(やまがた・まもる)

短詩の杜やさしくて踏み分けがたい径を行く

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コンテンポラリーであること

2008年6月20日
 60年代fはじめに現代詩を系統的にとらえようとする講座が出版された。そのはじめの論文が「現代詩とは何か」であった。その中で現代は英訳すれば「MODERN」であり、モダンには近代の意味もある、と書いていた。たしかに西洋のように詩の成り立ちから現在までつながっている世界では近代も現代もつながっていて当然である。
 しかし、現在生まれている詩をどう呼ぶかる、そこに筆者も説明に苦労していたようだ。もともと現代詩は伝統的な詩とは異質な詩形と発想で輸入された。どうしても現代詩を際だたせる<くくり>が求められる。そこで登場するのが「コンテンポラリー」である。同時代性、即時代性の意味を持つ表現て゜あり、おそらく永遠に日本の風土に定着しない「現代詩」の定義にもっともふさわしいものだ。
 コンテンポラリーはアンチエイジングである。現代詩の中にも伝統詩へ回帰しようとする動きが目につくようになった。コンテンポラリーであり続けよう。(まもる)

短歌とコンテンポラリー

2008年6月28日
 今どき短歌などと言うと、それはもう昔語りの話じゃないの?といわれそうだ。つまり過去の話という意味である。
 今から六十三年前、日本が連合軍の前に膝まづいたとき、狂気の天皇主義とともに日本の分化は死んだ。歌舞伎が落語が、そして短歌がである。
 科学で武装した欧米の思想がどっと押し寄せて、つまり欧米プレートに押されたアジアプレートがしずみ込んだり浮き上がったり。極東の日本列島は地震を起こしたり沈み込んで化石なったり。さしずめ美しい短歌の系譜は化石になってしまった。
 日本語のイロハから説明しないと読者に伝わらなくなってしまったのだ。その結果残ったのはラジオなんかでやられているケイタイ短歌やテレビのバラェテイのような座受けの短歌である。
 「腋の下をみせるざんす」と迫りつつキャデラッ
      ク型チップチャップス =穂村 弘
 ・そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を
       売ってくらしています=東 直子
 これらの歌の意味が分からない。どこが面白いのか、つまり笑ったり手を叩くポイントが分からないのである。
 私が考える短歌とは日本語の正しい系譜をたどりつつ日本人の生病老死の嘆きを歌うことにある。西欧的な概念の言葉ではなくて手触りや温かみのある言葉で現象を捉えるのである。
 ある反体制の唯物論者と論争しているのだが、彼は宇宙自然のすべては理解し証明できるという。私はかなりの部分まで分かると思うが、何%かは理解できないこととして残しておくことが必要なのではないかという趣旨である。
 唯物論者はすべてを理解できると考える。私は宇宙や自然に対して何%かの神秘の部分を残しておきたい。それが宇宙や自然に対しての節度ではないか。すべてが分かるなんぞは思い上がりである。その思い上がりが地球をとことんむさぼり尽くす。
 丁寧にひっそりと生きていきたいのである。日本語についても、過去の伝統に照らして、美しい日本語を残していきたい。短歌についても日本の伝統的な感性や考え方を大事にしていきたい。ところが読者がいないのである。日本語感性や考え方が破壊しつくされてしまったいまではもう手遅れなのかもしれない。(さぶ)



「短歌ギャラリー」へ続く

プロフィ−ル

内藤 三郎

歌人・ジャーナリスト
・歌集『メルベイユ』
・共同歌集『モンキートレー
   ンに乗って』など
・同人制をとる結社に参加し
   歌作中
・農業問題を中心にジャーナ
   リズム活動を展開
   (ないとう・さぶろう)



山県 衛

・詩集『ぼくはことばの』
 『じゅうさんの愛のうた』