宮城全労協ニュース/第309号(電子版)/2017年6月3日
大川小学校の被災現場で考える
(郵政合同労組)



 郵政合同労組は5月上旬、学習会ならびに大川小学校から女川を巡る被災地訪問を実施しました。組合員の感想を紹介します。

(東松島・東名地区に居住しているSさん。津波はJR仙石線を越えて陸側地域にもなだれ込み、自宅に浸水。Sさんは二階に退避、海水が引くのを待って脱出した。)




復旧・復興の労働者たちが寝食をともにした宿で


 一泊二日の日程。石巻市の山間にある簡素な宿で、復旧・復興労働者たちに提供されたという話は有名だ。平日であったためか、昔ながらのひっそりとした佇まいだった。

 一日目は学習会。米国が星条旗を月に打ち立ててから半世紀。日本では最近、月への関心が高まっていて、やがて「日の丸」を月面に送る可能性がある。しかし、「月」はだれのものでもない。「月面の国旗」は夢や希望で正当化されない。むしろ「侵略行為」として非難されるべきだ。

 日本の研究所が新元素を発見した。国名がつけられたのは異例だ。「日本」と名付けたのは「国家、国民への御礼」だという説明に疑問の声は起きなかった。このままでは「月面の日の丸」も無批判に歓迎されるだろう。日本の現状をそのような視点から見てみようという内容だった。

 私たちの組合結成は1989年12月。「チェルノブイリ(1986年)とペレストロイカ(1985年以降)」が、既存大労組との決別の重大な契機となった。労働者の「権利擁護」とともに、「環境社会主義」というテーマが、新しい組合の「旗」として意識された。それから20年余、私たちは大津波と福島第一原発の崩壊に直面した。

 とっぴょうしもないタイトルの学習会(「月面に日の丸を掲げるな」)だったが、大震災を経て苦闘し、存続し続ける組合らしいとも感じた。



大川小学校へ


 翌朝、私たちは大川小学校に向かった(石巻市河北釜谷・新北上川の河口の近くに位置する)。午後の女川巡りとともに、今回の「合宿」のメインだ。

 宮城全労協は震災後、福島への「スタディ・ツアー」を何度か実施してきた。その経験を自分たちなりに活かし、実施してみようと議論してきた。

「語り部ガイド」の佐藤敏郎さんには、当日のガイドを要請していた。事前の組合の集まりの中で、佐藤さんの対談(*注)を読み、議論をしてきた。それでも、現地で聞く話はとてもリアルで、感銘深いものだった。

 子どもたちと教員たちは、なぜ校庭にとどまっていたのか。その後の「当局」の説明は、この問いに答えるものではなかった。現場に立って、あらためて疑問と謎が浮かび上がった。そして、そのことを私たちに考えさせようとする「語り部ガイド」という<役割>に思いを新たにした。

(当日は偶然、ある全国紙の「新人研修会」と重なり、私たちは一時間ほど、一緒に説明を受け、議論に参加した。「語り部ガイド」と新聞労働者との間で、いくつか議論になっていた。<マスコミは、どうしても対立的に描きたがる。仕方ないかもしれない。しかし、裁判の原告になっているか、いないかなどに大きな違いはない。「事実を知りたい」という思いは同じだ>と、佐藤さんは指摘していた。)

(*)「学校は子どもの命を守れるか〜大川小学校の悲劇を繰り返さぬために」(『世界』(岩波書店)17年1月号)

(上)河辺に建立された大川地区「供養之碑」
(中)左方に津波が遡上した新北上川(追波川)。周辺の街並みは消えてしまった。
(下)小学校とともにあったかつての街並み







「事実を明らかにしたい」


 <大川小学校は、そのときまで、地域と一体だった。あの地震と津波まで、子どもたちは学校で楽しく遊び、地域の中で大切に見守られ、成長していった。学校の様々な行事は地域をあげて実施された。子どもたちは「地域の宝」だった。>

