原発被災者からの手紙
「手紙」は、郵政合同労組の組合員Yさんから昨年11月に預かっていたものです。
Yさんは宮城県東松島市に在住し、3月11日の津波によって自宅1階が破壊され、自家用車も流され、長期にわたって自宅避難生活を続けてきました。
「手紙」はYさんが、古くからの郵政の仲間(退職後再就職)であり、福島県双葉町に在住(原発から3.5km圏内)していたAさんから受け取ったものです。Yさん、Aさんの了承をいただき、ここに掲載します。
Aさんは勤務中に地震に遭遇して緊急避難、翌日夕刻近く、避難所のテレビ報道によって原発1号機爆発を知ることになります。多くの避難者とともにニュースを見ていたAさんは「目の前が真っ暗になった」と記しています。
政府の事故調査・検証委員会は昨年末、中間報告を公表しました。<国による避難指示は対象区域となった自治体全てに迅速に届かなかったうえ、その内容もきめ細かさを欠いていた。各自治体は、十分な情報を得られないまま、避難方法の決定をしなければならなかった>。原発爆発によって故郷を追われた一人の労働者として、Aさんはご自身の避難体験をつづっています。
なお、掲載文はプライバシー等に配慮したごく一部を除いて、原文のままです。
「双葉町在住のAさんから、津波によって被災した東松島市在住のYさんへあてた手紙」(2011年10月記)
<地震直後>
平成20年(2008年)10月から双葉町役場の臨時職員(週2回、午後2時〜5時まで3時間、学校休日の際は午前10時から6時間)として、双葉町児童館(小学生の下校時の保育)で児童の見守りをしていました。
3月11日の当日も勤務し、いつものように午後2時40分頃から1年生の児童を迎えに小学校に向って歩いていました。
午後2時46分に地震、強い上下・左右の揺れに立っていられず、身近にあった低い杉の幹につかまり、かなりの間うずくまっていた。
電柱が途中から折れたり、眼前にあった古い医院(廃業中)の建物の2階が傾き、そして崩落。鉄筋が入っていないブロックや御影石の塀は、すべて道路に散乱。揺れが少し静まったのを待って再び小学校に向ったが、児童が来ない。下校時前の地震だったので、児童は学校に避難していると判断し、児童館に引返した。帰途の道路はアスファルトが盛り上がったり、亀裂が入ったり、水道管はヒビが入り水があふれて、周囲は水ビタシになったりしていた。古い家屋は多数くずれ、一部は道路に倒れていた。〇〇家は、△△家はと各家を確認しながら帰ったが、今では思い出せない。後日分かった事は、双葉町の中心街は他町村と比較して、家屋等の被害は酷かったそうだ。
余震が続く中、やっとのことで児童館に戻った。館外に職員と5、6名の児童が集まっていた。その後も余震が続き、そのたびに児童はおそろしさで職員や私にしがみついて来た。
<自宅へ、そして避難開始>
帰宅したのは、午後6時30分頃。自宅に入ろうとしていた時に、軽自動車で妻が帰って来て、防災無線で「高台に避難して下さい。」と言っているというので近所の人達と近くの高台に避難した。その後、防災無線で「屋内に避難して下さい。」の声。暗くなって来たので、どうせ避難するならと、自宅に近い双葉町役場に移動した。
役場には、近所の人達が多数すでに避難していた。余震が続く中、自宅(役場と自宅間は百メートル)から車イスを持出して来て、それに酸素ボンベ(避難当初から使用、父・肺気腫、89才)を乗せ、父を庁内のトイレに数回往復する等の世話をしたりしていた。
その時に東電社員が役場に来て「原発は大丈夫です。」と言いながら庁内を巡回した。それで私を含め庁内に避難していた町民のほとんどは<明日は自宅に戻れる>と思いながら、薄い毛布の中で、余震に時々目をさましながら、うつらうつらと眠りに入った。しかし後日知った情報では、深夜の時点で原発は厳しい状況下に置かれていたのだった(町民にはまったく知らされないまま・・)。
翌朝、水分を少しとり、さて朝食のおにぎりかパンでも食べて自宅に帰ろうかと行動をおこそうとした。その直後(午前6時30分頃)に役場職員の「出来るだけ遠くに避難して下さい。」とのけたたましい声が響きわたり、庁内は大混乱。「どこに行くんだ。」「なぜなんだ。」との町民の声が飛び交う中、どんな事が起きているのかまったく知らないまま、軽自動車に乗って(私、妻、父、次男の4名で・・)、自宅にも寄らず、着の身着のままの状態で避難が始まったのでした。
