スタディツアー/福島編
(注)前号の「宮城編」に続いて、「宮城・福島の被災地から学ぶスタディツアー」の続報が電通労組の仲間から寄せられたので掲載します。4月30日、ツアーには首都圏からの参加者も合流しました。南相馬市の原町区で学習会を開催、津波被災地域を南下、警察の阻止線を確認した後、小高区の中心街を通り、西方の酪農地帯を訪れました。
福島県南相馬市は宮城県南部と福島県いわき市の中間、福島第一原発の北方に位置し、いわゆる平成の大合併によって相馬郡小高町と鹿島町、原町市の3市町が合併(2006年)、各々が「区」となって現在にいたっています。原発事故にともなう政府の機械的な「区域分け」が市行政と住民を分断したと指摘されてきました。三つの区は主に小高区が警戒区域、原町区が緊急時避難準備区域、鹿島区は指定外とされました。河北新報は警戒区域指定解除から一か月、インフラ復旧が進まず地域経済復活の道筋が見えない小高区の「新たな難題」とあわせて、「大合併の<しこり>再燃」と報じました。
「旧福島県小高町(南相馬市小高区)の元町長ら合併前の町の退職者が結集して国に直談判した背景には、合併で地域の声が届きにくくなったとの不満がある。平成の大合併の時、各地でくすぶった自治体間のしこりが福島第一原発事故という危機に見舞われて再燃した・・」(河北新報5月25日)。
なお、南相馬市・復興企画部によれば、市の3・11直前の人口は71,494人、今年4月5日現在で市内居住者は44,166人、市外避難者は20,899人、転出者4,680人、所在不明者(死亡者を含む)1,749人。死亡者は897人(うち「震災関連死」266人)、行方不明者3人(今年3月28日現在)。
<写真>
〇そのままの被災家屋

〇警察の阻止線

〇人気のない小高区中心街
「被災地から学ぶ!宮城/福島スタディツアー」
(4月28日〜30日、三日目)
4月28日から始まったスタディーツアーの最終日(30日)は、福島第一原発事故に苦しむ南相馬市だ。この日の参加者は34名。労働者、学生、市民などいろんな人たちが参加した。福島への思いを持ち続けながら東日本大地震のボランティア活動や各地での「脱原発」運動に関わってきた人たち。多くは初めて「現地」に足を踏み入れる。
南相馬市は政府のでたらめな避難指示によって、「小高区と原町区の南側一部が20キロ圏の警戒区域、残りの原町区と鹿島区の一部が30キロ圏内の計画的避難区域及び緊急時避難準備区域、残りの鹿島区が30キロ圏外」に設定され、分断されてきた。
原発事故後、南相馬市原町区に居住する友人を訪ねた。駅からの商店街はシャッター通りと化し、道行く人も殆どいない。子どもの姿も見ることがなかった。0.2〜0.25μSvが友人宅の屋内の放射線量の値。いっぽう公共施設に設置してある線量計の0.18μSvの値。これは「除染」を優先的に行った敷地に設けられた線量計の値であり、一般の住宅や敷地等の除染は全く進んでいないことを示している。
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原町卓話会にて〜何の情報もない中での逃避行
仙台を出発して約2時間。国道六号線から太平洋側の風景を望む。大津波によってもぎ取られ、かろうじて残った防風林がまばらに立っている。田圃は塩害によって田起こし、しろかきが出来ない。広大な「荒れ地」のような風景が続く。途中の「日立木百尺観音」で小休憩し原町区に入る。
今日のスタディツアーの第一弾は、原町区の生涯学習センターでの「原町卓話会」で原発事故被災者の話を聞き、討論するという企画。今回の現地ツアーを準備して頂いた星さんから地域の現状の報告があり、原発事故によって避難を余儀なくされた経過が話された。
家族で宮城県に避難を決めた時、年老いた母親が「絶対ここを離れない」と言う。母親一人を残し、家族が逃げざるを得なかった様子が語られ、胸の詰まる思いがした。地域住民に支えられて生活してきた高齢者たちのなかには、孤立して餓死していった人たちもいたという。