 佐藤さんは川沿いに連らなっていた、かつての街並みを写真で紹介した。現場を始めて訪れた人たち、被災後しか知らない人たちは、地域社会があったことに驚いたと思う。

 いまあるのは津波に破壊された(あるいは耐え抜いた)小学校の痕跡だけだ。学校と川の間の道路は工事車両が頻繁に行き来していた。

 私たちは説明を聞き、周辺を見回し、考えた。

(下)「語り部ガイド」から説明を受ける
 






疑問と謎、やるせない思い


 地震発生から50分ほどの間、子供たちと教師たちが何を思い、行動したのか、行動しなかったのか。

 結果として激流に向かって、しかも一人が通り抜けられるほどの狭い道を通って移動を始めるということが、なぜ起きたのか。

 事実を知りたい。知らなければならない。遺族たちも地域の人たちもそう思ってきたはずだ。その思いがなぜ、果たせないのか。何よりも、教育委員会は事実を明らかにしようとしているのか。そして、生き残った教員の証言からは、残念ながら、当日の真相を知ることができないままだ。

 怒りとともに、やるせない感情が私たちに伝わってきた。

 いくつかの可能性があった。そのなかに「シイタケ山」の話があった。校庭のすぐそば、山側の斜面には津波到達地点の表示板が立てられている。左方の斜面に茂みが見える。そこに「シイタケ山(地点)」と呼ばれていた一角があるという。シイタケ栽培地になっていて、授業に使われていた。そこへ逃げようとの決断があれば、惨事はなかったのではないか。子どもたちからも、あそこに逃げようという声があがったのではないか。

 津波は川を「逆流」し、氾濫して地域を襲った(仙台の高校生グループが最近、大川小学校周辺の水流の動きについて自主研究の結果を発表した。)そのような痕跡は周辺の川沿いを移動するなかで、いくつか確認することができる。

 水流は地形の影響によって複雑な動きをした。人々は不意をつかれたのだろうか。大川小学校の悲劇は不可抗力の災害だったのか。現地に立ってみて、そうではないだろうと強く思った。

(上)背後の山に津波到達点の表示板。その左方の茂みの中に「シイタケ山」が。
(中)「シイタケ山」(左方の林の中腹)に向う。右手に津波到達点の表示板。
(下)「シイタケ山」に通じる小道から小学校を見下ろす。穴をくりぬいている建造物が宮沢賢治のモニュメント(上から五枚目の写真)。
 
 




 

雄勝小学校を経て女川へ

 
 重苦しい気持ちを抱えながら、私たちは次に雄勝小学校へ向かった。大津波が襲った雄勝小学校(石巻市雄勝町)は、現在、跡形もない。

 地震直後、隣りの保育園児たちと共に、より高い裏山へ移動し、一人の犠牲者も出さなかった。そのことを本などで知るにつけ、どうしても大川小学校で起きたことが頭から離れなかったが、さきほどの説明会によって思いはますます強まった。

 行く先々で防潮堤の工事が続いている。景観は大きく変わった。「震災便乗」の工事ではと疑問がわく。

 その後、今回の最後の訪問地、女川へ。とりあえず駅前の新しい商店街で昼食。平日なのに、なかなかの混雑ぶり。かなり待たされて「海鮮丼」が。

 その後、女川町議会議員の阿部美紀子さんとの交流会。女川原発の再稼動に向けた動きに対して、阿部さんたちは全力で反対している。そのお話をうかがいながら一時間にわたる交流を終えた。

 この交流の場が女川地域医療センター。海抜18メートルのセンター内に押し寄せた津波の高さは20メートルに達したという。ここでも犠牲者が出ている。海は、はるか下に見えている。ここまで津波が来たのかと絶句する。想像するのも難しいが、これが現実だ。


 あれから6年が過ぎた。私も被災地、東松島に住んでいる。大川小学校をはじめ各地の惨状は何度も見聞きしてきた。それでも、それぞれの現地に行かないと見えない、分からないものがあるということは言える。そのように感じただけでも、被災地訪問・交流の意味があった。

(郵政合同労組・S記)


■以上/宮城全労協ニュース309号(2017年6月3日)