<寄稿>
履修単位不足問題について!
<学習塾講師(宮城県在住)/2006年11月1日>

富山県立高岡南高校で発覚した履修単位不足問題は、この一週間で全国40都道府県に広がり、対象となる高校生は10万人を超えた(10月30日発表・NHK調査)。そして校長自殺と70時間補習での救済策という続報が入っている。

安倍首相の「美しい国」は、アメリカの世界戦略の重要な一環として「一人前の国家」を目指している。その安倍政権は、「教育再生」を改憲にいたる戦略的課題と位置付け、教育基本法の換骨奪胎を重点課題としている。「ヤンキー先生」やオリンピックのメダリストまでを内部に取り込みつつ設置した『教育再生会議』は、「子供の安全」や「いじめ対策」を目玉商品にしながら教育への国家統制を強め、これを善しとする国民的合意の醸成を目論んでいる。

かかる情況の中で、この時期を選んで勃発した履修単位不足問題は、少なくともこの30年にわたる教育行政の誤策の結果生じている矛盾の噴出である。にも拘らず、学校に対する国家統制を一層強化することをもって事件発生の防止と原因の隠蔽もしくは責任の転嫁を画策している。

かつて70年代後半、それまでの全共闘運動−学園紛争の収束に代わって全国を吹き荒れた校内暴力の嵐と、それに続く「いじめ」による自殺の多発は、その原因が「過度な受験競争」「偏差値教育」に求められ、1977年の指導要領の改訂は教育課程の基準を学習内容と履修時間数を削減する方向に舵を切った。いわゆる「ゆとり教育」の開始である。家永教科書訴訟等の政治的内容をめぐる攻防の陰に隠れ、世間的にはほとんど注目されることはなかったが、この動きは教育の本質に関わる重大な問題をはらんでいた。

内容削減は「最初はおずおずと後には大胆に」進められた。とりわけ、小・中学校理科系教科の内容は、その後およそ10年毎の改訂のたびに「精選」という名目で削減に削減を重ね、今日では科学的視点どころか物事の真偽を見抜くための論理的思考力の形成さえ怪しくなるほどに寸断されたものになっている。

しかし、内容削減に対する抵抗や反対の運動は表面的には皆無であった(人材育成に危機感を持つ産業界からは批判が出ていた)。それどころか、皮相的にも詰め込み教育からの解放として歓迎さえされ、95年の文部省と日教組の「歴史的和解」に至る口実の一つにもなっている。校内暴力もいじめも自殺も、統計上の増減はあっても、その深刻さにおいて克服されたとは到底いえない事態は今も再生産され続けている。国家百年の計といわれる教育政策は次の世代をして一体どのような人間を育もうとしているのか。教科書の薄さに輪をかけて薄くなったのはノスタルジックに語られる人情論にとどまることはない。

実際、本県に限って見れば、小・中学校世代のこの10年は理数系教科にとどまらず、教科全般にわたって深刻な知的能力と学習意欲の低下が見られる。そして学年が上がるほどこの傾向は顕著になり、県内中位レベル(従って地方郡部の上位層)に集中的に現われる。皮肉なことに、かろうじてこの事態に抗しているのは紛れもなく受験の圧力である。

しかし教科履修時間の激減(通常、公立中学校の3年生の時間割では英語と数学は週3時限ずつで理科や社会化は週2時限しかない)と、寸断され縮小した内容の教科書で育ってきた子供達にとっては、教科内容が簡単になったという実感など在りようもない。長期的・体系的な学習の蓄積が要求される高校入試の問題と向かい合うときは、指導要領の掲げる論理的思考力によってではなく、勢い丸暗記的な方法に頼る度合いが拡大しつつある。高校進学が学問的素養の形成と乖離しつつある。これは愚民化政策である。

かかる事態のしわ寄せが集中するのが、大学受験の成否に学校の価値が顕著に問われる進学校と呼ばれる高等学校である。とりわけカリキュラム編成の裁量権が狭い公立高校では深刻である。2003年には学校五日制と教科内容の3割削減、履修時間の縮小と主要教科以外の履修を義務付けた99年改訂の新指導要領が完全実施された。入試を突破してくる中学生(高校新入生)の学力はそのスタート時点で高校の授業レベルを年々下回ってきているが、これを補うための時間を捻出する余裕は高校に残されていない。

一方、大学受験においてはセンター試験の内容はいくらか軽減を見たものの、旧一期校などの国立大学や有名私立大では各大学が実施する2次試験のレベルはさほど変化していない。この2次試験の成否が合否にしめる割合は、東大をはじめとする難関大学ほど高いのである。つまり、教科書は薄くなっても大学受験までに到達しなければならないレベルはそれほど軽減されたとはいえないのだ。すなわち、高校ではただでさえ時間数が足りなくなっているのに、入学してくる生徒達にかけなければならない手間も増加しているということなのだ。裏カリキュラムの編成が蔓延していくのは火を見るより明らかなことであった。

「過度な競争」や学校教育の諸問題は確かに耐えがたい矛盾と荒廃を生み出している。しかし、小手先の制度改革や精神的外部注入で事足りる代物ではない。拡大する所得格差と雇用不安、国家的必要にすりかえられる「公共の福祉」。戦後資本主義体制を支えてきた理念さえもかなぐり捨てて突き進もうとする「美しい国日本」再建。・・子供をしてささやかな安定を願う労働者大衆の教育に託す想いは裏切り続けられている。

■以上、投稿。