大学入学を機に、やっと念願かなっての一人暮らしをする事になった。
いろいろな物件に迷い、ようやく気に入った部屋を見つけた俺は、これから始まる新しい生活への期待で一杯だった。
引越しの手伝いに来てくれた友人達が帰ったあとのこの部屋は、雑然としているが俺だけの城なんだと実感した。
とりあえず大まかに荷物を振り分けて、寝室に布団を敷くだけのスペースを確保すると、そこにゴロンと横になる。
天井を見上げて一息つくと、引越しの疲れからか急に激しい睡魔に襲われていた。
気がつけばここは自分の部屋で、時間を確認しようと手を伸ばした携帯は、もう夜半の時刻を示している。
どうやら横になってすぐに、ぐっすりと眠り込んでしまったらしかった。
こんな夜中に物音を立てるのも気が引けて、なるべく音を立てないようにダンボールの中から毛布を引きずり出すと、俺はすっぽりと包まって
また眠りについた。
何をどこに配置しようかと、部屋の構図を思い浮かべてイメージをめぐらせながら…。
大学生活が馴染んでくると同時に、この部屋での生活も落ち着いてきた。
実際、この部屋は立地条件も環境も申し分なく、何不自由なく暮らしていた…はずなのだが…。
一つだけ、どうしても気にかかる部分があった。
それは、寝室の壁に出来た小さなシミだった。
最初は気付かないほどの小さなシミだったが、だんだんとはっきりしてくるようだった。
一瞬、これってヤバイ物件なんじゃ…って考えが頭を過ぎったけど、然程年数が経っているわけでも、極端に家賃が安いわけでもないし、
暮らしていればシミぐらいできるだろうと気にしない事にした。
いつの間にか俺は、寝室を避けるようになっていた。
布団をリビングに運び込んで、ソファーで眠る日が続いた。
夜になると窓から入り込む街灯の明かりが、ぼんやりと寝室の壁を照らす。
そのささやかな灯りに浮かび上がるシミは、最初に見つけた時よりも確かに広がっていた。
まるで、バケツに入ったペンキを思い切りぶちまけたような…壁に叩きつけられた頭蓋が血を飛び散らしてズルズルと崩れ落ちたような…
そんな嫌なイメージを連想させるようだった。
大学に入ってすぐに、俺にも彼女なんてのができたりして。
最近の寝不足気味な俺を心配して、彼女が部屋に来てくれた。
彼女が来たことで憂鬱な気分も幾分晴れて、あのシミの事なんかすっかり忘れていたんだ。
「閉め切ってると、空気が悪いぞ!」なんて言いながら寝室の窓を開けた彼女は、シミの事なんて一つも口にしなかった。
彼女の視界には、あのシミなんて存在しないかのように。
実際、彼女がいる間、俺もあのシミが視界には入らなかった。
やっぱり、街灯の灯りの加減でそう見えるだけなんだ…そんな風にまで思えるようになっていた。
外で食事を済ませて彼女を送り届け、俺は一人部屋に戻った。
明かりも無く真っ暗な闇の中、街灯に照らし出されて寝室の壁だけがぼぉっと浮き上がる。
瞬間、背筋が凍りついた。
どうしてあれほどはっきりとしたシミが、目に入らなかったのか!
そこに浮かび上がったのは、薄い壁の色とくっきり区切ったように、はっきりとした輪郭を持ったシミ…。
たった今付いたばかりの、まだ血液が滴っているような、それほどのリアルさを持ったシミ…。
俺は無意識に、そこから離れようと後ずさる。
震える足元が覚束ず、もつれそうになる足を引きずらせ、この部屋から逃げ出そうとしていた。
やはり、この部屋は、なにか、やばい…!
頭の中で、警鐘が鳴り響く。
後ずさる背中が、何かにぶつかった。
背後に、何かの気配を感じる。
そこから感じるのは、とてつもなく不快なものだった。
付き当たるには、まだ距離があったはず…途端に、身体が硬直する。
振り向いてはイケない…後ろを見てはイケない…頭ではそう思っても、身体は自然と後ろを振り返り……。
!!
そこには、ヒト型をしたゆらゆらと蠢く闇が、俺を見下ろすように立ちはだかっていた。
口と思しき部分が、俺の恐怖感を煽るように、ニタリと三日月型に歪んだ。
徐々に覆い被さってくる闇が、俺の身体に纏わり付いてくる。
…このままでは呑まれてしまう!
俺は、無我夢中でその闇から逃れた。
それは、寝室の、あのシミの前に再び戻ってしまうという行為だった。
闇は愉しげに一層口元を歪ませ、壁のシミはいまだに血を滴らせている。
逃げ場のない恐怖にへたり込んだ俺は、声にならない叫びをあげていた
これは、夢だ…嫌な、夢だ…夢から覚めて、ここから出るんだ…。
闇雲に両手を振り回し、迫ってくる闇を追い払おうと足掻いた。
座りこんだまま後ずさり、だんだんと壁まで追い詰められる。
不意に、身体を支えていた手が、空を切った。
バランスを崩した俺は、勢いのまま後ろへ仰け反った。
そこにあるのは、あの血を滴らせた壁だった。
後頭部に、衝撃が伝う。
俺は、その時瞬時に理解した。
なんだ…そうだったのかよ……。
目の前の闇が、俺を見下ろして満足そうに、口角を上げる。
その、裂けた口元から、深紅に染まる鋭い牙が覗いた気がした。
俺の身体が、ズルリと滑り落ちる。
壁に残されたのは、ベットリとこびり付いた、赤黒い血の跡。
それはちょうど、あの街灯に照らされ、浮かび上がったシミと同じ場所。
消えかかる意識の端で、俺は嘲笑を浮かべる。
あれは、前に何かがあったんじゃなくて……。
――― これから俺に起こる事だったのかよ……。
俺が最期に見たのは、目の前に迫る闇の中から、ギラリと覗く妖の瞳だった。
END
2006.7.28
前半を書いてから、1年以上も放置していたものです。
前後で文章が変わっていたら、ごめんなさい(笑)
どうして放置してたのかは、不明です。
あまりの救われなさに、悲しかったのかもしれない。
その割には、あまり意味がわからないようだけど(苦笑)
まぁ、壁のシミとかは、過去にあった何かばかりじゃなくて、
これからの事かもしれないよ、という話、ですね。
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