<瑞慶覧長方さん講演録>
沖縄戦の「生き証人」として
歴史教科書の改ざんを批判する 

●沖縄社会大衆党の結成から56年
●「歴史の改ざん」は許さない
●沖縄戦の体験者として(1944年、国民学校6年生)
●激化する沖縄戦、家族・親戚と逃げ回る(1945年5月)
●持たせられた手榴弾
●何千、何万の死体のなかを
●6月20日、文字通りの生地獄
●軍を信じたがゆえの悲惨
●忘して忘しららん 戦世のつらさ/繰返ちなゆみ 子孫のために
●怒りに燃える沖縄


(注)
2007年6月24日、「護憲・反戦・反安保/沖縄と連帯する6.24東北集会」が仙台市で開催され、瑞慶覧長方さん(沖縄社会大衆党元委員長)の講演が行われた(集会呼びかけ:東北全労協)。

「集団自決」の歴史的事実を改ざんした高校日本史の検定問題に対して、この春以来、抗議のうねりが沖縄をおおっている。超党派による議会決議が相次ぎ、大規模な県民集会で怒りが表明された。このような抗議のなか、福田政府は安倍政府と異なるスタンスを示している。また各教科書会社は11月に入って、「日本軍の強制」に関する記述を「復活」させる訂正を申請した。しかし、この「改ざん」問題は決着がついてはいない。「復活」のみならず、文部科学省と政府・与党の責任が問われていることは言うまでもない。

講演でふれられているように、瑞慶覧さんは6月15日、沖縄からの派遣団に参加し、文部科学省に強く抗議した。仙台講演はその直後だった。瑞慶覧さんはまた、山内とくしん後援会の共同代表として奮闘されており、多忙な日々のなかを東北集会にかけつけていただいた。

以下、瑞慶覧長方さんの講演のなかから、沖縄戦での実体験を中心に紹介する。


(*)
見出しは集会事務局がつけました。地名の誤記等があれば、それは事務局の責任です。
また、最初と最後の章は要約として、コンパクトにまとめたものです。
宮城全労協ニュース93号(7月7日付)の記事を参照してください。


■瑞慶覧長方さん講演録/2007年6月24日(仙台)

沖縄戦の「生き証人」として
歴史教科書の改ざんを批判する



●沖縄社会大衆党の結成から56年

ご紹介にあずかりました瑞慶覧長方です。私は1987年から89年まで沖縄社会大衆党の委員長をやっておりました。沖縄のローカル政党、地域政党で、結党56年になります。当時、沖縄は米軍支配のもとにあり、知事も米軍の高等弁務官から任命されました。我々は日本民族であるのにこのようなアメリカの支配でいいのか。沖縄はこのままではいかん。そこで我々の先輩たちが1950年10月に沖縄社会大衆党を結成したのですが、直前の知事公選で初代知事に平良辰雄を当選させた。この平良を初代の党首として立党したのです。

ところが平良知事はどうも米軍の言うことを聞かないということで、一年余りでアメリカは布令によって公選を廃止し、行政主席の任命制に戻してしまった。それが1968年まで続いた。これではいかんとまた主席公選の運動が高まり、そして勝ち取ったのが沖縄でいう「三大選挙(*注)」で、沖縄教職員会会長の屋良朝苗を主席公選候補に立て勝利しました。

(*)沖縄の有権者が自らの首長を自ら選ぶ行政主席選挙、立法院議員選挙、那覇市長選挙(1968年11月)。

もちろんその間に復帰運動が闘われました。沖縄社会大衆党は復帰を唱え、実質的な沖縄自治を掲げて結党されましたが、1972年にようやく復帰を勝ち取りました。そのときに、もう社大党の役割は終わったのではないか、本土の政党と一つの系列になったらどうかという話があった。しかし、そうなると沖縄問題がまた埋没してしまうのではないか。わけのわからないことになってしまうのではないか。そこでこの党をそのまま残してきたんです。それから35年たちました。ですから社大党はよく生き延びたなあと思っています。