避難先の宮城県仙台市は「電気、ガス、水道」が全く使えない状況で、それならと原町に戻る決断をした。原発事故によって降り注ぐ放射能の恐怖から避難した星さんが、「放射能が降り注いだ故郷に帰る」ことの辛さはどんな気持ちだったろうか。「国は、情報を小出しにして、住民の健康を何も考えていない」。この言葉の重み。娘夫婦は別なところに住宅を借り、夫は毎日避難先から南相馬に通勤している。娘を避難させる時に「20年は戻るな」と約束させ送りだした父親の言葉。余りにも切ない現実だ。
続いて20キロ圏の小高区から福島市に避難している木幡さん。避難者の話を聞いてもらう機会を設けてもらったことについての感謝の言葉から話し始めた。
「福島原発事故への国民の関心が日に日に薄れていくが、実態はさらに深刻になっている。その状況を見てほしい。公的なものが失われてきている(社会)状況を憂いている」。
「避難命令が出たというだけで何の情報も、行政からも警察や消防からも得られなかった」「何かおかしいとメールで友人、知人に連絡を取り、福島原発が爆発した事を知った」。3月12日、消防から「避難しろ!」と言われ、取りあえず原町区の石神の中学校体育館に。2000人を超える住民が避難していた。そこに自衛隊が来て「ここは危ない!避難しろ」と言って姿が消えた。既に職員も逃げており、住民がパニック状況の中で別な場所に移動していったが「何処に行けばいいのか何の情報も無い中で相馬、福島、新潟と逃げて行った」。
「今回の(4月16日の避難地域解除準備地域)避難区域解除は、「前に進んでいるよ」と言う政府、東電の安心作りでしかなく、地元は安心して住める環境ではない」。
「福島第一原発事故は40年経った原発の配管破損が原因だ。30年を超えた頃から毎日、老朽化した配管を取り換えていると原発下請労働者が話していた」。「今回の原発事故は、国民全員が責めを負う立場にある。豊かな生活をするために原発導入に暗黙の了解を与えてきたからだ。過去数十年間、検証する機関が全くない状況下で日本は過ごしてきた。規制をしなければ第二・第三の原発事故が起きる」。「今回の事故原因について、だれも責任を取っていない。政治家も官僚も学者も東電も」。「スピーディの情報が速やかに開示されていれば、誰も放射能の高い所に逃げなかった。これは、棄民政策以外の何ものでもない。今の日本は何も変わっていない。自然との毎日のふれあいが幸せだったが、根こそぎ生活を奪ってしまった」「毎年160人程の新入生が今年は20人から30人。皆、故郷から離れていく。原町は30年間は農業が成り立たない。農業・漁業が成り立たないところに商業は成り立たない。そんなところに若い人が住むのか!」。
「諦める。忘れる。転換できない日本。これでいいのか」。「労組が野党の議員を、企業が与党の議員を作り役割分担をしてきた。小さな政党からしか原発に対する批判が出なかった」「行政による心のケアは何も無く、復興第一だ」。こうした中でも、今回の原発事故で国民が解ったことは「原子力のごみ処理は現代社会ではどうにもならないという事だ」。このように木幡さんの話は多岐にわたった。
二人の話を聞いて「本当の幸せとは、豊かさとは何か」を問いただしていると感じた。「親戚、家族みんなバラバラになり海にも川にも山にも行けない。(原発事故で)生活が根こそぎ変えられてしまう」。政財官、御用学者、マスコミも含め「(原発が動かなければ)この夏の電力はどうなる、日本企業は立ちいかなくなる」と一大キャンペーン。だがそこには「人間の命」「人間の安全保障」について語られることはない。
質疑応答のコーナーでは参加者から沢山の質問が出た。怒り、苦しみ、悲しみを胸にしまいこんで一つ一つ丁寧に答える星さん、木幡さんの姿に、誠実な人柄が表れていた。
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避難地域解除準備区域・南相馬市小高区を行く!