私の被災証明書の発行は「さいたまスーパーアリーナ」で行なわれ、その日付は3月24日です。その証明印は<井戸川>という町長名のサインです。この時点でまだ双葉町役場では「町長印」の公印は持出していなかったのです。役場をはじめ、町内がいかに混乱していたかの証明の一つです。
私は、役場に避難した為に、避難の第一歩が早かったので、多少の渋滞で最初の避難所に着きましたが、遅れて避難を開始した町民にとっては、山を越えて中通りに向う主要な道路は自動車、そして自動車そのまた自動車と大々渋滞になったのです。
<最初の避難所と第一原発の爆発>
3月12日午前11時ちょっと過ぎに最初の避難所である福島県伊達郡川俣町立飯坂小学校体育館に入所しました。当日はその後も町民がつぎつぎと入所し、体育館がいっぱいになり、他の避難所に移動した人もいました。
午後3時頃になって、父の酸素ボンベを使用しての避難所生活は無理と思った私は、避難所にいた地元の消防団員や救急隊員に実情を相談した結果、すぐに対応してくれ、夕方には川俣町内の病院に入院させていただきました。あとで新聞等で、入院中の患者や特老施設に入居していた高齢者等が移動中に多数命を落とした事を知り、早目に父を入院させられて良かったと思いました。
外は小雪が舞う厳しい寒さの中で、数台のストーブ。仕切り段ボールもなく端から端まで丸見えのプライバシーなどまったくない体育館。床に段ボールと薄い毛布を敷き、その上に体を横たえて、毛布を掛けて寝ました。他の家族との間もほとんどないギュウギュウづめの状態で、夜間広い体育館に赤ん坊の鳴き声が響き渡り、あっちこっちで高いイビキをする人、トイレに行くのに狭い空間を通る人等で充分な睡眠もとれず、苛立ちをあらわにし怒鳴る人、動きの遅い高齢者の付添いに疲れ切った人、避難所の役場職員等(ボランティアを含む)の指示に従わず自分勝手な行動をする人等で避難所は大混乱でした。
食事は最初はパンだけ、後からおにぎり、味噌汁が出されるようになった。近所の人達の援助で、漬物や果物も時折り出された(私の避難所では近所の人達の応援態勢が良かったのでこのような状態であったが、他の避難所では一週間近くパンだけの生活が続いたのを後で知った)。
このような避難所生活の初期の段階で、3月12日午後3時36分に東電第一原発の一号機建屋が爆発したのです。
私達の避難所には、地元の好意で最初から大型テレビが備えられ、大津波の被害の状況が画面に映し出されていました。所内の町民がそれを見て動揺し、溜め息をついている中に、突然、白い煙りの立ち上がる原発建屋の爆発像が出現したのでした。ほとんどが双葉町民である避難所の中は、その驚きで騒然となりました。日々、原発の排気塔の見えるところに自宅のある(原発から3.5km圏内)私は、目の前が真っ暗になりました。
避難当初はガソリンを補給する為の給油所の長い行列や、買物をするにも早朝出かけ大行列の果てに品切れの時も。病院も大混雑、薬局しかりでした。川俣町は大混乱で地元住民も不自由な生活を強いられたようです。長期間、このような状態が続きました。
<第二の避難所、さいたまアリーナへ>
3月19日にさいたま市の「さいたまスーパーアリーナ」に家族3人(私、妻、次男)して大型バスで向いました。私の軽自動車は川俣町に残したままでした。
アリーナでは2階から4階にほとんどの双葉町民が入った。私たち家族は4階に入所した。冷たい廊下の真中が通路。その両側に段ボール、その上に毛布を敷き、体を横たえその上に毛布を掛け、仕切りの段ボールもなく廊下の端から端までが見え、周りを気にしながら寝る。様々な年齢の見知らぬ人々(他の市町村も含めて入所していたので・・)、ヒソヒソと携帯電話をする人、高イビキをする人、動き回って騒ぎ注意される子供達。プライバシーなどまったくなしの生活。
朝昼夕の食事は2階に弁当等を取りに段ボール箱を切った箱を持って、合計70段以上(息子と段数を数えたが50段以上は確実にあったが、今は思い出せない)あった階段を往復して行く。高齢者だけの家族は大変だったようだ。周りの人に助けられる人もいた。所内に入浴施設はなく、他駅に電車で行ったり、洗濯はコインランドリーに行っていた。あとで考えたら、妻や息子は入浴しに行ったが、私は川俣町、アリーナで入浴した記憶はない。大変、不潔だったのだ。医者は常駐したし、各種のボランティアが多数援助していただいたので助かった。
<第三の避難所、埼玉県加須市へ>