●「歴史の改ざん」は許さない

さて、沖縄でいま非常に大きな問題になっているのが、高等学校の歴史教科書の検定問題です。いわゆる沖縄戦において、集団自決は日本軍の命令ではなかった。関与もなかった。文部科学省はそのように検定意見をつけ、「日本軍の強制性」についての記述が教科書から削除、修正されました。

これに対して沖縄県民はものすごい怒りを覚えました。4月6日、直接の関係者として沖縄県教職員組合と沖縄県高等学校教職員組合が那覇の教育福祉会館で緊急の抗議集会をもった。関心が大きくて予定の三倍ぐらいの参加者になって、会場があふれてしまった。黙っておれん、なんでこれぐらいの集会なのかという声があがって、あらためて6月9日に県庁の横の広場で集会を開くことになった。そうしたら、あっという間に3千5百人が集まった(*「6・9沖縄戦の歴史歪曲を許さない!沖縄県民大会」)。

署名運動も毎日何万と集まって、わずか四、五日の間に7万ぐらいになった。これを持って文部科学省に行き、担当大臣に会って撤回させようと、37名の派遣団が組織されました。

派遣団には戦争を直接体験した人がなかなかいない。僕は沖縄戦の体験者で、しかも手榴弾も渡されて自決を強制された一人だけど、たまたま僕は生き延びた。そういうことでお前も参加しろとなりました。私はいわゆる組織、団体に属しない一農民ですが、この派遣団に加わって6月15日、文部科学省に抗議に行ったのです。


文科省では担当の布村という審議官が対応しました。普通は省内のどこかの会議室で、時間も人数も指定してやるのが官僚です。しかし、沖縄県民の怒りがおさまっていない、逆にますます爆発していると察したのでしょう。上から言われたのかもしれません。沖縄には有名な空手がありますね。練習相手には人間ではダメなので、「わら人形」を作って訓練する。彼はおそらく文科省のなかで、「わら人形」になれと、要するにやられてこいと言われたのでしょう。

参議院会館の大きな会議室でした。その審議官の土俵ではない場所で、数も時間も制限はなし。沖縄から私を含めて38名。東京の関係者も含めて70名ぐらい入った。そこで1時間20分ぐらい、詰めてやった。しかし、やはり官僚というのは簡単には頭を下げない。のらりくらりで肝心な部分になると逃げる。私には権限がありませんとか。そのとき、私はこういう話をしたんです。


●沖縄戦の体験者として(1944年、国民学校6年生)

62年前、私は国民学校の6年生で13歳でした。1944年、昭和でいえば19年です。この年から翌年にかけてのことです。つまり私はもう75歳ですが、昨日のことのように鮮烈に覚えています。

兄の時代までは尋常高等小学校ですが、我々になると国民学校と名前が変わり、教科書の内容まで変わりました。国語でも「マメ(豆)ハト(鳩)」という平和なものから、「ススメ ススメ、ヘイタイ(兵隊)ススメ」に変わる。全部が軍国主義の内容になる。「一億一心」「天皇の赤子(せきし)」「爾(なんじ)臣民」。人民はみな天皇の子だから、神の子である。敵であるアメリカ、イギリスは「鬼畜米英」だ。「撃ちてし止まん、勝つまでは」。学校中にそういう徹底したスローガンがあふれていました。そして「八紘一宇」「大東亜共栄圏」。天皇の国である日本は世界一すばらしい国である。東南アジアはまだまだ開発されていない。中国もそうだ。資源はいっぱいあるが能力はない。日本が行って、開発をして、すばらしい国にするんだ。それが日本の当時の考え方でした。学校でも徹底した「皇民化教育」です。けっきょく、国のため、天皇陛下のために死ぬのは美である。美徳であると。

与那国の出身で、ガダルカナルで戦死をした大舛という兵隊がいた。「軍神、ああ大舛大尉に続かん」という標語が学校の壁にも貼られた。みんなこれを仰ぐ。「お前たちもあの大舛大尉のように、潔く国のために死んで神様になるんだ」と平気で教えられた。私もそれを信じこんで、大きくなったら兵隊さんになって、大佐ぐらいまでにはなるかなと思った。自分は隊長気分になって、「ゆうな」(オオハマボウ)の木で日本刀を作って、馬に乗って、私もそういう軍国少年であった。信じ込んでいたのです。

