宮城全労協ニュース/第249号(電子版)/2013年8月18日

フランス郵便労働者に同行して
〜福島訪問記・後編



(注)フランス郵便労働者(SUD)に同行した福島訪問記の後編を紹介します(前編は宮城全労協ニュース前々号に掲載)。

 なお宮城全労協は今秋、昨年4月に続いて「スタディ・ツアー」を実施すべく準備中です(8月末には福島訪問の「プレ企画」が実施されます)。前回「スタディ・ツアー」の報告はニュース224号・225号に掲載されています。




「希望の牧場」〜警戒区域からの声なきSOS
(福島訪問記・後編)



 南相馬市小高区に隣接する双葉郡浪江町の「希望の牧場」は、福島第一原発から14キロの地点にある32ヘクタールの広さを持つ牧場だ。広い牧場にゆったりと「くつろぐ?」沢山の牛たち(現在350頭ぐらいいるらしい)。一見のどかな風景に思われるが、この牧場は「警戒区域」の中にある(*写真上)。

 2011年3月11日14時46分東日本大震災発生、翌12日15時36分福島原発1号機で水素爆発。次々と原発は爆発し、爆発音は14キロ離れたこの牧場まで届いたそうである。

<希望の牧場>プロジェクト代表でもある吉沢正巳さんは快く私たち一行を迎えてくれ、家の縁側から福島第一原発が見える場所に案内してくれた。吉沢さんが貸してくれた80ミリの双眼鏡は、一号機から四号機までの白い排気口と巨大な作業用クレーンをハッキリと映し出した。

 原発事故発生前、牛約3500頭、鶏約44万羽、その他豚や「相馬野馬追い」行事のための馬などが警戒区域内で飼育されていた。



警戒区域内の牧場、畜産農家で何が起きていたのか?


 事故後、この地域住民に避難指示が出され、現在も福島県民約15万人が避難している。飼育農家も手塩にかけて育ててきた動物達を置いていくほかはなかった。その半数は「餓死」し、生き残った家畜について国は5月12日、地元自冶体に「警戒区域内の家畜の殺処分を指示」。豚、鶏は7月まで殺処分が終了した。だが吉沢さん達は「餓死」でも「殺処分」でもない第三の「生かす道」(活かす道)を望み、そのような農家が「被曝牛」約千頭の飼育を避難区域内で続けているという。

 放射能汚染はR114(県道富岡線)沿いに拡大し、浪江地区住民一万人が当初避難した津島地区には化学防護隊をはじめ自衛隊の部隊が集結していた。避難民と自衛隊・・それは、まるで「戦場のようだった」そうである。だが放射能の拡散・汚染の拡大が明らかになると「あっ!」という間に誰もいなくなった。そして住民は、より遠くへ、より遠くへと放射能に追い立てられた。情報の全くで無い中での逃避行だった。エム牧場(現在の「希望の牧場」)にも自衛隊の通信部隊が来て衛星通信で情報連絡を取っていたが、撤収時に「早く避難した方が良い」と言い残して去った等、リアルな話が続いた。


 14日に2回の爆発音を聞き、17日のヘリ放水時には「噴煙が上がる」のが見えたそうだ。

 東電撤退の動きの中でタンクに「3・12浪江町無念」「原発爆発14キロ地点」「決死救命を!」「団結!」のスローガンを書き連ね(*写真上)、18日に上京し、単身東電本社に行き、応接室での面会で「牛が死んでしまう!全滅する」と泣きながら訴えた。その後、農林水産省で牛の保護策を要求し、原子力安全保安院では「安全保安院?違うよ!危険保安院だ」と弾劾し、「枝野に合わせろ」と首相官邸に行ったが「アポなし」「出直して」と門前払いされたなど、吉沢さんは当日の怒りの行動を振り返った。



なぜ「希望の牧場」に?


 吉沢さんとエム牧場会長の村田さんの二人で、放っておけば餓死する牛にありったけの餌を食べられるようにと、警備のバリケードをかいくぐって三日に一度もやし粕5トンの餌をバリケードを運び続けたという。誰もいなくなった近くの牛舎から絶叫にも似た鳴き声を聞き、餓死していった牛を目の当たりにした。悲惨な光景だった。「うちでは絶対に餓死させられない」。事故に対する怒りと命に対する強い思いが「希望の牧場」につながって行く。

 1500頭が「餓死」、1500頭が「殺処分」、100頭の「離れ牛」。「言った以上、折れるわけにはいかない」・・吉沢さんの言葉だ。経済的にも価値の無い牛をどうするのか?「被曝牛の調査研究」や「土地の保全」など、牛たちを生かす道(活かす道)の模索が「希望の牧場」だ。

 国の「殺処分の指示」と相反した事に対する「攻撃」と、その指示に従わざるを得なかった飼育農家との軋轢など、取り巻く環境は厳しい。しかし<時間をかけて被災地住民の絶望を待つ>という政府・東電の動きが「棄民・棄畜政策」として現れてきているなかで、「希望の牧場」は「原発事故」の本質を問い「命の尊さ」を社会に突き付けているのだ。

 7割以上の国民が福島第一原発事故後、エネルギー政策の転換を求め「脱原発」を要求している。だが、こうした声を無視し「世界最高の安全確保」という「新安全神話」を振りまきながら「原発再稼働のスイッチ」は押されようとしている。福島の現実から目を塞いではいけない。人々が一緒になって見つめ、考え、解かなければならない。「何よりも命を大事にする!」社会とは、と。

 「原発一揆」(警戒区域で闘い続ける“ベコ屋”の記録)という本が発刊されている。著者の針谷勉さんは、吉沢さんと共に牛の世話をしながら取材活動を続けている。避難区域で餓死した牛や家畜の目をそむけたくなるような姿。吉沢さん達の闘い。是非読んでもらいたい一冊だ。オフィシャル・ブログ「希望の牧場〜ふくしま」も参照して欲しい。

 沢山の牛に見送られながら「希望の牧場」を後にした。この牧場の山を降りたところが「帰宅困難区域」飯館村長泥地区だ。


震災当時のまま、破壊された家々が


 帰り道、南相馬市小高区の海岸に立ちよった。昨年4月に「避難解除準備区域」になったところだで、直後に「スタディ・ツアー」の一行が訪れた。津波が押し寄せた海岸からは破壊された堤防と集落がある。主要な道路の瓦礫は撤去されているが、破壊された車や残骸などは津波が作った水たまりのなかに埋もれている。津波によって破壊された家々は2011年3月11日の姿のままに夏草のなかに建っている(写真上)。

 「津波被災地はゼロからの出発。原発事故被災地は見えないゼロへの出発」。避難区域再編によって「避難解除準備区域」が拡がり、近々故郷に戻れるかのようなマスコミの取り上げ方がされている。そして御用学者の「安全唱和」「原子力ムラの復活」、日本のエネルギーに「原発は必要」「早期再稼働」、成長戦略として「原発の海外輸出」など、「何もなかった」かのような主張がはびこり、原発事故被害者、避難住民を追い詰めている。

 だが、このような「政府を始めとする推進勢力」と「脱原発」を要求する圧倒的な国民の意識と要求との「ねじれ」は際立っている。福島がつきだした、福島が社会に問うた事をシッカリと考えながら「フクシマを忘れない!」「フクシマに繋がって行こう!」と思う。それは、福島の現実を直視する事から始まる。今回の同行訪問で強く感じたことだ。

 記/高橋 喜一(2013年8月)



(注)フランス郵便労働者との同行記は、引き続き宮城編を紹介します。



■以上/宮城全労協ニュース249号(2013年8月18日)