「カズっ!」
遠くなる意識に、微かに加賀見さんの声がする。
マシンの不調を立て直すため、ほとんど徹夜作業でかかり切りになってから、何日経ったろう。
もう、日付の感覚も曖昧になって、レースの予選が昨日だったのも朝になってから気付いたほど。
そんな調子で始まった今回のレースは、総合4位というまずまずの成績を残して、なんとか終了した。
無事に走りきれたことと、何とか順位も下げずに済んだことで、僕の中に安堵感が生まれた。
これまでの張り詰めていた気が緩んだ瞬間、遠くなる意識。
マシンを移動させる手続きが済めば、家へ帰ることが出来る…それまでは、持ち堪えなければ…。
そんな気持ちとは裏腹に、視界は徐々に白く霞んでいった。
咄嗟にマシンに手を掛けた気がする。
僕はそのまま、ずるずると崩れ落ちた。
途切れがちに戻る意識に、心配そうな仲間の声が聞こえる。
僕は「大丈夫だから…。」と、ちゃんと言えたはずだ。
本当に、大丈夫だから…僕は、心配してもらえるような男じゃないんだ。
こんな事態に陥ったのも、全て自業自得なんだから。
航河達に支えてもらって、椅子に深く身体を沈めていた僕の額に、冷たい感触がした。
少し熱を持った身体に、ひんやりとした感覚が気持いい…思わず大きく息を吐く。
朧気な視界の中に、心配そうに僕を見るさんの顔が映った。
「ありがとう。」
言って、僕は目を閉じて、君を視界から消した。
みんなが…君が、心配してくれるほど、心苦しい。
身体の辛さより、心が…ツライ。
加賀見さん達の話し声を、遠く聞いていた。
誰かに僕を送らせるって話…そんなことまで、してもらうわけにはいかない。
今日は、このピットを引き揚げなければならなくて、その後片付けに只でさえ人手が必要だというのに。
だいぶん意識もしっかりしてきたし、もう少し休めば動けるようにもなるだろう。
そんな時、耳に飛び込んだ言葉に、僕はうろたえた。
「あの…私が、岩戸さんを送りましょうか?一応、免許もありますし…。」
加賀見さんや疾斗が、彼女を説得してる。
ペーパードライバーだって言ってたし、初めて乗る車を運転するなんて、無茶だ。
それに…君にだけは、してほしくないんだ。
僕は、重い身体をどうにか動かそうとする。
まだうまく力が入らなくて、立ち上がった途端によろめいたはずみで、倒れた椅子が派手な音をたてた。
その音に反応した航河が、すかさず僕を支えてくれた。
航河の肩を借り、みんなの前に立つ。
僕は、大丈夫…さんにも、みんなにも、そう思ってもらえるように、笑顔を取り繕う。
「僕は、一人で帰れます。大丈夫だから…さんも、気にしないで。」
そうだ、気にしないで、さん…僕は、君に心配してもらえる資格は、ない。
それなのに…。
「私に、送らせてくださいっ!ちゃんと、無事に岩戸さんを送り届けますからっ!」
これには僕だけじゃなく、加賀見さん達も言葉がなかった。
さん…君は、自分が何を言っているのかわかってるの?
ピット内に響いた彼女の声に、僕の理性がだんだんと麻痺していく気がした。
加賀見さんが、何かを言おうとしている。
でも僕は、その言葉を遮った。
表面的に浮かべた笑顔の奥に暗い感情を隠したまま、僕は君に判断をゆだねる。
「じゃ…お願いしても、いいかな?」
僕が差し出したのは、車のキー…でもそれは、君を拘束してしまう鍵かもしれない。
君がそれを手にした瞬間、僕は熱に浮かされていくのを感じていた。
もしかして僕は、初めて声を掛けられた時から、さんに惹かれていたのだろうか。
慣れない仕事に悩みながらも、一生懸命頑張るさんが健気だと思った。
そんな君の力になりたいと、出来るだけ気に掛けるようにしていた。
そうだ…いつも、視界の中に入れてしまうほど、君を目で追っていたんだ。
だから、次第にみんなと仲よくなっていく君をも、見てしまう。
仲良くなるのは、君にとっても僕等にとっても、いいことだってわかっている。
僕が言ったのだから…「みんな、すぐに打ち解けられるよ。」って。
じゃあ、この胸が軋む痛みは、いったい何?