まもなく学校も日本軍の兵舎になります。最初は公民館で授業をしていたのが、昭和20年になると公民館も兵舎になる。私のうちの農家にも8名の兵隊が駐留するようになった。私たちはサーターヤー(砂糖屋)という小さな製糖工場に行く。そこで1時間目と2時間目だけ授業がある。3時間目からは防空壕掘り。要するに学徒動員で陣地構築に行ったのです。

ツルハシとショベル、クワを持っていって土を堀り、女の人たちはザルやモッコでその土を運ぶ。1年から3年までの低学年の子どもはカマを持っていく。沖縄の土はクチャといって、やわらかい泥が重なったもので、掘ってもしばらくすると落盤する。それを防ぐために枠を作る。当時は沖縄の中南部にも琉球松がたくさんあったので、それを伐って使う。そのまま使うとシロアリにやられるので、皮をはいで、そして枠にはめていく。この皮はぎが低学年の仕事だった。こうして低学年は学校にカマを持って、高学年はツルハシやショベル、あるいはモッコやカゴを持っていく。これが学徒動員で、毎日続きました。皇民化教育で徹底されているから誰一人文句を言わない。喜んで協力していました。


●激化する沖縄戦、家族・親戚と逃げ回る(1945年5月)

ところが沖縄戦もいよいよ4月1日(1945年、昭和20年)に米軍が上陸し、5月になるともう中部戦線もやられた。司令部のあった首里もやられた。戦火は私たちの大里にも迫ってきた。軍の壕のほかに、民間は民間で自分たちの家の近くに壕を掘る。私たちも自分たちで壕を掘った。前年の10月10日、那覇や首里など都市部は大空襲でやられたので、都市に住んでいた人たちは田舎の親戚や知り合いを頼りにして避難していた。

家には糸満からも那覇からも首里からも避難していました。彼らも自分たちが掘った防空壕に入って、5家族、20名ぐらいがいた。私は6年生で、弟が3年生、姉が高等1年生でした。そこに日本軍が来て、出て行けと言う。母が「ここを出ても行くあてがない。兵隊さん許してもらえませんか」とお願いしたが、聞き入れない。「軍の言うことを聞かなければ国賊だ」と言って、日本刀で斬ろうとした。母はびっくりして、「悪うございました」と雨の中を土下座して詫びを入れて、そのかわり一日だけ余裕を与えてくれと頼んだ。

壕から出ていったら、いつどこでばらばらになるかもしれない。母親が死んで子どもたちだけになるかもしれない。そこで、いまのリュックサックですが、背嚢に最低限必要な塩や味噌、砂糖、米、携帯用の乾パンをつめて、お金もそれぞれ用意していた。防空頭巾などは前もって作ってあった。そうして5月24日、いよいよ壕を出ていった。しかし、行くあてはない。玉城(たまぐすく)という5キロほど離れた所に母方の従兄弟の伯母さんがいる。そこに行ったが、みな追い出されている。しようがないから、近くの自然の岩があるほうに行って、そこの下に隠れたんです。

当時の日本軍の情報、大本営発表というものは実にデタラメだった。5月27日は海軍記念日だから日本軍の友軍が来る、神風特攻隊が助けにくるなどと宣伝していた。もちろん何もどこからも来ない。友軍どころが米軍がどんどん攻めてきた。大慌てで逃げて行った先がいちばんの激戦地である具志頭(ぐしちゃん)や米須(こめす)東風平(こちんだ)で、糸満市のいまの「ひめゆりの塔」がある近辺です。本来ならいちばん安全な所に誘導すべきなのが、そうではなかった。いちばん激しい所ばかり行った。

6月16日ごろだったと思いますが、いまの糸満市の真栄里という所に親戚の親戚がいるからというので、そこまで行ったがだめだった。しかたなく、また自分の手で壕を掘って、そこに入っていた。そうしたら米軍の戦車が急に来て、もう出るに出られない。


