2.19仙台集会(講演要旨)
=ご案内=
<3月10日、宮城県東松島>
みんなの夢を乗せて、走れ仙石線!
〇午前8時30分、仙石線・東名駅へ!
〇午前11時前、野蒜駅へ!
<3月11日、福島県郡山>
原発いらない!福島県民大集会
〇12時開場、開成山野球場
2011年3月11日から一周年を前にして、宮城全労協は2月19日、仙台市内で集会を開催しました。集会の内容はニュース2月10日号に掲載した案内を参照してください。

大熊町から訴える木幡仁さん、木幡ますみさん(2月19日・仙台集会)
福島県大熊町の前町会議員である木幡仁さんが講演。双葉郡大熊町は東京電力・福島第一原子力発電所の1号機から4号機の立地自治体です(5号機と6号機は隣町の双葉町)。木幡さんは町民多数とともに暮らす会津若松市の仮設住宅から駆けつけていただきました。
昨年11月の町長選挙で敗れはしたが、住民の意識は確実に変化しつつあり、次の一歩につながるものだったと木幡さん(講演要旨は別記)。
木幡ますみさんは、女性たちの会による多様な取り組みを紹介し、「最初は煙たがられることも多かったが、いまではボランティア活動への住民の理解も広がってきた。放射能汚染の学習会など、住民と密着した活動を粘り強く続けていきたい」と報告しました。
東松島市で津波により被災、各地からの支援の力を得て福祉事業の再開にこぎつけたNPO法人の代表、伊藤壽美子さん。
津波が押し寄せる直前、家族を探しに学校へ「戻った」ときのことは、ほとんど記憶していないと伊藤さん。施設は土砂で埋まり、茫然自失していたとき、偶然、全労協の組合員と出会ったこと(町内に居住していた全労協の仲間たちが被災し、当時、宮城全労協と大阪電通合同労組の支援隊が活動していた)。泥のかき出しやガレキの片づけなど厳しい作業が続く中、四国や関西、関東をはじめ各地から毎週のように応援が入るようになったこと。支援の輪が大きく広がり、「語らいの中で力がよみがえり」、事業再開を決断し、ついに開所式にこぎつけたこと。しかし、秋には台風が再び被災地を襲って冠水し、選択を迫られたこと。11か月を振り返り、「津波被害との闘いを通して経験したことを、福祉の人づくりのために活かしていきたい」と抱負を語りました。
同じく東松島市でかきの養殖を営む高橋洋さん。
船も設備も生産手段はすべて流された。直後から、各地の生産者や消費者たちから励ましの声が届けられた。(沖縄から被災地を訪れた人たちも「オーナー制」に多くが参加し、応援してきた。)事業の再開に踏み切り、稚貝をふたたび各地に出荷するまでになった。「海で働くもの」としての誇りとともに、子どもたちへの「責任感」が強まっていったという。問題は「放射能汚染」。祖父たちは家族に、孫たちに、自分たちが獲ってきたものが一番だと食べさせてきた。放射能のことを考えると、祖父たちの顔は曇る。「海の仕事は素晴らしい、この仕事を継ぎたいと子どもたちが思える。そういう日が来ることを願って、自分たち青年部はがんばっていきたい」。
映画「宮城からの報告―こども・学校・地域」の紹介、3月10日(東松島)、11日(郡山)での取り組み案内が続きました。
最後に、福島県に在住する宮城全労協の組合員たちから生活の現状、放射能汚染と除染に関する困難な状況について報告と提起がなされました。
以下は木幡仁さんの講演要旨です。文章は編集部がまとめました。
<木幡仁さんの講演(要旨)>
〇地震発生から避難、緊急入院へ
私は福島県双葉郡大熊町に住む木幡仁です。
昨年3月11日は議会の開会中でありました。大熊町議会は3月7日より18日までの予定でした。当時、私は総務文教委員会に所属して、委員会室は私と委員長の二人だけでした。
地震は非常に長く揺れました。揺れの大きさよりも、長さに驚きました。机の上の種類は床に散らばり、ロッカーは倒れました。経験したことのない地震であることは、すぐに分かりました。皆さんも、それぞれの記憶があると思います。
私が居たのは役場庁舎の三階でした。耐震設計工事を最近、行ったばかりでしたので、役所の建物については心配しませんでした。ひどい揺れがおさまる頃、私は書類の散乱した庁舎内を通り、外に出ました。その瞬間はまだ、原子力発電所はどうなっているかということに頭は回りませんでした。電気は止まっており、携帯もつながりませんでした。そこで、とりあえず車を飛ばして自宅に戻りました。石垣が二か所、崩れていました。自宅は大熊町の山の方ですが、隣の家が二軒、崩れ落ちていました。
町の様子や津波の被害が心配でしたので、妻と二人で向かいました。あちこち通れない道路があったのですが、隣の双葉町の叔父や叔母の所に寄りました。そこは屋根がそのまま、ドサッと落ちていました。
原子力発電所からは続々と人が歩いてきていました。東京電力の入り口から延々と人がつながっていました。何かあったなということは、一目で分かりました。役場からは何の連絡もありません。役場も機能不全に陥っていました。あとはラジオを聞くしかありませんでした。それは、まさに三陸、宮城、福島に超大津波が襲っている頃でした。
11日の夜、役場からは何の放送もなく、ラジオを聞きながら過ごしました。(テレビが見られないため)その時点では津波がどのように押し寄せたのか、想像するしかありませんでした。
12日の明け方には菅直人首相がやってくるということを聞きました。
12日朝6時頃には外に出たのですが、周辺の人々は皆、公民館に向って歩いており、私も一緒に歩いて行きました。公民館前には部落の人々が集まっていました。
