宮古「重茂」漁民に触れる
郵政合同が震災復興学習会
郵政合同労働組合は5月連休明け、岩手沿岸部へ向かいました。
組合の「震災学習会」。昨年は石巻、大川小学校の地で「語り部」さんの話を聞き、その後、女川で「反原発」の町議会議員と懇談しました(ニュース309号/2017年6月3日「大川小学校の被災現場で考える」)。
今回は南三陸から気仙沼を経由、岩手県沿岸部を北上して宮古市内に一泊。二日目の朝、石巻から同行していただいた漁業者とともに、メインテーマである「重茂(おもえ)」地区へ向かいました。
「重茂」は本州の最東端の漁港。3.11震災で大きな被害をこうむりましたが、復旧・復興の闘いはすさまじく、注目されました。
「重茂」漁協の闘いについて多くの記述があります。私たちが「学習会」の参考にした中から二つ紹介します。
◇NHK(2011年9月6日)
「明日へ 再起への記録/豊饒の海よ蘇れ 宮古・重茂漁協の挑戦」
◇『世界』(岩波書店)2012年11月号/古川美穂(ジャーナリスト)
「協同ですすめる復旧復興」〜なぜ重茂漁協が注目されるのか
また漁協ウェブサイトには商品も紹介されているのでご覧ください。
参加した二人から、感想が寄せられたので掲載します。
■「海は収奪の対象ではない」/改めて「宮城」を憤る(S/東松島在住)
■大震災後、はじめて岩手沿岸部を歩く(U.J/仙台在住)
(以上/郵政合同労組/2018年6月13日)
[感想1]
■
海は収奪の対象ではない/改めて「宮城」を憤る
●「大槌町・旧役場」と「たろう観光ホテル」
一日目。1700名を超える犠牲者を出した陸前高田。旧市街地に10メートルを越える土砂を入れてかさ上げし、新しい市街地を造成しようという大工事の最中だった。
完成を待てずに移転、移住してしまう人が多いと聞くが、行き交う工事車両の土煙を見ると納得せざるを得ない。「奇跡の一本松」を海の方角に遠望しながら、北へ向かう。
隣町の大槌町。「旧役場」を見る。三階建ての庁舎はすべて水没したのだろうか、窓ガラスは枠ごと壊されている。建物にはひしゃげた部分もあり、破壊のすさまじさを実感する(◇写真)。
庁舎の解体か保存か、町民の意見が分かれている。現在の町長は解体を公約し、当選した。今年度予算に解体費用を計上、承認されているという。これに対して町民の有志は保存を訴えて行方が注目されており、新聞紙上でも議論されている(◆注1)。
私は、「遺構」というものは、更地になった後の語りやパネルなどでの見聞とは異なるものだと思う。「遺構」は存在自身が、また来るであろう大災害への警告を人々に発し続けるからだ。町民の決断がどのようなものか、待ちたい。
(写真/大槌町・旧役場)
宮古市街地を北上、「たろう観光ホテル」へ向かった。
鉄筋6回建てのホテルが海に面して建っていた<◇写真>。目の前には日本で最大規模といわれた防潮堤があった。城壁のような防潮堤を軽々と越えた津波は、ホテルを4階まで水没させた。3階から下は鉄骨がむき出しになっている。内部は一瞬して津波にさらわれたのだろう。いろんなところで語られたきたこと、つまり津波の破壊力のすさまじさと、それに立ち向かおうとして造ったはずの防潮堤の無力さに直面し、言葉につまる。ホテルは2016年4月以降、「遺構」として運営されているという。
宮古中心街へ引き返す途中、「浄土ヶ浜」へ立ち寄る。震えながら浜を歩き、歴史に触れた。
(写真/たろう観光ホテル)
●
「重茂」漁協との交流、あらためて<宮城>を振り返る
二日目。目的地の「重茂」は宮古中心部から東に車で30〜40分の距離にある。半島の付け根部分の海岸線を走り(左側には宮古湾)、半島を横断して反対側の外洋に面した地域に出る。その山越えの風景は、海のすぐそばを走っているとは思えない。まるで深山の山中を走っているかのような感覚なのだ。(後に聞くと、半島全体が「魚付き保安林」として認定され、木々の伐採も厳しく規制されているとか(◆注2))。その一帯を過ぎ、外洋側の重茂港に着く。
漁協では伊藤隆一組合長さんらに出迎えていただいた。組合長から漁協の歴史と概要、大震災当時の状況の復興への歩みが話され、私たち参加者との質疑となった。
郵政合同組合員の多くは、この地の闘いをテレビなどで知っていた。それほど有名で、存在感のある漁協だ。その組合長から直接、聞くことができた。私は宮城で漁業に触れてきたのだが、自分の歴史を振り返り見て思い直すほどの貴重な出会いであった。
(◇写真/再建された重茂漁港)
重茂の闘いは「協同組合」の精神に貫かれていた。
