冷めない熱を。



 「カズっ!」
オングストロームは総合4位というまずまずの成績を残して、今回のレースも終了した。
無事に走りきった安堵と、次回へ向けての意気込みで、僅かに和んだ雰囲気のピット内に、加賀見さんの険しい声が響いた。
その、いつもよりも切迫した声に視線を向けると、マシンに縋るように倒れ込む岩戸さんの姿があった。
打ち合わせをしていた中沢さんや鷹島さんも、すかさず岩戸さんの元へと駆け寄る。
いつもよりも血色を失くした顔で微笑を取り繕いながら、心配そうに集まる彼等に「大丈夫だから…。」と言う岩戸さん。
でも、その表情を見れば、大丈夫では無い事は明らかだ。
このレースの数日前にマシントラブルが発生して、岩戸さんはずっとその調整に付きっ切りだったと、鷹島さんが教えてくれた。
ほとんど徹夜で、このレースに向けてマシンを仕上げたのだと言う。
きっとその疲れが、レースが終了したという安堵感で、溢れてしまったんだ。
身を案じる仲間達に心配させないように立ち上がろうとするけど、身体に力が入らないのかマシンに寄りかかったまま辛そうに顔を歪める。
そのままにしておけないと椅子に座らせて、少し熱っぽい額に濡らしたタオルをあてると、気持ち良さそうに大きく息を吐いた。
呟く程の微かな声で「ありがとう。」って言って、岩戸さんはそのまま静かに目を閉じた。
少し荒い息が、辛いって言わない岩戸さんより正直だ。
 「すぐに、家まで送って行ってやりたいんだが、これから協会との打ち合わせが入ってて…。
  少し時間がかかりそうなんだ。」
 「じゃ、オレが送って行きますよ!」
 「でも、カズも車がいるだろ…2人で行って、また戻って来ないと…。」
 「あぁ…でも、このピットも早く明け渡さなければならない。マシンを運ぶ手続きもあるし…。
  カズには悪いが、もう少し…。」
挨拶をして帰ろうと思ってたけど、岩戸さんのことも心配だし、皆さん忙しそうで、私にも何か…。
私は、ちょっと震える拳を握りしめて、加賀見さんに声をかけた。
 「あの…私が、岩戸さんを送りましょうか?一応、免許もありますし…。」
その言葉に、3人の視線が一斉に私に向けられた。
真っ直ぐなその視線に思わずたじろいで、無意識に半歩下がってしまう。
少しの間、顎に手を当てて考え込んでいた加賀見さんが、私に向き直ってゆっくりと口を開いた。
 「さん。君の免許は…限定ではないよね。」
 「…はい。」
 「そう…じゃあ、マニュアルだけど、大丈夫か…で、今まで、運転した事は?」
 「免許を取ってから、数えるほどしか…。」
 「うん……そう、か…。」
それを聞いて、鷹島さんが会話に入る。
 「それじゃ、どっちも心配だって!やっぱ、カズさんには悪いけど、少し休んでてもらってオレが…。」
中沢さんは何も言わないけど、多分鷹島さんと同じ意見だって言うのは、表情でわかる。
私って、そんなに信用ないかな?ただの足手まといで、何の役にも立たないのかな…。
今回の取材の初日に、右も左もわからなかった私が、初めて声をかけた相手が岩戸さんだったのは、本当に幸運だった。
もし、他の誰かに声をかけていたら、私はとっくに今までの平凡な何も無い生活に戻っていたはず。
そんな彼のためにも、何かしてあげたいのに…。
すると、いきなりガタンと椅子が倒れる音がして、よろつきながら岩戸さんが立ち上がった。
 「大丈夫かよ、カズさん!」
 「無理するな…。」
肩を貸す中沢さんに身体を預けて、岩戸さんは無理に笑顔を見せようとした。
 「僕は、一人で帰れます。大丈夫だから…さんも、気にしないで。」
自分が辛いはずなのに、私のことまで気を遣ってくれて…やっぱり、私も何か役に立ちたいよ。
 「私に、送らせてくださいっ!ちゃんと、無事に岩戸さんを送り届けますからっ!」
思ったよりも大きな声がピット内に響いて、4人とも驚いたように声を詰まらせる。
気を取り直した加賀見さんが、それでも不安そうに眉をしかめる。
 「でも――。」
まだ何か言いたげだったその言葉を遮ったのは、岩戸さんの声だった。
 「じゃ…お願いしても、いいかな?」
そう言って、力無く微笑む岩戸さんの手から渡されたのは、緑色の皮製のキーケースに付けられた、シビックのキーだった。

 「自分の車の助手席に乗るのって、なんだか不思議な気がするね…。」
助手席で、少し倒したシートに身体を沈めた岩戸さんが、私に話しかける。
その声は、いつもの優しい声だけど、どこか頼りなく擦れている。
多分、慣れない運転と岩戸さんの大事な車だっていう緊張でガチガチになっている私を、気遣ってくれているんだと思う。
そんな岩戸さんの気遣いも虚しく、私はロクに返事をする余裕もない。
今思えば、加賀見さん達が最期まで渋っていた理由が、はっきりとわかる。
 「ゆっくりで、いいからね。」
 「怖かったら、どっかで止まって、電話しろよな!」
 「…気をつけろ。」
みんなが心配そうに見守る中、危なっかしい運転のまま送り出されてきたっていうのに。
こんなんじゃ、事故だって起こしかねない。
車はもちろん、チームの大事なメカニックが大怪我なんてしたら、私は謝罪のしようがない。
無事に送り届けるなんて、大きな啖呵を切った自分が、恥ずかしい。
それに、岩戸さんだって、きっと気が気じゃないだろう…自分の大事な車に、何かあったら…。
私ってば、そんなに大事な車を簡単に運転するなんて、なんてだいそれた事を考えたんだろう。
だんだんと落ち込んできちゃって、辛くなってくる。
でも、ちゃんと送らなきゃ…少しでも、岩戸さんの力になりたい…。
そう思うことで、どうにか気を持ち直した。

