福島バスツアーに参加して
以下は「福島バスツアー報告・感想」と題して昨年夏に書かれたものです。執筆者のTさんは現在は関東に居住していますが、1960年代の一時期、宮城県内で教職にあり、また言論活動に従事していました。ベトナム反戦運動などを通して、社会主義や労働者の国際主義をめぐって青年労働者たちと議論を交わし、そのような活動は70年代以降の労働運動の礎となりました。
なお、見出しは編集部がつけました。
<福島バスツアーに参加して/2014年7月>
2011年3月11日は、私たちは日本にいませんでしたが、偶然にも海外でテレビを通してその惨状を見たのでした。
画面に映し出される光景はまったく信じがたいものでした。たくさんの車がおもちゃのミニカーのように次々と波の中にのまれて海中に落ちてゆき、戸建ての家々が波に浮いて流されていくシーンは、まるでCGを駆使して撮影されたSF映画でも見るようでした。
見たこともない被害の状況にショックを受け、一刻も早く帰って自分の目で実情を見たかったのですが、仕事の関係で5月になってようやく一時帰国することができました。
被災から二か月後の状況を友人の車に案内されて、昔住んだことのある仙台を中心に見て回りました。津波被害の大きかった仙台港−多賀城付近(ここで私の甥が車ごと津波にのまれ、九死に一生を得て助かりましたが)−松島海岸−東松島・成瀬中学校−石巻の雄勝から北上川・大川小学校まで、さらに引き返して仙台北部の閖上から仙台空港まで見て回ることができました。
二か月後の惨状はまだ生々しく、田んぼの中に押し上げられた大きな船、ビルの上の大型バス、壊れた乗用車の山、仙台空港では津波に流された小型の飛行機の山…。こうして、地震・津波被害直後の状況は自分の目で見て回ることができましたが、福島原発の被害状況については自分の目で見る機会がありませんでした。
●福島への思いを抱き続けて
“反原発”の集会やデモ、講演会にはできるだけ参加して、飯館村の酪農家の長谷川健一さんや“希望の牧場”の吉沢正巳さんのお話を聞き、写真やビデオ、原発をとらえた映画、NHKのドキュメントなどを見ることを通して想像を絶するひどいことが起こったのだということがわかり、東電や国に対する怒りを膨らませていました。
大熊、富岡、楢葉などの原発の大きな被害を受けている地域の実情を見ることができるツアーがあるのを知って、1月にも申し込んだのですがその時はすでに満員で今回初めて参加させていただきました。
本当に「百聞は一見にしかず」で、原発被害の惨状の切り取られた映像を通して見せられていた町の様子とはまた違った大きさで、多くの人々の平穏な日常生活が一瞬にして破壊された抜け殻のような街を見せられた感じでした。
●「肌身に染みる」線量計の経験
新築と思われる家屋を含む立派な戸建ての家々が立ち並ぶ閑静な住宅街に人影が全く見られず、野良犬や野良猫などのペットの影さえもはや見えない。広い範囲の大きな繁華街が文字通りのゴーストタウンと化して死に絶えたような町でした。三年前から干してあったに違いない洗濯物がそのままでベランダに吊るされて風に吹かれている様子は、あわただしい避難の様子を今なおまざまざと見せつけているようでした。
富岡の繁華街から“夜の森”の桜並木・“夜の森公園”辺りの「この先“帰還困難区域”につき通行制限中」と表示されたゲートの前まで行きました。
今回初めて、放射能を測定する線量計を持った人について、放射能防護のビニールの靴カバーを足につけて、行く先々の場所の数値を計測しながら、そのあと第二原発のそばのスクリーニング場でスクリーニングを受けた。こうして現地を視察することができたのは、私たちにとって肌身に染みるすごい経験でした。
●重なった三井三池炭鉱事故と福島原発事故
ツアーの前日、たまたまNHKの教育テレビで“三池を抱きしめる女たち”(注)という番組の再放送を見ていました。
50年前の1963年11月9日福岡県大牟田市の「三井三池炭鉱」で起こった戦後最大の炭鉱事故で、死者458人、839人の一酸化炭素中毒患者を出しました。50年たった今も重い後遺症を抱えたまま苦しんでいる人がおり、50年入院したままの人もいる。
ところが驚くべきことに、当時の医療関係者の間では「一酸化炭素中毒は後遺症が残らない」とされていたというのです。そのため、安静が必要な多くの患者が、軽症とみなされて入院させられることもなく動き回っていたといいます。その夜のうちからひどい頭痛を訴えていた人もいたし、直後から性格が粗暴になるといった精神障害の症状の出ている患者がいたというのにです。
会社幹部は「業務上過失致死傷」と「鉱山保安法違反」で書類送検されたのですが、検察は「証拠不十分」として不起訴処分にしたのです。また、事故後3年目の1966年10月25日、患者の9割に近い738人が「職場復帰に支障がない」として、労災の打ち切りを通告されたのです。患者と家族はその後、50年間抗議の闘いを続けているのです。
この番組を見て、「何だ!これは今の原発事故の問題そのものではないか!」と思いました。
あわただしく避難させられたにもかかわらず、爆発直後に大量の放射能を浴びせられたに違いない福島の人々!
放射能が人体に及ぼす影響やその度合いの強さ、滞留期間など科学的にもまだ正確に掌握されていないのではないか。またその影響は年齢や個体差によって異なるはずだ。それにもかかわらず、不確かな基準値を一律に当てはめて帰還を強制し始めていることは、断じて許しがたいことだと思いました。いまでも、放射性物質がどれだけ漏れているのかわからない状態で、30年、50年後さらに後世の子供たちへの影響は、一酸化炭素中毒の比ではないでしょう。
●「竹槍で戦え」、国はあの時と同じ発想ではないか・・・
線量計を持って現地を歩いてみて分かったことは、除染が終わったはずの道路でも数値はいまや準値よりも高く、一歩草むらに入ると線量計が赤で表示されるほどの高い値を示したのです。美しい森や川に囲まれた現地の山もどこまで汚染されているのかわからない状態で、わずかな家の周りの“除染”というのはどだい無理だし不可能だと誰しもが実感したのでした。
戦争末期に、“竹槍”で敵と戦えといった時の国の発想そのままではないかと…。
「集団的自衛権」が「国民の安全と生命、財産を護る」という安倍内閣は浪江、大熊、富岡、楢葉の住民の「安全と生命、財産」さえ護りきれていないではないか。彼らの口にする「国民」がいかに言葉だけの空疎な内容でしかないかを、そして、「国は国民を守らない」ということを痛切に実感したツアーでした。
注:7月10日の朝日新聞2面の“ひと”欄に、「炭鉱から原発へ、撮り続ける映像ジャーナリスト」として制作者の熊谷博子さんが紹介されています。
(2014年7月11日記)
■以上/宮城全労協ニュース278号(2015年1月19日)