※「あ〜わ 頭文字お題<台詞編>」より。
あの暑い夏から、もう7年になる。
中学から付き合ってきた彼は、高校のうちから家業である寿司屋で修行していた。
私はその頃から、少し早めにあがる定休日の前日だけ店の手伝いをさせてもらって、閉店後に家まで送ってもらっていた。
定休日くらいは、彼にゆっくりしてて欲しいし。
メールは頻繁にしてたけど、学校が違う私達が一緒に過ごせるはそのくらいで、だからこの日は私にとって貴重な日。
お互いに高校を卒業して、彼が本格的に修行に入り、私が会社に勤め始めた今でも、それは続いている。
常連のお客さんにも顔馴染みになって、今ではすっかり看板娘だ…と自負してる。
今日も、そんな定休日前。
客足も途切れて、今日はそろそろあがろうかという雰囲気の中、店の引き戸が遠慮がちに引き開けられた。
「イラッシャイ!」
「いらっしゃ…え……君、は…。」
いつもなら、親方と一緒に威勢よく掛けられる声が途切れたのを不思議に思い、入り口に視線を向ける。
そこには、高い身長を窮屈そうに屈めてそっと暖簾をくぐる、若い男性客の姿があった。
彼は、その男性客に向かい、懐かしそうに瞳を細める。
私も、どこか見覚えがあると、記憶を辿った。
「お久しぶりです、河村さん。お元気そう…ですね。」
「うん、君もね。石田くん。」
お茶とお絞りの用意をしていた私は、二人の会話に出てきた名前に、思わず身体が強張った。
あの夏の、記憶が、蘇る。
怪我が多い彼だったけど、あんなに痛々しい姿はあれが最初で最後…そして、もう二度と見たくはない。
でも、ここにいる人物は、記憶の人物よりも穏やかな印象の、あの時とは別の人。
「オレ…自分の金で寿司が食えるようになったら、河村さんの店に行こうって、ずっと思ってたんです。」
「え!そうなの?そんなの気にしないで、いつでも来てくれていいのに。」
ここには、彼の後輩や顔馴染み達が、よく食べに来ている。
お寿司屋さんといっても、身構えるほど敷居は高くない。
それは、親方や彼の人柄にも、よるところだと思う。
「あの…河村さんは、もう……あれから、テニスは……。」
「…うん、してないよ……あれが、最後だ。」
お茶を置く私の手元が震えて、カタリと音を立てた。
彼は、少し寂しげな笑顔を見せた。
してない、のではなく…できない、のだから……。
****
あの試合の後、彼はすぐに病院へと連れて行かれた。
簡単な治療を済ませて、仲間の試合を応援したい、と彼は願ったけど、監督も仲間も何よりもまず彼の身体を心配した。
それほど、あの試合は激しくて…あまりテニスに詳しくなかった私は、何度も叫びそうになった。
もう、やめて!こんなのは、スポーツなんかじゃない……テニスに見せかけた、ただの暴力だ!って。
審判のゲーム終了のコールに、もうこれ以上、彼は傷付かなくてもいいんだと、どれだけ安心したかわからない。
あんなに鍛えていた彼の身体は、あの試合だけでぼろぼろになっていた。
腕の筋や、肘のじん帯は、もう少しで断絶寸前までいっていたという。
ボールが当たった身体中は、内出血で赤黒く腫れあがっていた。
こんな身体でよく試合が続けられたと、お医者さんが驚いていたくらい、酷いものだった。
彼の腕は、感覚が戻るまで暫らく治療が続けられた。
それは、ラケットを握るのはもちろん、寿司を握る大事な感覚までもが、失われた状態だった。
普通に生活する分には不自由は無いかもしれないけど、テニスの次に大切な寿司職人になるという夢が叶えられないかもしれない。
あの試合から、彼が腕の感覚を取り戻すまで、大変なリハビリが続いた。
私は、彼が辛いリハビリに、弱音も吐かず懸命に取り組む姿を、側で見ていることしか出来なかった。
歯痒くて、ならない…何も出来ない、自分が。
それなのに、そばに置いてくれる、彼の優しさに甘えた。
だから、この時の彼の姿を忘れない…もう二度と、彼には傷付いて欲しくない。
彼が辛いリハビリに耐えた甲斐もあってか、寿司を握る微妙な感覚も取り戻すことが出来た。
だけど今でも、冬の冷える時期や、長時間の力仕事の後には、古傷が疼くのか、顔をしかめる時がある。
体温が上がると、うっすらと傷が浮かび上がる時がある。
たまに、そっとラケットに触れているのを……本当は、まだテニスがしたいと思ってるのを、私は気付かないふりをする。
****
「おう、隆。久しぶりに懐かしい顔に会ったんだろ。もう、店を閉めるから、後は任せたぜ。」
「え?親父…いいのかい?」
「あぁ、もう今日は、客も来ねぇだろう。ちゃんも、ゆっくりしていきな。」
「あ、閉店時間なら、もうオレ…。」
「いいからいいから。まだ見習いの握りだし、残り物で悪いが、味見してやってくんな。」
いつの間に店じまいをしていたのか、親方は彼に後をまかせると、いつもの人の良さそうな笑顔で奥へと消えた。
後に残ったのは、私達三人だけ。
彼が、石田くんとゆっくり話すこともあるかと、私も席を外そうとしたけど。