区長さんの話では「これからバスに乗って避難します」ということでした。田村地区に向う道路は一本で、それは私たちの公民館前を通る道です。茨城交通のバスが十数台、前夜から待機していたそうです。結局、バスには一人も乗ることはなく、私たち全員が自分の車で出発したのです。避難所である田村の船引体育館に着いたのは午後3時頃でした。その時、すでに一号機で原子炉建屋が吹き飛んでいたのです。
14日には三号機が爆発。東電が全員退去したいと申し入れたが認められず、15日の朝6時ごろには四号機が水素爆発しました。
私はその後、3月27日まで避難生活を送り、28日には仙台の社会保険病院に入院しました。私の身体は避難生活でズタズタになっていました。その後、妻からの腎臓移植を経て8月2日に退院、会津若松市松長の仮設に入りました。
〇町長選挙立候補を決意、
「帰れないことを前提とした取り組み」訴える
仮設の生活の中で回復していった私は、あることによって町長選挙への出馬を決意します。それは、現在の町長がどうしても「帰る」と言ってきかないからです。心情的な願望に訴えるこの「帰還方針」は、一万人の全町民の一時の心情に思いを寄せながらも、その実、死の淵へと誘うものであり、まさにトップとして許されない行為だと私は思いました。
このような混乱の中で求められるのは、徹頭徹尾、理性に裏打ちされた方針です。現在の高線量の中に、どうやって帰ろうというのでしょうか。
私は以下の方針で町長選挙を闘いました。
第一点は、「帰れない」ということを前提とした新たな取り組みをする、ということです。つまり、町民の移住です。拠点をもうけて、いわき市や田村地区の国有林、ゴルフ場跡に住みつくことです。
除染というのは、周りの線量がそれなりに低い所でないと効果がありません。私の町はその範囲外であるということです。
11月10日付の朝刊で紹介された調査によれば、35%の町民が「もう戻らない」と言っています。また残りの50%の町民が、2年以内に戻らなければもう戻らないと言っています。つまり5年や10年をメドに帰還を始めるといった事はありえないということなのです。
60歳代の人間は5年、10年と簡単に言いますが、70歳代を超えた世代にとっては「避難生活の中で人生を終えなさい」ということに他なりません。また若者が失業し、暇を持てあまし、パチンコや飲食に身をやつし、人生の大事な時期を無為に過ごすということになるならば、それも問題です。
第二点は、東京電力への賠償請求に関してです(*注2)。
個人の問題であるから役場はタッチしないという考えに対して、私は、弁護士を役場内に常駐させ、町独自の書類をまとめ上げて請求するという「双葉町方式」が良いと訴えました。また震災以降、役場内に常駐している東電職員を追い出すべきであると主張しました。
そのほか保育所の設置や町長室の開放、さらに原子炉はいらないといった事を掲げて闘いました。
〇選挙には負けたが、次への一歩に
一か月というごく限られた中で、しかも誰がどこにいるのかも分からない状況の中での立候補でした。当然、票読みもできませんでした。このような状況が吉と出るか凶と出るか、それは五分五分だろうと私は考えていました。
結果は、私が二千三百、現町長が三千四百という数字でした。選挙に負けはしましたが、私の闘いは次の一歩を踏み出す足がかりになっていると思っています。
私が原発反対を掲げて闘ったこと。住民の権利を要求したこと。そして今回の責任の一切が東電にあると主張したこと。それらは、日々不満をつのらせている仮設住民の意識を変えつつあります。困難ではありますが、私はそう考えています。そして、「選挙があと半年遅ければ勝った」という方々が結構いたことも事実です。
多くの町民が会津若松の自然が取りまく仮設住宅で暮らしています。「帰れる」と信じて現町長に票を投じた人たちは、町長選の後、「帰還が遠のく」という報道に日々接しています。また中間貯蔵施設に対しても、あからさまに反対はしなくなりつつあるということです。
先の見えない原子力災害に対して、多くの大熊町民はいらだちを隠すことができなくなっています。大熊町という町は、年間の総予算が80億円ですが、電源交付金が20億円を超え、原発の固定資産税や核燃交付金などが10億円、毎年入ってきていました。貯金も100億円を超える、その意味では超優良な自治体であったのです。この財政に対して文句も言わずに従っていれば大丈夫という一般町民の意識だったのです。このことが、少しずつ変わりつつあります。
隣町の楢葉(ならは)町でも町長選挙が来月中に実施されようとしています。双葉郡8町村はそれぞれに問題を抱えながら、進んでいくでしょう。
以上で私の報告とします。
(注1)講演に引き続き質疑がありました。
なかでも「除染」に関して、木幡さんは、政府の考え方、事業の発注と受注、さらに「除染労働」(労働者の「確保」と実際の労働)に関して疑問や問題点が多々あるとの視点から答えました。また、原発事故現場で、多くの福島県民が「収束」作業のために働いていることの意味をいかに考えるべきかと指摘しました。
(注2)「双葉町方式」について。
東電に対して個人の立場であれば、プライバシー防衛をはじめ様々な困難や不利が予想される。そもそもマニュアルは難しく手続きは煩雑すぎる。
以下は参考記事(読売新聞3月1日「双葉町民、集団賠償請求」)。
「・・避難している双葉町の町民に代わり、「双葉町弁護団」は2月29日、東電への損害賠償請求の第一弾として、町民47人計約4億4650万円分の和解仲介を政府の「原子力損害賠償紛争解決センター」に申し立てた。・・賠償請求を巡っては、東電の説明会に出た町民から「書類が多くて難しい」などの苦情が寄せられ、町は昨年9月に交渉をストップ・・補正予算で計上し、弁護団を結成していた」。
■以上/宮城全労協ニュース217号(2012年3月4日)