フランス労働者との同行記
〜(その3)宮城編
(*)本号は前2回の同行記・福島編に続くものです(報告・写真は日野正美さん)。掲載が遅れてしまったことをお詫びします。なお、ツアーに参加したYさんのコメントをあわせて紹介します。
<フランスの仲間に同行して石巻・女川・東松島へ>
フランスから来た二人に同行し、福島原発事故被災地を案内してから、夕方、宮城に入り、翌日(6月4日)石巻市沿岸部に向かった。
三陸自動車道を一路、石巻へ向かう。三陸道は、仙台から被災地の作業に向かう労働者の車両が続き、ところどころで渋滞気味である。震災需要の高まる石巻地域は宿泊施設が不足しており、そのため仙台エリアから通う車両が増大している。
石巻の西部地区を走る三陸自動車道沿いには、津波被災者の集団移転先である住宅団地の造成工事が行われていた。計画戸数は1460戸(戸建住宅が1110戸、災害公営住宅が350戸)で計画人口は3700人になるという。石巻市は中心部の2カ所と離半島部の48カ所で防災集団移転促進事業を計画しており、中心部の一つが上記の工事である。宅地供給開始は14年10月からという計画のようだが、地権者との話しが進んでいない地域と比較すると、それでも早い方だ。ここでも復興事業の遅滞状況が垣間見える。
右手に石巻地域の震災医療拠点となった石巻赤十字病院を見ながら、河北インターチェンジから一般道路に出て、新北上川(追波川/オッパガワ)の右岸を河口に向かう。砂埃を上げてすれ違うのはほとんどが大型ダンプカーだ。宮城ナンバーのみならず、他県ナンバーが目立つ。
今日の第一訪問地の大川小学校に着く。津波の巨大な強さを象徴するように、破壊された校舎が当時の姿をとどめている。校門には慰霊塔が、校庭には震災と津波で犠牲になられた方々の慰霊碑が建立されてあった。校舎の南側には山が迫り、そこに避難ができていればと思うとこみ上げてくるものがある。
フランスから来たKさんは、「多くの子供たちが津波の犠牲になった痛ましい大川小学校は、見ていて胸が締め付けられる」と話していた。事故検証委員会が今年2月から始まっている。検証作業は石巻市が東京にある「社会安全研究所」に委託、そこが事務局となり進められており、その検証結果を報告書として石巻市に提出するとしている。どのような報告書と検証が行われるのか注目したい。
慰霊碑に手を合わせ、かさ上げされた埃だらけの道路をさらに河口に進む。道路の両脇は、3.11の津波から冠水したままの地域が続く。
途中で道路の脇を埋め立てている工事関係者に「何を作るのか」と尋ねた。「ここは民有地で、我々は防波堤の修復工事をしていて、そこまでの道路確保のためこの土地を借用して埋めたてている。修復工事が終われば、所有者に返す。その後については分からない」という回答だった。
大川小学校から河口付近の長面(ナガツラ)地区までは、被災者のみなさんにはきつい表現かもしれないが、地盤沈下と冠水で復興はおろか復旧すらおぼつかない状況が現在も続いている。
そのような中でも、入り江になっている長面浦では、牡蠣の養殖作業を数人の漁業者が営んでいた。家屋がなくなり更地になったこの地で、ホッとする空間がそこにはあった。二人も山が迫る長面浦を見て、「山から栄養分が流れ込み、こんな綺麗なところで美味しい牡蠣が育てられるんだね」と漁業の復旧を願っていた。
大川小学校の裏手の釜谷トンネルを通り、雄勝町へ歩を進めた。雄勝町の市街地は、小学校、中学校、公民館,市立病院など最後まで残っていた公共施設が解体され、更地になっていた。この町は硯石の産地だ(注)。破壊された岸壁の修復工事現場の片隅に、数十個のさまざまな形をした硯が、集められ並べてあった。近くにあった雄勝硯伝統産業会館から流出したものだろう。フランスから来た二人には、この町にこのような家並みがあったと説明しても、何もなく、人もいない現状からは想像すらできなかっただろう。(注/震災による絶望的な困難の中で、救い出された「雄勝スレート」1万5千枚が、屋根材として東京・丸の内駅舎に使用された)
雄勝町からリアス式海岸沿いを女川町へ向かう。途中、女川原発反対同盟の運動の拠点的な浜であった尾浦浜に立ち寄る。原発に断固として反対し、漁業総会で漁業権放棄が決められても、建設差し止め・運転差し止めの訴訟を闘い抜いた漁業者が多くいた浜である。女川湾に浮かぶ出島(いずしま)を前にしている浜も、例外なく津波で徹底的に破壊され、15mくらいの高さの杉の木も立ち枯れていた。浜には住む家屋はないものの、漁業者が網を繕い、明日の漁に向けて船を点検している姿があり、日常の浜の姿がもどりつつあるようだ。しかし、浜で働く漁業者は、高台にある仮設住宅から通ってきているのである。浜での生業がいつになったら戻ってくるのか、先が見えない現実をみんなの肌で感じてきた。
女川町の中心地を見渡せる町立病院は海抜15mくらいの高さにある。津波はこの1階まで押し寄せた。市街地のほとんどを失った女川。津波の引き波で横転したまま残された3つの建て物を除いて、すべてが解体撤去された中心部。(この3つの建て物について「震災遺構」として残そうと中学生らが声を上げている。)あちこちで10mくらいの高さに土が山積みされている。市街地全域を7mかさ上げして町を再興するのだそうだ。女川駅も元のプラットホームから500m山沿いに移設して復興させるとして工事が開始している。