君が、誰かに微笑むたびに感じるこの醜い感情は、何?
いつもいつも、何をしていても、君の姿を探す僕は…。
このマシントラブルは、僕の所為。
こんな気持ちのままマシンに向かっても、答えてくれるはずがない。
マシンは、正直だ。
僕の不安定な感情を、そのまま映し出す鏡のように。
だから、君の姿を頭の中から追い出して。
目の前のマシンに集中して、寝食を忘れるぐらい没頭して。
身体の悲鳴に気付かない振りをしながら、心の中を空っぽにした。
そうだよ…君は、心配する必要なんてない。
僕は、君に心配される資格は、ない。
君には、見てほしくないんだ。
大切な仲間に、ほんの一瞬でも暗い感情を抱いた、僕を。
他の誰にも、君のことを任せたくない。
君に頼りにされるのは、僕だけでいい…なんて思う、こんな独善的な…僕を。
サーキット場を出るまで、心配そうに声をかけるみんなに、さんはぎこちない笑顔で答えていた。
僕は、いつもと違う位置から見る自分の車に、違和感を感じていた。
まだ気だるさの残る身体を、少し倒したシートに預けて、運転席に座るさんを見る。
「自分の車の助手席に乗るのって、なんだか不思議な気がするね…。」
そんな僕の言葉に返事をする余裕もないほど、緊張した面持ちでハンドルを握っている。
君が一番、不安だろうね…初めて運転する、それも他人の車なんだから。
その横顔が、僕の中に複雑な感情を抱かせる。
無理をさせているという後悔と、それは僕のためなのだという後ろ暗い喜びと。
相反する感情が、僕の中でひしめき合う。
ゆっくりと流れる外の景色が暮れていくにつれて、沈んでいく君の表情。
そんな表情をさせているのは、きっと…僕なんだね。
やっぱり僕では、君を笑顔にしてあげることはできないのか。
余程、ここで車を止めさせて、タクシーで送り帰そうかと思ったけど。
君を離したくない僕は、たった一言の言葉すらも切り出せない。
まったく…矛盾している。
僕が望んでいるのは、君の笑顔…それだけなのに。
「次の信号…赤になるから、減速して…。」
「え?」
君は前を向いたまま、驚いたように、声をあげる。
なるべく動揺させないようにと笑って見せた僕を、視界の端にとらえたのだろう。
僕の言う通りにそっとブレーキをかけると、停止と同時に信号が赤に変わった。
「ほらね。」
そう言って首を傾げる僕に、感心したように笑う君。
あぁ、僕が見たかったのは、その笑顔だよ。
いつも、君の質問に答える僕に、その笑顔を見せてくれたね。
僕は君の笑顔が見たいから、いつでも答えられるように、君の側にいたんだ。
「そこの左折は、停車している車が多いから、少し膨らんで回った方がいいよ。」
「この一時停止は見づらいから、ゆっくり少しずつ頭を出して行って。」
「ここの信号って、緩い上り坂になってるから、サイド引くといいよ。
クラッチが重いでしょ?足が、辛いだろうから。」
僕の指示を素直に受け入れて、君は少しずつ表情を和らげていった。
慣れない車を運転する君が、少しでも走りやすいように、教えてあげるよ。
僕に出来る事は、このくらいしかないから…せめて、僕が好きなものを、君も好きになってくれるように。
車を運転するのは愉しいんだってこと、君も感じてくれるように。
マンションの駐車場で「頭から入れてもいい?」って聞く君に、僕がどう思ったか、知らないよね。
上目遣いで、そんなに無防備な表情をされて、落ち着いていた熱が一気に上がった気がしたんだ。
思わず触れてしまいそうな欲求を、辛うじて押さえ込んで、僕は自分の立場をわきまえる。
僕は、君にとっての『いい人』のままでいよう。
でも、もう少しだけ…「バックで入れてみよう。」と言う僕のわがままを、どうか許してほしい。
部屋に着いてしまったら終わってしまう、2人の時間を引き延ばしたかったんだ。
エンジンが止まり、急に音が消えた車内に、君の小さな吐息だけが残った。