「ちゃんも、嫌じゃなかったら、一緒にどうかな。」
「えぇ、是非…。」
彼も石田くんも、そう言ってくれたし。
「まだ、未熟者だけど、お任せでいいかな?」という言葉に甘えて、私もカウンターに座る石田くんの隣に腰掛けた。
カウンターの奥でネタの準備をしている彼に向かい、石田くんは、カウンターに額が付いてしまうほど俯いて、ゆっくりと口を開いた。
「あの…突然来て、なんですけど…どうしても聞きたいことが、あったんです…。」
「え?なんだろう?」
作業の手を止めて、彼が顔を上げた。
石田くんは俯いたまま、言葉にするのを躊躇っているようだった。
そして、気持ちを決めたのかすっと顔を上げると、彼を見つめておもむろに…。
「どうして、あんな試合が、出来たんですか…。」
どうしても聞きたいと言いながら、でもとても聞きづらそうに、石田くんは唇を歪めた。
冷房がかかっている店内は、外の暑さを忘れてしまいそうで。
辛うじて、エアコンの稼動音が、人工的な冷風を存在を知らしめる。
低く唸るその音が、いつもよりも大きく聴こえた。
「えぇっ!ちょっと、待って!あの…どういうことなのかな?」
「あの全国大会以降、河村さんは試合に出なかった。
桃城から、河村さんがテニスを辞めたって聞いたのは、ずっと後からで…。」
「そう…だったんだ。」
「もともと、波動球を連続的に使うことだけでも、腕には相当の負担になったはずです。
もとはと言えば、オレの使った波動球が発端のようなもので…。
それに、兄とのあの試合…あんなに波動球を使わなければ、河村さんが腕を壊すことはなかった。
まるで、オレ達兄弟が、河村さんからテニスを奪ってしまったみたいで…。」
「それは、ちょっとちがう、かな?」
「え?」
「そんなこと、考えてもないよ。俺の方が、勝手に波動球を使ってしまっただけなんだ。」
彼は、困ったように眉尻を下げて、微笑んだ。
それはあの時、彼の側で泣く事しかできなかった私が、安心した顔と同じだった。
「大丈夫だよ。」って、言ってくれた時と、同じ顔だ。
不安そうな石田くんを見つめて、彼は言葉を続けた。
「俺は最初から、あの試合が最後の試合だって、決めてたんだ。」
「あれが、最後…ですか?」
「…うん…もともと、中学を卒業したら、寿司屋の修行に専念するつもりだったしね。
だから、あんな試合が出来たんだよ。あんな、後先考えないほど無茶な試合を…。」
「桃は、説明不足だよな。」と、苦笑する。
彼の表情は、あの頃を懐かしむような、遠く想いを馳せる笑顔だった。
「俺には、技術的な腕は殆ど無くて、出来る事と言えば、力で押すことだけだったから。
そんな俺を、あの場面で使ってくれた皆の気持ちに、なんとしてでも答えたかった。」
石田くんは、神妙な顔で聞いていた。
「君のお兄さんは、本当に強かったよ。
何度打っても返ってくるボールを見ながら、これで終わるのかな…って、思った。
試合をしてる間中、ずっと…自分のテニスがこんな終わり方で、それで納得するのか考えた。
ここで打ち返さなければ、そのまま終わり…でも、打ち返せば、まだ続けられる…。
亜久津の喝も効いたしね…だったら、後悔できないほどの試合を、してやろう、って思った。
じゃないと、チームの皆にも…俺自身にも、顔向けできないから。」
私は、テニスを辞めてから彼があの試合の話をするのは、初めてだと気付いた。
もしかしたら、彼は私の前では意識的に、その話題を避けていたのかもしれない。
あの試合から、テニスの話をすると不機嫌になる私に、彼はきっと気付いてる。
少しの間の後、私の方にちらと視線を向けると、気まずそうに目を伏せた。
あまり、私には聞かせたくないのかもしれない。
「もし、まだテニスを続けていくつもりだったら、あんな試合はしなかった。
あの試合で無理をしてわざわざ怪我をしなくても、次があるって諦めたと思う。
あれが最後だと思ったから、身体なんて壊れてもよかった…それでも、勝ちたかった。
最後の方は殆ど朦朧としてたけど、頭の中には、それだけしかなかったんだ。」
彼は、とても穏やかな顔で、そう言った。
そう…普段の姿からは想像もつかないほどの強い闘争心で、彼はあの試合に臨んでいたんだ。
でも、壊れてもよかったなんて…そんな悲しい事言わないでほしいのに。
多分、とても情けない顔をしている私の頭を、彼の暖かい手がカウンター越しに優しく撫ぜた。
本当に、敵わない…彼の、この想いの強さには。
私の隣で、石田くんが大きくゆっくりと息を吐いた。
「やっぱり、すごいです…オレ、河村さんの話を聞いて、はっきりわかりました。
オレが兄に勝てなかったのは、実力だけじゃなくて、勝とうって気持ちが足りなかったからなんだって。
兄には敵わないって気持ちが、心のどこかにあったんだと思います。
最初から、諦めちゃダメだったんだ。オレにも、それだけの覚悟があれば…。」
「ダメだよ!あれは、あの時の俺の立場だから出来ただけで!