●持たせられた手榴弾

当時は神の国である。天皇の子である日本人が鬼畜生である米軍に捕虜になることは最大の恥であった。そういう辱めを受けるよりは、潔く日本国民として、天皇の子として自分で死ぬのがいちばん最高の美学、美徳だと教えられていました。そうして、軍から手榴弾を二個、渡されていました。

私は6年生でも大きなほうだったので、一個はお前が持て、一個は防衛隊の伯父さんが持つと。米軍がこの壕に入ってきたら、彼らをやっつけて自分たちも自決しようと。それは軍からの命令というか、完全に国全体の方針ですからね。そういう教育であり、方針であり、背景ですから。誰が言ったというより、その通りだと信じこんでいますから。

自決する場合と相手をやっつける場合の手榴弾の使い方も教えられていました。手榴弾は手に持てるぐらいの小さなものです。信管という安全装置を歯で抜いて、そのままではいけないから片方にやって、一、二、三で投げたら相手をやっつける。自分たちをやる場合は、信管を抜くまでは同じですが、あとはポンとたたいて、みんなでこうして抱き合って、手榴弾を持っている人は自分の胸に当てて爆発させる。そうすると、5、6名は間違いなく自決できると。これはぜんぶ教えられている。これが当時の実態です。


●何千、何万の死体のなかを

幸いに僕らの壕は盲点になっていて、こんな所にあるはずはないという所だった。米兵が壕の上から歩くけど入ってこなかった。この日は自決をすることなく、脱出することになった。

ところが、距離にしてわずか30メートルもない小さな丘を抜けるのに2時間半ぐらいかかった。どうしてか。米軍は戦場であっても人権を重んじて、前の日に5キロ進んだら必ず3キロばかり後退する。必ずバックする。その安全地帯には照明弾を上げる。照明弾が一つ上がって、それが落ちるまでに次の照明弾を上げる。電波探知機も張って、日本の切り込み隊、特攻隊を防ぐ。だから夜でも真っ昼間みたいに明るく、そこを突破するのは並大抵ではない。

私たちは丘の上の死体のなかにもぐっていて、照明弾が上がって下に落ちる瞬間に、わずか零点何秒かの間にゆっくりゆっくり匍匐(ほふく)前進して、丘を越えて、そして真壁という所に脱出した。しばらくすると、母の兄夫婦が「どうせ死ぬのなら自分の家に帰って死にたい」と言いだした。とんでもない、そんなことはだめだと言ってもきかない。しかたなく5百メートルぐらい行った辺りで、艦砲射撃でやられた。僕は伯母の腕を捕まえていたのですが即死です。伯父はまだ息はあったけどもう動けない。親戚の6年生の男の子が3歳の女の子をおぶっていたが、その2人も即死だった。そのほかに2人が死んだ。その一晩の艦砲射撃で6人が死んでしまった。

しかたなくまたバックして、真壁に行った。いま「ひめゆりの塔」とよばれている所の隣ですが、周辺は全部死体だった。何千、何万という死体だった。歩くにも呼吸が苦しいくらいだった。沖縄ではヨモギをフーチバといいますが、その葉の残ったものをもんで鼻に差し込んで、そうしなければ歩けない。そのくらいの悪臭だった。

いまの摩文仁の間に大度という部落がありますが、飛行機からの爆撃で昼間はとても動けないけど、ここからは昼間でも移動しなくてはならない。その部落で昼間に歩いていたら、母は頭から真っ赤な血を出していて、もう母も終わりかと思った。そうしたら民家の水タンクがあった。爆弾でやられていて水はなかったけど、そこに日本兵が隠れていた。僕らを見ておいでおいでをするものだから、不思議だなと思った。いつも追っ払われてばかりいたので、初めておいでおいでをするのでありがたいと思い、ハイハイと近づいていって水を飲ませてもらった。もう感謝感激で、私のカバンから黒砂糖をあげたんです。

