スタディツアー/宮城編
(注)「宮城・福島の被災地から学ぶスタディツアー」の報告を電通労組の仲間からいただきました。電通労組全国協議会が準備し、4月28日から30日の3日間にわたって実施されました。宮城全労協はこの企画に協力し、参加しました。各地からの参加者には被災地を初めて訪れる人たちもいて、貴重な体験であったとの声が寄せられています。後半・福島編は後日紹介の予定です。
被災地から学ぶ〜宮城/福島スタディツアー(宮城編)
四月二八日から三〇日の日程で「宮城、福島の被災地から学ぶスタディーツアー」が企画された。大阪、四国、首都圏をはじめ、三日間で延べ七〇人が参加者した。「地震、津波、原発事故」の複合災害から一年経った被災地の実態に触れ、感じながら「被災者に寄り添った復興支援」はいかにあるべきかを考える。それがツアーのテーマだった。企画は電通労組全国協議会が中心となって準備された。
<東松島から石巻、そして「奥松島」へ>
一日目の四月二八日。震災以降、復興に向けて支援してきた東松島市東名地区にある宅老施設NPO法人「のんび〜りすみちゃんの家」に大阪、四国、首都圏から参加者が集まった。昼食を交えながらの交流。代表の伊藤壽美子さんから一年間の施設復興への取り組みが報告された。
震災で現在も止まっているままのJR仙石線の復旧に向けた取り組みが地域の課題となった。三月一〇日に開催された「走れ!仙石線」のイベントには、全国のボランティアを含めて五〇〇人を超える人々が参加した。「ボランティアの皆さん一人一人の支えがあって地域の復旧が進み、一軒一軒と住民が戻ってきている。元の地域に戻すためにも仙石線の早期開通を求めていきたい」と伊藤さん。
四月二三日、東松島市とJR東日本はJR仙石線の復旧についての覚書を締結した。三年後をめどに、現ルートより五〇〇mほど内陸の高台を通る新ルートとし、「野蒜駅と東名駅は移設」する、新ルートは市が取得して有償でJRに譲渡するという内容だ。通勤・通学等の交通手段はいま代行バスになっていて、「三年も待てない、現ルートでの早期開通」が地元の声である。早期開通に向けた新たな取り組みも準備されている。
参加者は次に宮城全労協組合員の案内で、東松島市の大曲地区を視察した。ここは集団移転の対象地域となっており、瓦礫はほぼ津波被害時のままで、被災し破壊された家屋も放置されたままである。
一年前、「青い鯉のぼりプロジェクト」がこの地から呼びかけられた(ニュース190号・191号参照)。幼稚園児が震災によって犠牲になった。大好きだった青い鯉のぼりが自宅の近くで見つかった。鯉のぼりを上げ、震災で犠牲になった子どもたちを追悼しようと遺族が呼びかけ、全国から三〇〇以上が集まった(このプロジェクトに賛同し、鯉のぼりを贈ってくれた仲間も、今回のツアーに四国・松山から駆けつけた)。今年は、三月一一日から五月五日まで掲げられ薫風の青空を泳いでいた。五月五日には、犠牲になった子どもたちを追悼する会が青い鯉のぼりの下で開催された。
石巻市では、石巻工業港に設置された震災瓦礫二次仮置き場や魚市場を視察、日和山から石巻市内を展望し、渡波地区などの被災地域を見て回った。津波と火災に見舞われた門脇小学校の校舎内を覗くと三・一一当日そのままがそこにあった。
初めて被災地を訪れた参加者は、あまりにも悲惨な現状を目の当たりにし、しばし声も出なかった。
その日は「奥松島」の名で有名な東松島市の宮戸島月浜の民宿に宿泊した。月浜の集落は津波で全壊し、住民は仮設住宅で暮らしている。今回宿泊した民宿は高台にあり、唯一津波被害を受けなかった。震災後、月浜地区は道路が冠水して孤立した。住民約四〇人が共同生活を送り、救助が来るのを待ったという。
夜、それぞれの震災に対する思いや、この一年間の活動報告を交えながら、参加者たちは和やかに交流した。
<南三陸から雄勝〜市街地の八割が壊滅した町で>
二日目、まず南三陸町に向かう。この日の参加者は一九人。