もし、君がそんなことしようとしたなら、俺は全力で止めていたよ。」
彼は、石田くんの言葉に慌てて身を乗り出した。
そのあまりの慌てように、石田くんも私も顔を見合わせて、思わず吹き出してしまう。
「ま、まぁ、適当に握るから、食べてよ。」って、取り繕う彼が、眉をハの字にして照れ笑いした。
それから私達は、懐かしい名前を並べて近況を話したりした。
石田くんが、彼が握ったお寿司を本当に美味しそうに食べるのを見て、私も嬉しくなった。
「今日は、突然で…すいませんでした…それに、ありがとうございました…。
本当はこんなこと、今さら蒸し返すなんて失礼だと思ったけど…河村さんの話が聞けて、本当によかった。
寿司も、すごいうまかったっすよ!また…食べに来てもいいですか?」
「もちろんだよ!また、いつでも来てよ。」
帰り際、そう言いながら何度も振り返って頭を下げる石田くんを、二人で見送った。
店内には、洗い物をする彼と、後片付けをする私のたてる音だけが、響いた。
ふと、声を掛けられたような気がして振り向くと、台所で手を止めて俯く彼の姿。
「あのね、ちゃん。さっきの話なんだけど…続きが、あるんだ。」
「続き?」
「うん…聞いて、くれるかな。」
その表情が辛そうだったから、私は聞かないほうがいいかとも感じたけど。
石田くんに話していた彼を見て、心の中にしまい込んでいた小さな棘がずっと疼いていたんじゃないかと思った。
話すことでその棘が抜けて、彼が楽になれるなら、私はもう逃げてはいけないと思った。
黙って頷いた私に、彼は切なげに微笑んだ。
「石田くんに言ったことは、本当だよ。
あの時、俺は、本当にこの腕を失っても、勝つためならいいと思ってた。
でもね、心の裏側では、腕が壊れてしまえば、負けてしまってもしょうがない…テニスが続けられなくても当然だ。
周りの皆はそう思ってくれるだろう、俺もテニスを辞める踏ん切りがつく、って…そんなことも、考えてたんだよ…。
…軽蔑…するかい?こんな、情けない俺なんて……。」
なんで、そんなことできる?軽蔑なんて、するはずがない。
今まで私は知らなかった…彼がそこまで考えていた事…こんなに身近にいたのに、ずっと口に出せなかったこと。
情けないのは、軽蔑されても仕方ないのは、それを知るのが怖かった私の方だ。
ごめんね、弱虫な私で…そんな私に、打ち明けてくれて、ありがとう。
「ねぇ、隆くん…今日は、飲もうよ…。」
「え?」
「うん!飲みまくろ〜!」
それで、弱い私にさよならするから。
だから今日だけ、いいかな…?
「ちゃん、明日も仕事じゃなかった?」
「明日は、ダメ人間になる覚悟、出来てるから。」
そう言う私に、しょうがないなぁ、と苦笑いしながら、彼はグラスに注いでくれた。
カツンと合わせたグラスの中で、透明な液体がゆらりと光を反射した。
ねぇ、隆くん…私はもっと、強くなるから…そしたら、いつでも弱音を吐いて。
隆くんが辛いことを、私にも分けてね。
カウンターに潰れてしまった私は、すっかり夢の中にいて。
遠くから微かに聞こえる彼の言葉は、私を赤面させるのに充分効果的。
「ねぇ、ちゃん…そう遠くないうちに…こうやって毎晩差向かいで、一緒に飲めるようになるといいね。
俺さ、早く一人前になって、親父に認めてもらえるように頑張るからさ。だから…。」
「それまで、待ってて、くれるかな…。」
私の顔が赤いのは、お酒の酔いのせいだから。
そいうことに、しておいて…。
夢うつつ、そうして私は、また夢の中。
目覚めた隣には、きっと彼の寝顔。
END
<2007.3.7>
あの試合が終わってから、7年後のタカさん。
きっと、立派な寿司職人になっていることでしょう。
怪我は、多少オーバーにしてしまいました…(-_-;)
そして、激しくキャラを間違っている…(苦笑)
でもねぇ、どうしても新入社員な石田くんを出したかったんですよ。
多分、彼等はこんなに情けなくは無いと思うけど…。
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