3月30日、埼玉県加須市の旧埼玉県立騎西高校(廃校、5階建、5階は機械室のみ)に大型バスに乗り、私達家族3人で入った。私達が入所した部屋は会議室という名称で、小学生から80歳をこえる高齢者までの36名が入室した。一応、近所の人達だけの入所なので安心した。
部屋には畳があったが、シキリの段ボールはなし。入室後1週間でラジオ1台、テレビが全室配備完了したのは4月末までかかった。それまで情報源は新聞のみだった。全国紙のほとんど。地方紙は埼玉1社、福島2社。朝早く配布場所に取りに行った。
婦女子用の段ボール製簡易更衣室(一人用)が各部屋に配備されたのは4月9日。それまでは銭湯に行った際、時にはトイレで着替える事もあったようだ。風呂はバスで行き、最初は無料だったが有料となり、1回一人450円から500円。(避難者が殺到した当初は、湯船のアカが多くなり、地元住民から苦情もあったそうです。)洗濯は所外にあり、早朝から奪い合いとなり、だんだん時刻が早くなり、設備のあった近くの加須市民から苦情が出るのもたびたびだった。洗濯物の乾燥場から、品物がなくなるという事もあった。
高イビキをする人、夜間にラジオを聞きながらそのまま寝てしまう人、朝早く起きてガタガタと音を立てたり動き回る人等、広い自宅で日常やっていた事をやり、それが他人に迷惑をかけている事を理解しない人。携帯電話の話が回りに聞こえる等、プライバシーのないまま、イライラしながら生活していたのです。
ラジオやテレビが配備されれば、近い人は高い、遠い人は低いと言い、チャンネルの奪い合いもたびたび。部屋の環境が少しでも変れば、その時点で様々なトラブルが起きました。
食事は朝、昼、夕の3度。入所者1400人分の家族毎に、食事を取りに配膳ホールに広い旧校舎を4階から、階段・通路を往復したのです。高齢者の人々はこの事だけで大変なようでした。特定の時刻に多数の人々が移動するのでゴミやホコリが舞い上がらざるを得ませんでした。掃除機が各部屋に配備されたのは4月26日で、それまでホーキで掃除していました。
度び重なる避難所の移動や環境の変化、精神的な疲労、入所当初の悪い衛生状態により、肺炎やインフルエンザ等で病人が多発し、救急車も毎日、来校していた。所内に開設された保健室に入る人も多いし、病院に役場の車で行く人も多かった。特に高齢者で病気を持っていた人が、病気を悪化させることが多かった。私も入所当初、一度風邪で保健室の厄介になった。ルーム長を担った私にとっては、今日は何もなければ良いがと日々、思いながらの毎日でした。
これが避難所の実態です。役場機能があった避難所を転々とした人達は恵まれた状況にあったが、なにも情報がないまま、これより厳しい避難生活を送っていた町民の方が大多数ではなかったか。又、自動車を川俣町に残してきた私達の行動範囲は自転車だけであり、車社会への依存度の大きさを改めて痛感しました。
<県の借上住宅では>
避難中に川俣町に入院していた父を見舞ったのは、4月12日に東北新幹線の東京〜福島間が開通した後の4月20日、一回でした。その前後に息子が見舞っていますが、寂しい思いをさせてしまいました。
川俣町山木屋地区が避難対象になった為、川俣町の病院ではベッドが不足し、酸素吸入だけをしていれば良い父については早くベッドを開けてほしい旨の催促があり、父を引き取るために、仮設住宅では不便だと思い、早目に県借上住宅に入居するため申し込んでいました。幸いに早目に入居が決定し、5月17日に親戚の自動車で白河市の県借上住宅に入居しました。
2LDKで、私・妻・父の3人で生活するには厳しい状態ですが、幸いにも双葉町で近所であった家族が同じアパートに入居しているし、周りに同郷の人達が多いので、孤独感を持たない状況にあります。
6月26日、10月7日に一時帰宅しましたが、持ち出し時間は2時間。余震が続き、室内の散乱状況は悪化するばかりで、落下物が二重三重になり、探し物をメモしていたのですが動き回って汗だくになりました。庭は背の高い雑草におおわれていました。落下物の片付け等をする時間はまったくありませんでした。
<最後に>
原発から間近にある自宅に帰れる保証はない現状にあります。前に向って進まなければならないと思いながら日々生活しています。
政府や東電に対して自分なりの思いはありますが、避難生活の実態の報告とします。同じ様な事を何回も書いていますが、それが避難の現実だと御理解下さい。
■以上/宮城全労協ニュース213号(2012年1月26日)