夕方までそこに隠れて避難していた。敵が来るので、夕方になってまたそこを突破しなければいけない。摩文仁に行こうと水タンクを出ようとしたら私のカバンがない。つまり、私のカバンの中に入っている食べ物、それを盗るのが狙いだった。戦争というのは人間が人間でなくなる。普通の常識では考えられないが、戦争というのはそんなものです。

真壁から米須に行く途中も死体だらけでした。赤ちゃんがお母さんの背中で泣いている。お母さんは死んでいて、赤ちゃんだけが生きている。しかし、どうしようもなくて、そこを通っていく。普通ならこれを見過ごすことはありえない話だ。だけど戦争中はそれどころではない。人間が人間でなくなる世界が戦場だ。我々はそこを通って摩文仁に行きました。

途中に水貯めとか、川や井戸があります。しかし、井戸に行って、水を飲もうとしても飲めない。ケガをした人が水を求めて井戸に行く。水を飲んだ瞬間に血が薄くなって死んでしまう。井戸の周辺も全部死体だからこの水はもう飲めない。枯れたサトウキビを抜いて、かじって汁を飲んで喉を潤すしかない。

6月19日になって、いまの摩文仁の平和記念堂、「平和の礎」の前まで行きました。そこでまた艦砲射撃を受けて、姉が生き埋めになったが、幸いにして足のケガぐらいですんだ。そうして、何度か捕虜になりかけて、行ったり引き返したりして、6月20日になりました。


●6月20日、文字通りの生地獄

その日の朝です。不思議と弾が一発も来ない。6時半か7時頃でした。平和祈念資料館の一角に「沖縄工業健児之塔」があります。これはその周辺で起きたことです。

丘の向こうに上半身裸の人が二、三百人並んでいる。どうみても日本人ではない。よく見ると米軍だった。沖縄の6月20日は暑いですよ。すると向こうから一人の人が白い旗を持って、パンツだけでやってきた。中年の伯父さんだった。私たちの後は絶壁で、そこに追いつめられて袋の鼠になっている。それなのに、追いつめている米軍側から白い旗を持った人が来る。どう見てもおかしいが、それは30代半ばの沖縄の人だった。

彼は私たちの所にやってきて、「私は捕虜になった」という。捕虜になったら男は股裂きとか、生爪を剥ぐとか言われていたが、「そんなことはない。捕虜になっても衣食住ちゃんと支給して保証されるから心配ない。私が旗を持って、皆さんを誘導するから」と言って、「男の人はフンドシかパンツだけになって、女の人は着ているものだけでいいから、荷物を置いて」と、我々を助けようと説得した。そのとき、岩に隠れていた日本兵3名が抜刀したまま飛び出してきて、「スパイ野郎」「売国奴」「キサマみたいな人間がいるから日本はこうなるんだ」と言って首を斬ってしまった。虐殺ですね。

毎日何千、何万という死体を見ていても、生きた人間を目の前で殺すという残虐はもうどうにもならない。血が凍るという表現がある。生地獄とか修羅場とかいろんな言葉があるが、どれをとっても表現はできない。もうどうしようもない。ぶるぶる震えて動けない人やひれ伏して泣く人。それは本当に生地獄です。その人の言うことを聞いて一人裸になった人を、その3名が追いかけていってまた殺る。

この一部始終を米軍側は五、六百メートル離れた所から双眼鏡で見ている。最後に残った人間をなんとか助けようとしたが、そうして派遣した人までやられた。これでもうだめだということで、米軍はもう集中攻撃です。10分も経たないうちに、最後にありとあらゆる弾を全部放った。生きている人間もそれで死んでいく。最後は火炎放射器で、30メートルか40メートルも火の球がばあっと焼いていく。全部。もう生きた人間、死んだ人間、草も木も何も全部焼いていく。後ろは絶壁ですからどうしようもない。追いつめられた2万人のほとんどが死にました。


●軍を信じたがゆえの悲惨

生き残った私たちは、火の球に追われて絶壁を降りた。20メートルか25メートルぐらいあるでしょうか。平和の礎に行かれた方は分かると思いますが、海に突き出たあの断崖絶壁です。そこを降りて岩の間に隠れた。下は水源地なので水はある。しかし食べ物はない。米兵が捨てたレモンの皮や賞味期限が切れて捨てられたものが浮いている。最初はそれをとって食べた。