避難している福島市に「帰る」木幡さんにお礼を述べ、星さんの案内で小高区へ。参加者には「マスク」を着用してもらい、大津波被災地に向かう。8台の車列は太平洋に面した被災地を巡る。
倒壊した防波堤の前で「あの堤防の傍まで家が立っていた。全てが破壊された所です」。瓦礫は片付けられていたが、そこかしこに車の残骸があり、ヘドロに覆われた田圃が拡がる。高台に津波被害を逃れた家があるが、人の気配は全くない。倒壊した家もそのままであり、あの3・11以前にここで暮らしていた人達の生活の匂いは何も感じられない。
桃内駅を過ぎると浪江町との境界に入る。6号線に物々しい「立ち入り禁止」の看板があり、阻止線を張っている。カメラを向けると数人の警官が走ってきて「道路を塞がないように」「ここから先は立ち入り禁止区域です」と「丁寧?」な応対。小高区の阻止線が以前からわずか福島第一原発寄りになっただけで、国道沿いの店、ガソリンスタンド、コンビニ、住居はすべて無人のままだ。「避難地域解除準備区域」は「出入り自由・滞在不可」。ライフラインも公共機関も何も復旧していない。ましてや除染も放射能対策も、そして生活するに必要なものも何もない。空き巣にとって好都合な空間だけを作ったと言っても過言ではないだろう。現実に増えているそうだ。
境界線から小高区内に入る。地震で倒壊した家々が道路に覆いかぶさるように連なっている。被災者であろうか車が時々通って行くが、小高区は、3・11以後時が止まったような世界だ。宮城県東松島から始まった今回のスタディーツアーであるが、原発事故によって避難を余儀なくされた街と人々の心の傷の深さは言葉に言い表せないものだ。高い放射線量が計測されているこの街を「避難地域解除準備区域」にすることの意味は、あたかも放射能汚染の心配がないことのように繕い社会を欺く仕業でしかない。「住民をモルモット化する、棄民政策だ」と言う木幡さんの言葉を改めてかみしめる。
小高区は憲法学者の鈴木安蔵さんの出身地でもある。偶然お会いした石田さんから「原発事故被災地から憲法を考える」というレポートを頂いた。「国策としての原発推進の根底にあるのは、功利主義の徹底である。其のことは、結果として、私たちが基本的規範とする品位や敬意と言った大切な考え方を侵害するような人間の扱い方を認めることになってしまう」と指摘、「全ての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」(憲法25条)と国の社会的保障の義務を鋭く突いていた。「福島のことを、皆さんは忘れないでください」という石田さんの言葉が胸にささった。
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酪農家との交流
小高区視察を経て、原町区で酪農を営む杉さんの家を訪問した。震災後、新潟に一旦避難したが、牛をそのままにしてはおけない。家族を残し、両親と共に帰郷して牛の世話をしてきたという。「乳牛は毎日乳搾りしてやらないと病気になってしまう。以前は55頭の牛を飼っていた。今は、預かった牛も含めて35頭飼ってるが、餌は北海道や海外から買っている。飼料代が月40万程かかる」「放射能で牧草地も使えない。近所の酪農家の半数は既に廃業した」。とつとつと話す杉さんは間を置きながら(悔しさを押し殺すように)現状を話す。牛が「モウ」「モウ」と鳴いたら「こいつらも、なんか話したいんだべ」と。皆で少し笑顔になった瞬間だった。
残った酪農家でいろいろ集まって除染等について相談しているが、なかなか決められない。高い放射線量のこの地域で酪農を進めながら家族が生活していくことの困難さを聞き、厳しい現実を知らされる。生活を一変させた福島原発第一事故。しかし、その責任はおろか被害者が日常の生活の中で苦しんでいる現実に何も手当すらできていない。ツアー参加者は、忙しい時間のなか受け入れてくれた酪農家の杉さんに御礼の言葉を述べ交流を終えた。帰途、杉さんの家からほど近い高台にある牧草地で線量を計測した。ホットスポットでは線量計がウナギ登りで「ピーピーピー」と30μSvを超えて行く。ここで生きる住民の生活には何の対策すらとられていないことに怒りが沸く。
5月の風が吹き、美しい緑に囲まれた福島県浜通り南相馬市。だがそこには、あの福島原発第一事故で故郷を追われた人々。そこで生活を営んでいる人々。それぞれがやり場のない怒りと悲しみと苦しみを抱えて生きている。「普通の生活」とは。命の尊さとは。拝金主義にまみれたこの国が失ったものの大きさを感じざるを得ない。
今回のスタディツアーは延べ人数で70名に上る。「被災地を見、話を聞き、そして考え、動こう!」という今回のツアーは本当に企画してよかった。被災地からの生の声を全国に発信するのが今できることだ。最後に立ち寄った原町区の「雲雀ヶ原」。石田さん御夫妻はツアー参加者に、地元名物の「アイス饅頭」を持って待っていてくれた。何十年ぶりに食べたのか?懐かしい味がした。相馬地方(相馬郡、双葉郡)で7月28日〜30日に開催される「相馬野馬追い」。そこで唄われる相馬の国歌は「相馬流れ山」。望郷の切ない唄である。今年は出掛けてみようと思う。懐かしい故郷に!
(電通労組 高橋 喜一)
■以上/宮城全労協ニュース225号(2012年6月2日)