たとえば、ある地区には宮古市の出先機関としての出張所があるのだが、大震災直後から被災者の救助、食料支給を漁協が率先して開始した。あるいは、組合員に方針を示し、その第一に、漁業をあきらめてこの地を去る人を一人でも出さないことを掲げた(◆注3)。行政施策を待つことなく、具体策を自分たちが見出し、実行する。このことだけでも、他の被災地とは大きな違いだ。
漁協所属の船814隻のうち798隻も失った。直後、東北各地をはじめ全国から中古漁船を確保すべく、買い付けのために派遣隊を送った。その船は当面、組合員で共同利用し、収穫は公平に分配しよう。そのような方針の提示、議論、実行は、実に見事であり、感動する。
漁協の闘いに地方行政も理解を示し、その「後方支援」を得て浜は復興事業へと突き進んでいく。漁港の復活や新設など、国や地方の制約がある。しかし、必要なのは地元を理解し、地元のために協力して動くことではないか。こうして県との連携も築かれていった。
そこには歴史的な背景があった。厳しい環境のなかで生きていくために、漁業を守る、海と共存することが不可欠だ。そのようにして、この地の漁民たちには長らく試行錯誤を重ねてきた歴史があった。
(◆注1)大槌町・被災役場
たとえば朝日新聞「記者有論」(18年5月3日)。前盛岡総局大槌駐在記者が「解体か保存か 未来に託して」と題して論じており、「・・町民の気持ちが変わりうる以上、未来に判断を委ねるのも知恵ではないか。壊してから後悔しても遅い」と書いていた。
その後、解体の差し止め仮処分の申請など、状況が急展開しており、報道が続いている。
(◆注2)「魚付き(うおつき)保安林」/陸と海の関係について、人々の考え方が継承され、制度化された。その思想は、たとえば気仙沼の「海と陸をつなぐ」事業などに見ることができる。
(◆注3)「東日本大震災に向けての対応(方針)」(漁協資料より抜粋・要約)
〇明日の生活に希望を与え地区外転出者を防ぐ。
〇震災前の個人毎の働き、実績、資産の有無等は勘案することなく、全員がゼロからのスタート、平等公平を原則とする。
〇組合員が一人たりとも廃業に追い込まれないこと。
〇重茂から若い人が一人たりとも出て行かない方策。
〇業業の再開を早急に行えること。
続いて、「設備資金」は漁協が責任を持つ、「手に入る漁船」の漁協所有・共同利用、水揚金額の「従事した者全員の平等配分」などが列記されている。
「国の支援方針決定を待っていては、重茂を離れる若者が続き、限界集落(消滅)となる。これを防ぐことが全て」と記され、「仲間意識、互譲の精神、互恵の精神、相互扶助、自らの努力を旨とする」が結語となっている。
●
宮城県の対応、そして私たちの課題
私たちは宮城に戻り、考えざるを得ない。両県の「県政」の違いは、当時からよく話題になっていた。私たちは、あらためて地元・宮城への腹立たしさを覚えた。
たとえば、こういうことだ。岩手県では、沿岸の各浜は規模の大小に関係なく「原状回復」を基本とした。極端にいうなら、壊された港で一人でも生活しているのであれば、そこで再び生きていくことが出来るようにすることが行政の基本方針だと聞いたことがある。
一方、宮城県は被災漁港の「集約」化を当初から提唱し、漁民、漁協側と激しく対立した。知事側は「創造的復興」とか「大震災を奇貨とする」とか、そういう言葉で語ったが、漁業現場と議論したうえでの言葉ではない。まさに「火事場泥棒」的に宮城の漁業を資本に売り渡そうと画策したのだと、私は思う。
海を大事にし、育て、共生していこうという漁民の営みは、原発に対する姿勢にも貫かれている。原発を許さなかった岩手を旅して、私たちの「女川原発」の50年を思う。県政を変えるのは私たちの課題だと、強く感じた出会いだった。
(投稿S/東松島在住)
[感想2]
■
大震災後、初めて岩手沿岸部を歩く
●
釜石「橋上市場」での昼食
一日目。南三陸も気仙沼もインフラ再建の大規模工事が続いている。岩手に入って「気仙中学校」がいきなり視界に入ってきて、驚いた。自動車道には宮城側にも「津波浸水域」の両端を示す表示がある。岩手に入ってからは、市街地の各所に「津波の到達点」を示す表示板が目立った。宮城とは違う光景だった。
釜石駅前「橋上市場」で昼食。魚介や山菜が並んでいた。最近、仮設住宅から戻ってきたという飲食店で「皆さんのように、市場を訪ねて来てくれる旅行者がいる」と気さくな会話。だが、震災前の活況はまだ、戻っていないのだろう。製鉄工場群を背にして北上。山肌の「荒れ」が気になった。
●浄土ヶ浜にあった津波と戊辰敗戦の碑
夕方、「たろう観光ホテル」から戻って、宮古の浄土ヶ浜に降りてみた。ビジターセンターは無料であるのが不思議なほど充実していた。
奥まった海岸に碑が並んであった。昭和三陸津波とチリ沖地震津波。人々への警句が刻まれていた(◆注4)。偶然に出会った「浜の語り部」さんは<三陸はこうして、何度も誓ったはずだったのだが・・>、と。