女川は海に山が迫る典型的なリアス式漁港だ。津波浸水地区以外で土地を確保するのは困難で、仮設住宅は、町営野球場の中や小学校の校庭、山際などに作られている。
町立病院の駐車場内に復興商店街があり、その一軒で昼食をとった。店の名は「お茶っこクラブ」。女川カレーとスパゲティを提供している。女川カレーは、震災時の避難所で作られた昔ながらの味のカレーだと聞き試食した。同席していた老婆が、「お茶っこクラブだがら、私たちもこうして店さ入れるのしゃ」と。○●カフェや△▼喫茶では入れないのだそうだ。店主も町民の誰でもが気軽に入れる場所にしようと店の名を決めたといっていた。原発再稼動阻止と震災からの復興という課題を抱えた女川を後にする。復興の長い道のりが今後も続く。
石巻漁港、火事で燃えた門脇小学校を見て、高台にある日和山から石巻市街地を望む。旧北上川の河口にある石巻市立病院が解体作業の途中にあった。旧北上川の両岸を河口から1.2kmまで、7mの堤防という名の壁で覆いつくすという計画だそうだ。「大きな壁を作ることが、本当に津波から守ることなのか、至る所で考えさせられた一日でした」と、案内した一人の感想だった。
市街地中心部のあちこちが更地と化し、夏草が生い茂る。小泉改革時代からの「シャッター通り」は、この震災と津波でさらに進んだ。自力で再建している店舗もあるものの、郊外の大型店に客足をさらわれていて、厳しい現実が突きつけられている。なんとか支えたいと思うのだが・・・。
五千名が暮らす「開成地区」に車を走らせる。二千戸の被災地最大のプレハブ仮設住宅が並ぶ。復興公営住宅建築の土地確保がやっと端緒についたばかりであり、仮設生活はさらに2年は続く。精神的疾患、孤独死など、問題が山積する仮設生活に新たなケアが必要だ。そういうところにお金を使うべき時期にきていることを、この国の為政者は知るべきだ。
南下して東松島市の野蒜(のびる)、東名(とうな)地区を経由して仙台に向かう。この地域では仙石線の高台移転の工事が山を切り崩して進められている。青葉茂る山々の間から土色の山肌が露出している。削られた山に小動物のネグラがあり、生活の場を奪われた動物たちは住宅地に逃げ込んできているという。新たな破壊が復興の名の下に行われている。
遠くフランスから被災地を視察して、さまざまなことを感じてもらえたかと思う。宮城県の漁協、漁業者の反対を押し切って進める水産業特区や農業・漁業の「6次産業化」や法人化などの問題点も交えながら案内した。ゼネコン中心の復興ビジネス、新たな被災地間・被災者間格差についても強く感じとってもらえたようだ。
Sud−pttの組合員は、帰国後、組合の仲間に報告するために、さまざまな質問を私たちに投げかけてレポートを作成しながらのツアーだった。
震災、津波、とりわけ原発事故について原発大国フランスの労働者に伝え、その悲惨さを繰りかえさないために脱原発社会実現に向けて万国の労働者が連帯して闘うことを拡げる一途になればと祈っている。
2013年6月/日野正美(電通労組)
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ツアーに参加したYさんからのメッセージ
震災前のこの季節はどこまでも水田風景が続いていたのでしょう。道を挟んで山側は田植えが終わっているのに、海側は津波の塩害で放置された田んぼが広がる風景を左右に見ながら石巻市へ。
その途中、近代的なビニールハウスが並んでいるかなり広い区画がありました。そこは国が土を使わない農業を試験的に行っていて、全てコンピューターでコントロールされ、殆ど人が要らないのだそうです。復興の名の下に農業の工業化、企業化の大きな実験場になってしまうのではないか、という印象を受けました。
多くの子供たちが津波の犠牲になった痛ましい大川小学校は胸が締め付けられました。そしてその先の2年経っても冠水したままの荒野を行くと、静かで穏やかな長面浦がありました。浦に面した山から染み入る養分で牡蠣の養殖に最適な浦で、少し養殖が復活していましたが、「このあたりは全て家が並んでいた」と言われても驚く程に何もなく、誰もいなく、工事のトラックだけが行き来していました。
それから雄勝町、女川町、石巻をまわりましたが、二年経って被災した家屋は解体され瓦礫も整理されて、やはり「ここ一帯は住宅が立ち並んでいた」と教えてもらわなければ分からない荒地がどこもずっと広がっています。その石巻が380度展望できる、大きな馬の背に乗ったような気分になる馬っ子山(Hさんたちが子供のころからこう呼んでいるトヤケ森山)に登りました。すぐ下には仮設住宅が延々と立ち並んでいました。
その後、昨年Tさんから報告を送っていただいた「夢ハンカチ、走れ仙石線」イベントがあった東松島へ。まだ仙石線は開通しておらず、住民の声を無視して、山を切り崩して建設中の被災者住宅の高台に駅が移る計画が進んでいます。
2年経って、なお肝心なことは何も進んでいないように感じましたが、反面、確実に被災者間に格差が生まれていて、老人や弱者、財力のない人たちがどんどん取り残されているそうです。国や自治体が今進めていることが、本当に住民の望む復興に結びついているのか、人々の暮らしに密着していた豊かな海と生活を引き離して大きな壁を作ることが、本当に津波から守ることなのか、至る所で考えさせられた一日でした。
案内してくださったTさん、Hさんありがとうございました。また、行きます。
■以上/宮城全労協ニュース250号(2013年8月26日)