宮城全労協ニュース/第295号(電子版)/2016年4月24日

政府は何を優先させたのか?
避難者が犠牲に/「熊本地震」




 10日たってもかなりの震度の「余震」が続いている。住民たちは生活再建をめざす以前に、地震の先行きを見通せない不安に直面しながら、避難所や車中、野外で過ごしてきた。精神的なダメージが限界に達していると、震災専門家たちは警告している。

 政府の「初期対応」はあまりに遅い。避難者が死亡している。熊本県は最初の地震から5日間で11人が避難生活中に死亡したと発表した。

 気象庁は「熊本地震」の名を変更しないという。実態は「九州中部域地震」だ。なぜ「熊本」に限定するのか(注1)。

 現場ではボランティアを含め、様々な活動が始まっている。宮城からも県や被災自治体の職員、医療機関などから救援隊が送り出されている。これ以上の犠牲を出させないために何が必要か。知恵を寄せ合い、支援を送ろう。



現場が伝わらない首相会見

 
 首相は23日、熊本を初めて訪れた。「すさまじい地震の爪痕を目の当たりにし、被害の甚大さを実感した」。県庁では「熊本城の復旧が終わるまで、震災復興は終わらない」と語った。意識の大きなずれを感じる。

 激甚災害指定は週明け25日の閣議で決定されるという。地震翌日の15日、熊本県知事は早期指定を求めた。どうしてこれほど遅れているのか。首相の被災地入りにしても、当初は16日とされていた。震災への迅速な対応より、政局の動静判断を優先した結果だということなのか。

 首相は14日夜の地震発生直後、記者団に「対策に全力を尽くすよう指示を出した」と述べた。対策本部が組織された。政府の地震調査委員会は活断層のズレについて解析結果を発表した。事態は一変した。「本震」とされた大地震の発生と、震源域の移動をともなった地震の多発が、被災現場の混乱を広げた。

 気象庁による「余震発生確率」は意味を失った。経験したことのない事態だと説明された。

 テレビは安倍首相の会見を報道し続けた。何が起きているのか。政府はどのように考え、行動しているのか。納得のいく会見ではなかった。
 米軍の参加が報じられたのは早期の段階だった。在沖縄オスプレイの動員をアピールした報道番組もあった。米軍支援が必要だったのか。しかも、どちらが申し入れたのか、日米双方で見解が異なっている。

 首相や官房長官にとっては「緊急事態法」を想定した行動だったかもしれないが、国民には被災地の肝心なことが伝わらない。こうしたなかで、避難所で高齢者が倒れ、死亡が確認されたと報じられたのだ。



「車中泊」が示したこと


 地震から数日後、被災者の一言が多くを示唆していた。「子供の泣き声が迷惑をかけるので、避難所には泊まらない」。テレビで見る限り、避難所には簡易の区切りもなかった。そのような事情もあってか、多数が車中で寝泊りし、そこで体調を悪化させた人々が病院に搬送された。車中泊の是非は別として、健康阻害への防止には手が回らなかった(注2)。過去の教訓がいかされているとは言いがたい避難所の実態が報道されていた。

 3・11震災でも「災害弱者」とされる人々が尊重される避難のあり方が問われた。水、トイレ、歯ブラシ。持病の薬、人工透析などの医療環境。「福祉避難所」の設置やプライバシー確保の努力。支援物資の適切な管理と配分。こうしたことが被災初期に重要だとされた。役場、消防、医療、警察、住民組織、学校など、地域に精通した人々の声が全国に届く必要がある。

 しかし、首相や官房長官のトップダウン会見からは、人々の生き様は伝わらなかった。

 自民党は3・11当時の民主党政権による震災初動を検討するという。そのチームが立ち上がったところだった。国会事故調報告を棚上げしたままの自民党が、何をどうするというのか。

 政府はサミット会合で防災を中心テーマの一つとするという。日本の震災を国際政治に利用するのか。3・11の「オトモダチ」に続き「熊本」で日米軍事同盟が発動された。災害救援に軍事同盟を発動すべきではない。必要なのは、アジアの災害共済連合の枠組みをつくることだ。



