畜や奴隷に代わって機械が使われるようになった。人間が厖大なエネルギーを使い始めたのは200年前のことだ」。

 
 小出氏は、1986年のチェルノブイリ原発事故で同様の経験をした。「その時、原子力発電を止めるしかないという思いを強く抱いたことを思い出す。しかし、それは実現できなかった」。

 そのように重ねて述べた小出氏は、次のように講演を結んだ。

「今、大きな困難をかかえて生きていくことを思う。エネルギーをこれまで、どのように使ってきたのかという反省に立ち、ときには立ちすくみながらも、困難を乗り越えていく道を歩んでいきたい。新しい世界を作っていく大人の責任として・・・」。
 



講演の感想


 私は、第一会場が満席のため、配信画像で講演を聞く第二会場にいた。公演後、その第二会場にあいさつに訪れた小出氏は、予定になかった質疑・応答の時間をとってくれたばかりか、時間の許す限り、丁寧に丁寧に聴衆に語りかけた。その姿に小出氏の科学者としての立ち方がよく見えた。

 自らの専門性をふまえつつ、分かりやすい言葉を選び、ともに考える土台をすえようと丁寧に語りかける姿勢は、科学者としての揺るぎない確信に支えられる剛直さに裏打ちされたものだ。

 たまたま第二会場にいたからこそ聞けた質疑・応答の時間だが、この日の講演の中心部分を振り返る内容になっており、氏の思いがより詳しく語られる機会となっていた。それを聞けたのは運が良かったと思う。

 最初の質問は「いま、何をしていくべきか」。

 小出氏は「思いつく限りのことをしてきたが、何もできなかった。私には、いま何をしたらよいのか、分からない」と率直に答える。そして「この会場にこれだけの皆さんがいる。その方々がそれぞれの場で、個性を生かした取り組みを進めていくことが、原発を止める力になるだろう。」と続けた。

 次の質問は、年寄り(高齢者)は放射線感受性が低いのだから「あえて汚染された食物を食べる」という小出氏の選択について、納得できないというもの。

 小出氏は「放射線汚染されたものは、私だって食べたいとは思わない。放射線の怖さを(仕事上からも)よく知っているのでなおさらのことだ。」「でも、政府が言うように『1s当たり500ベクレル以下は安全だ』という規制のあり方はまちがいだ。放射線はどんなに微量でも危険だ。であれば、すべての食物の放射線量を計って表示するやり方のほうがよい。一切の出荷制限はしないで、汚染量を表示することにする・・というのが私の考えだ。」と述べた。

 そのあと、「子どもを守るために」どんなことをやっていくのかについて話は続いた。その概要は以下の通り。

「こどもを守りたい。子どもは放射線の感受性が高い。また、原発事故に何ら責任が無いのだから、・・・。そして、第一次産業を守りたいと思う。この思いが強いから、あえて「食べる」という選択になる。日本はエネルギーを高消費する一方、農業・漁業を切り捨ててきた。今回の事故でも、汚染野菜や汚染牛肉などを国が買い取ればいいと言うが、国はそれを捨てるでしょう。捨てるために野菜や家畜を育てようと思う農民はいるだろうか。それでは第一次産業は無くなってしまう。私は、第一次産業を守りたい。子どもを守るためには、極力、汚染の低いものを子どもに、汚染の高いものは年寄りに・・・、「60R」とか「50R」・・・放射線量で年齢制限を表示することを考えてみるのも一方策だ。もっと良い方策があればいいのだが、私には思いつかない。」

 そして、最後の質問は仙台市内で有機農業をやってきた方からで、「安全な野菜を出せないので出荷をやめた。自分で野菜の放射線測定を依頼して結果を得たが、行政側が認めてくれない。どうすればよいか。」

 小出氏は「何ミリシーベルトなら安全と考えるのか。400は安全か。100なら安全か?」と語りかけ、「放射線はわずかでも危険である。」ことを訴えた。その上で「作るのをやめないで。生産を続けてほしい。」と熱く語りかけ、ついには「私のところに送って」とまで提案した。その一貫した姿勢には、第一次産業を守りたいとの思いの深さが感じられた。

 女川原発をめぐって、建設に反対する現地漁民との交流を出発点に、自らの学者としての生き方を現実社会との関係における倫理にまで昇華させた小出氏の誠実さに心打たれた。脱原発への道は簡単ではないだろうが、力を得た講演だった。小出氏のますますの活躍を祈念する。(8月10日/G記)




■以上/宮城全労協ニュース202号(2011年8月24日)