 「次の信号…赤になるから、減速して…。」
 「え?」
いつの間にか、シートを元に戻した岩戸さんが、私の方を向いてにっこりと笑う。
静かに減速していくと、ちょうどそこで信号が赤に変わった。
 「ほらね。」
そう言って、首を傾げてみせる。
それからも、岩戸さんは要所々々で指示をだした。
 「そこの左折は、停車している車が多いから、少し膨らんで回った方がいいよ。」
 「この一時停止は見づらいから、ゆっくり少しずつ頭を出して行って。」
 「ここの信号って、緩い上り坂になってるから、サイド引くといいよ。
  クラッチが重いでしょ?足が、辛いだろうから。」
岩戸さんの指示は、自動車学校の教官よりもわかりやすくて、優しかった。
その指示どおりに操作すると、嘘のようにスムーズに車が答えてくれた。
それに、岩戸さんの車は教習車よりもずっと運転しやすくて、私はいつの間にか運転することが愉しいとまで思うくらいだった。
マンションの駐車場で、一番苦手だった車庫入れをする段階になって、私は頭から入れてもいい?って聞いた。
岩戸さんはせっかくだから、バックで入れてみようと言って、それは頑固に退かなかった。
でも、進入する角度や、ハンドルを切るタイミング、なによりも岩戸さんがいる安心感から、初めて1度で車庫入れすることが出来た。
エンジンを切った途端、無事にここまで着いたことを、やっと実感出来た気がした。

まだ少しふらついている身体を支えた私に、岩戸さんが「ごめんね。」と小さく呟いた。
 「…初めて乗る車なのに、さんって運転が上手かもね。」
そう言ってくれて、お世辞でもすごく嬉しかったけど…。
でも、それは違うよ、岩戸さん…まだこんなに辛そうなのに、私のことを気にして、ゆっくり休むことも出来なくて。
岩戸さんがいたから、慣れない運転も、初めて乗る車も、大丈夫だって思えたんだよ。
それなのに…私は、何も出来ない…岩戸さんの力になりたいって言いながら、やっぱりこんなに頼ってる。
部屋の前で、覚束ない手付きで鍵を回す姿を見て、私はとても悲しくて…。
気付いたら、足元に点々と水の跡が出来ていた。
やっと開いた扉に振り向いた岩戸さんが、そんな私の涙に気付いた。
 「どうしたの?さん…。」
途惑いがちにかけられた声はそれでも優しくて、私は零れる涙を止めることが出来なくて。
困ったように口ごもる岩戸さんが、私の背中を押して部屋の中へと促した。
それはそうだよね…部屋の前で泣かれてるのを近所の人に見られたら、変に思われちゃう。
なんで私って、とことん迷惑しかかけられないんだろう。
 「岩戸さん、ごめんなさい…緊張してたから、ホッとしたのかも……。」
半分は本当だけど、半分は嘘…こんな気持ちを、知られちゃいけない。
こんな、何も出来ないまま離れるのは嫌だ、もう少し一緒にいたい、なんて…。
涙が止まらない私の肩に、そっと手がかけられた。
俯いていた顔を上げると、そこには虚ろな岩戸さんの瞳があった。
 「さん…こんなこと言って、ごめん……聞き流してもらって、構わないんだけど…。
  できたら…その……もう少し、いてもらえないか…な…。」
その時の私は、とても驚いていたんだと思う。
彼も、私と同じことを思ってくれたのかなって。
そんな私を見て、岩戸さんが表情を歪ませた。
 「ゴメン!…僕は、何を言ってるんだろうね。一人暮らしの男の部屋に、連れ込むみたいなマネ……。
  今の、忘れて……タクシー呼ぶから……。」
自嘲気味に笑って、部屋へ上がろうとした途端、眩暈を起こして身体をよろめかす。
私は、倒れそうになる岩戸さんの身体を、支えるというよりもそれは抱きつくようにして。
 「まだ、一人で歩くのも大変なのに、置いてなんて行けないです。だから……。」
岩戸さんの瞳が、私に焦点を合わせようと揺れた。
私は、じっと、その瞳を追いかけて。

 「もう少し、側にいさせてください…。」

追いついた彼の瞳は、熱に浮かされ、熱を求めて。
私はそのまま、彼の熱にのまれてもいいと思った。

それが、熱に浮かされた一時の感情でも、それでもいいと思っていた。


END


<2006.7.8>

何故か、ラストがだんだん危なくなってる?
ゲーム内容完全無視だし…(-_-;)
疾斗ルートをやってみて、カズさんの車を運転したい!
って、思ったのがネタだったはずなんだけどなぁ。
まぁ、このまま何もなく一緒に寝ていた…っていうのが、
オチかもしれない。
で、朝になったら、全員からメールが入ってると…(笑)

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