2005年、三陸水産業で有名な志津川町と歌津町が合併して南三陸町となった。町の全域が消滅した志津川地区では、震災以降、全統一労働組合や「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」などによる「名無しの救援団」が週一回の炊き出し活動を継続した。今年一月二九日、全国の仲間が支援する一煉瓦一万円の基金活動を基に、地域のコミュニティとして「さんさカフェ」が開設された。特価の定食を頂き、店の共同代表である内海さんから「さんさカフェ」の活動や被災者支援プロジェクト(支援者が一〇〇〇円で食事券を購入→その食事券を被災者にプレゼント→被災者がさんさカフェで食事)を紹介してもらいながら交流した。
その後、復興市を訪れ、被災した南三陸町の防災対策庁舎で焼香。市街地を視察しながら、石巻市北上町を経由して大川小学校に向かう。大川小学校では、六八人の尊い子どもたちの命が失われた。(未だ六人の行方がわからない)。当日もたくさんの人々が追悼に訪れていた。私たち参加者も慰霊塔に献花をして行方不明者の早期の発見と犠牲になった方々の冥福を祈った。
その後、市街地の八割が壊滅した雄勝町に向かう。大川小学校から峠にある釜谷トンネルを抜け雄勝湾に出ると、人のいない市街地に行き当たる。今回の参加者は以前の雄勝町を知る人は少ない。瓦礫が片づけられているので「こんな所か」と思うかもしれない。そこで震災以前の町内の写真を示しながら説明する。
ここも建設制限がかかり、集団移転の対象地域だ。リアス式の山が迫った地域での集団移転。それは、ふるさとを捨てろといわれているのと同じだ。
同じく2005年、雄勝町は近隣5町とともに石巻市と大合併した。合併によって旧町は合理化され、自治体機能が大きく低下することになり、そこに大震災が襲った。「新生・石巻市」が復旧に大きく立ち遅れた原因の一つがそこにある。周辺では女川町だけが合併せずに従来の自治体を維持した。女川が合併対象外となったのは、もちろん女川原発の存在による。
<女川を訪れて〜原発のない町をめざそう>
次の訪問地、女川に向かった。リアス式海岸を這うように走る国道三九八号線。山桜が満開だ。女川町立病院駐車場から、壊滅した女川町内を視察する。いたるところで震災を受けたビルが解体されている。海抜一五mの町立病院まで徒歩五分の七十七銀行女川支店では、屋上(三階)に避難するも一三人が犠牲になった。その建物はまだ残っていたが、翌日から解体が始まった。
町議会議員の阿部美紀子さんにわざわざ町立病院の駐車場まで来ていただいた。阿部さんは昨年一一月、七カ月遅れた宮城県内の統一地方選で初当選を果した。
「町民は、声には出さないが、ほとんどが不安だと思っている」「町外でもこれまで声のなかった地域で反対の動きが起きている」「被災して人口流出が続いている。原発があれば人は戻ってこない。原発のない町を目指していく」と阿部さんは切々と話した。女川町には多額の「原発マネー」が投下されてきたが、震災前でも宮城県内で下から二番目の人口減少自治体だったのだ。
阿部さんにお礼をし、「女川から脱原発を」と書き込まれた阿部さんの軽ワゴン車を囲んで参加者と「記念写真」。脱原発の思いを新たにした。
阿部さんと別れたあと、女川原発の見える小屋取浜へ向って海岸線を走る。福島第一原発事故以降、再稼動できずにいる女川一号〜三号機が静かにたたずんでいた。原発入口には、原発に「アカンベー」をした子どもと「事故で止まるか!みんなで止めるか!」のスローガンが書かれた女川原発反対同盟の立てた大型看板があった。事故で止まったことに忸怩たる思いはあるが、五月五日、日本国内の原発がすべて止まった。
夕方、女川から仙台にもどり、宮城全労協と参加者の交流会がもたれた。宮城全労協から被災地の状況の報告を受け、意見交換が行われた。とくに政府や自治体が進めている瓦礫・震災廃棄物の県外広域処分の問題点、「除染」や農漁業などの「風評被害」について関心が集まった。
(電通労組 日野正美)
■以上/宮城全労協ニュース224号(2012年5月22日)