ところが毎日、海のほうからは上陸用舟艇という海も陸も走る戦車で、上からはジープで朝昼晩の3回、マイクで呼びかける。「出て来い、出て来い。心配ない、大丈夫」。食べ物も何も心配ないという、柔らかく優しい声で毎日呼びかけてくる。そうすると、岩の中に隠れて4日目、5日目ぐらいになると幻覚作用が起きる。何か食べてから死にたい。どうせ死ぬなら、何でもいいから食べてから死にたい。ところがまた、いやだめだ、日本人として捕まるのは恥だ、絶対だめだ。その葛藤の毎日です。

生きたい、食べたいという本能と、皇民化教育で洗脳されマインドコントロールされた心との葛藤。1週間くらいするともうどうにもならなくなって、誰が言うとなく「出てみようか」「そうしようか」と、ささやきあっているうちに出ることになった。そうしたら舟艇のなかに大怪我をした男の子がいた。1週間もなるとウジ虫がわいて大きくなる。それを米軍の衛生兵がピンセットで抜きながら治療をしていた。ああいう子まで助けようとするのだから、我々を殺すはずはないと安心した。そうして捕虜収容所まで連れていかれてやっと助かったのです。


●忘して忘しららん 戦世のつらさ
繰返ちなゆみ 子孫のために


これはその時には感じなかったことですが、戦争中に那覇に住んでいた家内と結婚した。彼女の家族は那覇に住んでいましたが、空襲に追われて具志頭に避難していた。その後、彼女たちはどこにも移動しないで、米軍が来たら手を上げて直ぐに捕虜になっている。なぜこんなに違いがあるか。

彼女のお爺ちゃんは戦前、移民会社にいた。南米やハワイとか世界中の情報を集めている。だから知っているんですよ。軍の情報は違っている。捕虜になるとどうのこうのと言われても、まったく信じていない。ところが情報はウソだと言ったら、一言でも本当のことを言おうものなら、直ぐにスパイとして憲兵隊に、特高に殺される。

そのために、彼はわかっているけど家族にさえ言えない。どうしたか。わかっているがゆえに、自分から黙って行動した。あちこち飛び回ったりしなかった。それで被害が少なかった。我々は軍を信じたがゆえに最悪の事態になった。伯父も伯母も、従兄弟も死んだんです。

戦争というものは人間が人間でなくなる境である。軍は住民を守らないというだけではない。本当のことを言ったらやられる。我々を助けに来た人も、救うために来たけど、スパイ野郎、売国奴と言われて惨殺された。戦争ほど恐ろしいものはない。

私は琉歌でこう言っているのです。「忘れよう、忘れようとしても決して忘れることはできない。悲惨な戦争のあのつらさを。二度と繰り返してはいけない。子や孫たちのために」。

忘(ワ)して忘しららん 戦世(イクサヨ)のつらさ
繰返(クイケー)ちなゆみ 子孫(クァンマガ)のために

そういう信念で、私は、沖縄で反戦運動を続けてきたのです。


●怒りに燃える沖縄

昨日、6月23日は沖縄戦の慰霊の日で、安倍総理も来ていた。沖縄県民は「何をしに来たのか、帰れ」と総理を相手にしませんでした。皆さんの地元の河北新報にも、今日の朝刊に書かれていたでしょう。安倍総理は一週間延ばせばなんとかなると思っているのだろうけど、こんな人物が一国の総理だなんて、我々からすれば本当に恥ずかしいかぎりだ。これは絶対に許せない。沖縄は怒りをもって立ち上がっています。

私は社大党の委員長を辞めて20年になります。いまは農業をしておりますが、沖縄問題になると黙ってはおれません。現職を退いても、何かあると出てこなくてはという思いでいっぱいです。そういうわけで、私は現在、友人である山内とくしん後援会の共同代表の一人として取り組んでいます。

沖縄はなお一層がんばりたいと思います。今日は東北の皆さんがこのような機会を作っていただき、ありがとうございました(満場の拍手)。


■以上