気象庁と原子力規制庁


 最初の震度7への対応に関して、原子力規制庁は情報発信が不十分であると指摘された。規制庁は見直しに言及したが、それは公報のあり方の問題だった。

 規制庁は川内原発の稼動を停止させる必要はないと言明していた。地震による揺れが耐震基準をはるかに下回るので、停止させる理由がない、と。

 気象庁が「経験したことがない事態」だと評価を変更して以降も、規制庁は姿勢を変えなかった。官房長官と環境大臣は、両者の矛盾にはふれず、規制庁見解を楯にとって稼動維持を追認した。

 規制庁の判断は気象庁の見解に影響されないと政府がいうのなら、「原発テロ」や「隕石落下」などの場合はどうなるのか。曖昧にしてきたことの説明が必要だ。

 今回、環境大臣の「原発に関する知識不足」が話題になったが、本質はそこではない。安全性を保障するものではない規制庁の判断(基準適合性)を、稼動可否の根拠に使うことによって、政治の責任逃れを既成事実化しようとしていることだ。専門的な知見がない大臣のほうが都合がいい場合がある。

 規制庁は一時停止を求めるべきだ。そうすることで、少なくても気象庁見解との整合性を確保し、「規制当局」としての立ち位置を政治権力に対して示す。著名政治家が「これはチャンスだ」と言ったそうだが、そんな狭量の政略ではなく、原発を扱う専門家として非妥協の姿勢を示すべきだ。



「前震」と「本震」、3・11の「敗北」は届かなかったのか?


 大きな余震の可能性を指摘しつつも、徐々に減衰していくだろう。気象庁の予測は現実に裏切られた。最初の一撃は「本震」ではなく「前震」だった。気象庁は、数十人の犠牲者が加わった後に、前言を撤回した。

 3・11もそうだったのだ。2011年3月9日に宮城県沖を震源地とする地震が発生した。当時、これが宮城県沖地震そのものなのか、関係があるか、明確な見解は示されなかった。数日をまたず、巨大地震が発生した。そこで二日前の地震が注目された。あれは「前震」だったのではないか、と。

 「これは前震かもしれない、本震がやってくるかもしれない」。社会も政治も「本震」に備えよとの専門家の指摘を受け入れたなら、被害はここまで大きくなかった可能性がある。

 津波と原発による犠牲を目撃した地元の地震研究者たちは<新たな研究の闘い>に入った。周期性が認められていた「宮城県沖地震」を対象としていて、「貞観型」に思いがいたらなかった(注3)。その痛切な反省、あるいは自己批判が新たな闘いの原動力となった。3・11は「敗北」であったという自覚こそが、次への挑戦につながるだろう。

 地震学者たちの教訓は、その後、研究者たちや学会や政府のなかで共有化されていなかったのだろうか。

 ある専門家は「実は今回、最初の地震直後、危惧する人たちがいた」と発言している。通常の進行ではない、未体験の可能性をかぎとっていた人たちがいた。しかし、公的な警告となることはなかった。

 気象庁は政治から独立して、誠意をもって見解を明らかにすべきだ。

 気候変動にともない、気象庁はますます大きな役割を担う。現場が物を申すべきだ。政治の無理解に対抗して、気象庁は国民に訴えて筋を通すべきだ。

(2016年4月24日/J記)



(注1)3・11が東日本大震災と名づけられた経緯は明確ではない。異論があったと当時、報道されたこともある。現実に即して言えば「東北(・北関東)太平洋大地震」だろう。「東日本大震災」は実情にあっていない。

(注2)3・11の場合は、津波で車が流されていた。当時、被災者の車中泊が問題にならなかったのは、そのためだろうか。今後、車中泊は広がるかもしれない。

(注3)貞観型再来を警告していた在野の研究者がいた。「仙台平野の歴史津波(1995年)」「解き明かされる日本最古の歴史津波(2013年)」飯沼勇義氏著。



■以上/宮城全労協ニュース295号(2016年4月24日)