方広寺、豊国神社、東山七条界隈
東山七条界隈には太閤さんこと「豊臣秀吉」関連の社寺がたくさんあります。
まずは、豊国(とよくに)神社です。
上左写真は豊国神社唐門で伏見城から移築されたもので国宝です。
右写真は唐門奥の神殿です。
豊臣秀吉を祀ってあり、地元では、「ホクコクさん」と言われています。
秀吉が慶長3年(1598)に亡くなったあと、東山七条突き当たりの阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、その麓に広大な豊国社が造営され、
豊国大明神として祀られていました。
しかし、豊臣氏滅亡後、徳川幕府に取り壊されたり、閉じられたりと、風雨にさらされ朽ち果てていきました。
明治13年(1880)にこの地に「豊国神社」として社殿が、阿弥陀ヶ峰の頂上にも「豊国廟」として
五輪の塔が再建されたわけです。
左は、豊国神社全景。 右は唐門前の諸大名から寄進された灯籠です。
豊国神社北隣には、方広寺があります。
秀吉が1586年(天正14年)東大寺を真似て創建した方広寺の鐘楼です。
方広寺には、創建時19mの奈良の大仏より大きな木造大仏が安置された大仏殿が、あったのですが、
1596年(慶長元年)地震で倒壊してしまいます。
秀吉没後、家康が淀君、秀頼にすすめて銅製の大仏を再興させましたが、大仏に続いて造ったこの大鐘に
「国家安康」「君臣豊楽」とあったのを家康を呪い、豊臣家の繁栄を祈願したと徳川にいいがかりをつけられます。
こちらがその「国家安康」「君臣豊楽」です。
これを口実の一つとして大阪冬の陣、夏の陣と続き豊臣家滅亡となっていくわけです。
この鐘の内側に白いもやもやが出ています。
これは淀君の恨みの幽霊姿とも噂されたそうですよ。
皆さん、鐘の中を恐る恐る覗いています。 おおこわ〜〜(^_^)
しかし、大きいですね。 写真の皆さんがすっぽり入ってしまいますね(^_^)
ちなみに秀頼が再興した大仏は、寛政10年(1798)に落雷の火災により焼失。
天保年間に旧大仏を模した10分の一の木造半身像を寄進されますが、それも昭和48年(1973)に
落雷の火災で焼失します。
何か因縁があるような、一寸恐いような・・・・・。
そしてその大仏殿の名残として残っているのが、この石垣です。
今は豊国神社や方広寺の石垣となっています。
北西の角に石垣の中でも一番大きな一枚岩があります。
向かいの家の二階まである大岩(右写真)です。
前田利家がこの岩を動かすのに難儀したと言われているとか。
そして豊国神社宝物殿の駐車場奥、つまり境内南東角に忘れられたような五輪の塔があります。
こちらも秀吉ゆかりの石塔です。
こちらがその五輪の塔で、馬塚(うまづか)と言います。
秀吉没後、東山の阿弥陀ヶ峰麓に秀吉を「豊国大明神」として祀った「豊国社(左写真)」が建立され
京の太閤さん人気でたくさんのお参りがあったそうです。
しかし、豊臣家滅亡後、徳川幕府に破壊され、門を閉ざされたため、京の町人はこの「馬塚」を大拝社としてお参りしたそうです。
人々はお上を恐れて、すぐ近くの馬町(うままち)で馬市があったので表向きは「馬塚」としてお上に隠れるようにして
お参りしたそうです。
ただし、この石塔はその以前からあったものか、代拝所としてその時に建立されたものか、
そこのところを立証する文献はないそうですが、
今はひっそりとして忘れ去られたような風情が寂しい限りです。
でも、現在の阿弥陀ヶ峰の五輪の塔は明治の再建ですが、こちらの馬塚の塔は江戸時代の五輪の塔のままだそうですよ。
こちらに参って当時の京の町衆たちの太閤さんへの想いを偲ぶのも良いですよ(^_^)v
ちなみにこちらは阿弥陀ヶ峯の頂上にある豊国廟です。
明治30年(1897)、秀吉300年忌に再建されています。
10mの五輪の塔で大きくて立派です。
こちらまでの階段が500段以上あり、ちょっと疲れますが、秀吉の壮大な夢、栄華が偲ばれます。
ぜひ一度挑戦なさってください(^_^)v
ただし、木が生い茂って、頂上からの景観は期待できません(*^_^*)
方広寺の南隣に豊国神社、そして京都国立博物館(上写真)があります。
豊国神社も博物館も豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿跡地になるそうです。
そして七条通りを渡った南側には三十三間堂(蓮華王院)上写真がありますが、
この三十三間堂も方広寺建立時に秀吉は方広寺の敷地内としてしまったそうです。
その時に三十三間堂の南に方広寺の南の塀として造ったのが、上写真の「太閤塀」だそうです。
今は三十三間堂の南塀となって残っています。
塀の瓦に秀吉の紋、五七の桐(上右写真)を見ることができます。
太閤塀の全景です。 太閤塀に続くこちらの門は「南大門」です。
秀吉の息子、秀頼が秀吉没後に建立したものだそうです。
当時の方広寺の広大な敷地を想像すると面白いですね。
豊国神社の西には、「耳塚」もあります。
こちらは秀吉の朝鮮出兵折に武将たちが首級のかわりに持ち帰った塩漬けの耳や鼻を供養した塚です。
ちょっと複雑な気持になる場所ですが、今は韓国の観光ツワーがよくお参りに来られるとのことです。
上写真の左が「養源院」、右が「智積院」です。
三十三間堂の東側には淀君の父浅井長政の菩提寺「養源院」(後に淀君の妹で徳川秀忠の妻、崇源院が再建)があり、
また秀吉の幼くして亡くなった子、鶴松の菩提寺「祥雲禅寺」(後に「智積院」が建立)、
七条通突き当たりの東山阿弥陀ヶ峯中腹には、秀吉を祀った広大な「豊国社」が広がり
秀吉の関連の社寺が連なっていたわけですね。
七条界隈の地図がありましたので少し付け加えてみました。
参考になりますと良いのですが。
秀吉を偲んでぜひ東山七条界隈を歩いてみるのは、いかがでしょうか(^_^)v
他にも色々発見があると思いますよ(*^_^*)