◆注4(昭和三陸津波記念碑の要旨/大津波から一年後の昭和8年3月、宮古町が建立)
〇大地震の後には津浪が来る
〇大地震があったらい所へ集まれ
〇津浪に追われたら何処でもい所へ
〇遠くへ逃げては津浪に追い付かれる、常々逃げ場を用意して置け
〇家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ
(写真/二つの記念碑。左が「昭和三陸津波」、右が「チリ沖地震津波」)
もう一つの碑が、急坂にひっそりとあった。浄土ヶ浜は戊辰戦争の戦場でもあった。宮古の人たちの心情はどうなのだろう。「戊辰戦争と津波」を後世に伝えた二つの碑、その道を歩きながら思った(◆注5)。
◆注5/浄土ヶ浜「30分で決した海戦の地」
(朝日新聞/戊辰戦争150年・東北を歩く/18年5月4日)
「戊辰戦争で劣勢だった旧幕府軍。一発逆転をかけた奇襲が岩手県沿岸の宮古港海戦だ。戦いはわずか30分で終わり、旧幕臣たちの夢は海に砕け散った」「(断崖に立つ碑には)「わが国初の洋式海戦」とある」「2カ月後、函館・五稜郭の落城で戊辰の役は終わる」
●<浜を守る、漁業者を守る>「重茂」の闘い
翌朝、「重茂」へ。奥まった道をさらに下り、行き着いた浜に港があった。豊かな海へ落ちていく急峻な地形が、この地の人々の生活と密接にあったのだと、後に気づく。
中腹にある漁協の会館で組合長から貴重な体験談を聞く。
「昼だったから、まだよかった。夜だったら、もっと大変なことになっていた」。通常、話題にはしないことを、冒頭に切り出した。実際、話は衝撃的だった。
すべての港が破壊された。世の中は混乱のなかにあった。行政は動いていない。自衛隊にも出動要請しているが、はっきりしない。決断と行動が迫られた。漁協がそこに立ち向かった。
「小さな浜だったから可能だった」と組合長は言った。「謙遜」があったように思うが、支えあって漁業を営み生活してきた、厳しい歴史が言葉に刻まれてもいたのだった。
●破壊された浜、建設された港の上に立って
「津波にあうごとに、人々は安全を求め、浜から高台へ移動して家を建てた」「当時、車はなく、浜と家を歩いての往復は重労働だった」。やがて、人々が車を持つ時代になっていった。
だから今回の震災では、「防潮堤はいらない、海が見えなくなって、かえって危険だ。上に逃げる道路を整備すべきだ。みんな、車を持っているのだから」と行政にかけあった。
役所は「現状復旧」を求めた。漁協側は主張した。破壊された浜に漁港を作るのが復興だろう、なにが現状復旧だ、と。激しい議論があり、そうして行政との間に<信頼>が築かれていったのだという。
漁協は歴史を文書に遺している。「天恵戒驕」の言葉を受け継いできた。「幸は天の恵み」。資源は有限、乱獲を拝し、自然との共存共栄を図る。先人たちの教えを大切にしてきた漁業者たちの地域。
大震災危機にあって、住民は持てる能力を発揮し、地域を再建した。その先頭に漁協があった。そのような漁協はもちろん、原発や核燃や環境破壊に反対してきた。
懇談の後、びっくりしたのだが、同席していた職員のMさんが、5つある漁港の最大の港まで案内したいという。
浜の前には居住地区が「更地」になっていた。「あのとき、この高台の道にみな、鈴なりになって津波を見ているだけでした」(重茂地区での最大到達地点は姉吉漁港の40.5メートルと記録されている)。
私たちはMさんに感謝し、その場を去った。せめて重茂産品を買って帰ろうと思ったが、道沿いには機会がなく、とても残念だった。
(写真/音部漁港、手前は元居住地域で更地になっている)
(写真/漁港入り口にあった看板)
●政府の「水産業改革」と宮城の「水産業特区」
大震災の直後、宮城県知事は「水産業特区」を打ち出し、漁協や漁民と激しく対立した。知事は国の復興構想会議で、被災県の知事として、この特区に執着した。<漁協は改革を拒否する既得権益者だ>という論者たちが、知事を応援した。「改革派」にとっては、宮城県が進めた「港の集約」は、願ってもないことだったのだ。
政府は6月「経済財政基本方針」に、企業参入など水産業改革政策を盛り込むという。宮城の「水産業特区」は「国家戦略特区」の先例だったと位置づけられるのか。あれから7年、対立は解決していないというのに。
宮城県は2020年、水産業の大イベント「全国豊かな海づくり大会」を招致する。その年、東京五輪では大量の食材が消費され、その調達には国際基準が求められている。被災地の農産、魚介はどうなるのか。「復興五輪」を標榜する側から責任ある発言はないままだ。
(投稿U.J/仙台在住)
■以上/宮城全労協ニュース320号(2018年6月15日)