そして僕は、2人だけの時間も、終わりが近い事を感じた。
座っているうちは大丈夫だと思っていたけど、立ち上がるとまだふらついてしまう。
そっと身体を支えてくれる君に、僕は「ごめんね。」と、呟いた。
君が触れている部分から、僕の熱が伝わってしまいそうで、誤魔化すように話題を探す。
「…初めて乗る車なのに、さんって運転が上手かもね。」
少し困ったように笑う、君。
それ以上、話が続かなくて、そのまま部屋の前まで来てしまった。
うまく力が入らない腕と、揺れる視界に、鍵を開けることすら覚束ない。
カチャ、と鍵が解かれた音、静かに開いた扉…もう僕は、これを受け入れるしかない。
これで本当に、終わってしまう…もう君を、離さなきゃならない。
ゆっくり振り向いた僕が見たのは、俯く君の足元に零れた、水の跡。
「どうしたの?さん…。」
僕の声に、また一つ二つと増えていく水滴。
止まることなく落ちる雫は、見る間に黒い染みを広げていく。
何を言っていいのかもわからず、ためらいがちにのばした手が、君の小さな背に触れた。
背中をそっと促すと、君は抵抗することなく部屋へと入り込んだ。
居間から差し込む街灯の明かりが、薄暗い玄関を照らす。
「岩戸さん、ごめんなさい…緊張してたから、ホッとしたのかも……。」
まだ泣きやまない君は、少し上擦った声で呟く。
僕は、それほど怖い思いをさせていたんだね。
こんな事を言うと、君は、軽蔑するだろうか。
緊張が解けて、身体を震わせる君に、つけ込むようなことだと思う。
でも、今の僕には、この気持ちを抑えられる自信が、ないんだ。
触れると壊れてしまいそうな小さく震える肩に、恐る恐る手をかけた。
一瞬、身体が反応し、まだ涙に濡れる瞳で、君は僕を見上げた。
僕は、その瞳に引き寄せられる。
「さん…こんなこと言って、ごめん……聞き流してもらって、構わないんだけど…。
できたら…その……もう少し、いてもらえないか…な…。」
その途端に、君は大きく瞳を見開いた。
驚きの混ざる視線に、僕は自分の愚かさを知った。
もう、お終いだ…僕は、もう君にとっての『いい人』ですら、いられない。
後悔に、息が詰まりそうになる。
「ゴメン!…僕は、何を言ってるんだろうね。一人暮らしの男の部屋に、連れ込むみたいなマネ……。
今の、忘れて……タクシー呼ぶから……。」
それでもまだ、君を引きとめようと、いい人を演じる自分を嘲笑う。
君の肩から離した手を、掌に爪の跡がくっきりと残るほど、堅く握りしめた。
涙混じりの君の瞳から視線を逸らして、部屋へ上がろうと振り返った僕は、急な眩暈によろめいた。
倒れこむと思った瞬間に感じたのは、僕を包み込む暖かくて柔らかな、君の温もり。
「まだ、一人で歩くのも大変なのに、置いてなんて行けないです。だから……。」
胸元で見上げる君の瞳を、焦点の合わない目で探した。
君の濡れた瞳が、じっと僕を見つめる。
「もう少し、側にいさせてください…。」
僕は、その瞬間に何かが崩れていくのを感じた。
本当に、君は…何を言ってるのかわかってるの?
君が触れている部分から、感じる熱は冷めることはない。
身体中から、溢れる熱に、感情が追いつかない。
ただ、視線だけが、君を求めて、他を映すことを止めた。
きっと僕は、熱に浮かされているんだ。
熱に飲まれて、朦朧としていくまま、君を求めて。
そんな僕を、君は受け入れてくれるだろうと、冷めない熱に、飲まれていく。
END
<2006.7.18>
カズさんが、本当に別人になってます。
こんなに黒い(暗い?)カズさんになるとは、
思いもしませんでした。
ただ、ちょっと葛藤があったら、いいなぁ…
と、そのくらいだったはずなのに(汗)
書き直すかもしれないけど、とりあえずあげます(-_-;)
今さらだけど、ゲーム中のカズさんの愛車って、
白シビックなんですよね。
でも、うちでは黒シビで、許してもらえると嬉しい(苦笑)
戻る