3月になると日も長くなり、ふと時計を見上げて初めて終業時刻に気がつくということが多くなった。
だが、年度末で決算時期ということもあり、その時間に帰ることはまず無理だろう。
それとは別に、しばらく頭から離れない案件に悩まされて仕事の効率が落ちている中里には、残業しなければこなせないほどの
書類の束が残されていた。
今日もまた、残業覚悟で一服入れる。
さっさとこなして「お先!」と声を掛けながら帰る同僚を横目で見ながら、大きく煙を吐き出した。
集中している間は考える事も無いが、気をぬいた途端によみがえるあの日のこと。
……慎吾の行動。自分の行動。
思い出すだけで体に震えが来るほど、鮮烈な出来事。
全てがアルコールの勢いで起きた、気まぐれなゲームだと思いたかった。
いや、本当にそれだけだったのかもしれない。
その証拠に、次の日の慎吾は何事も無かったように帰っていった。
「あ〜ぁ、ヤローと飲んでもおもしろくもねえ。帰って寝なおそ…。」
そんな捨て台詞まで残して行ったのだ。
前夜の、あの、挑発的な慎吾と同一人物とは思えないぐらいにあっさりと。
あれが本当の慎吾だとしたら、やっぱりからかわれていただけだったんじゃないか。
それを真に受けて、俺が…その気になったものだから、かなり飲んでいたのも手伝って、引っ込みがつかなくなっただけなんじゃ…。
だとしたら、なんて事をしでかしたんだろう!
そんなことばかりが頭の中をよぎり、血の気が引いていく。
あれからひと月ほどたったが、慎吾には会っていない。
次に会った時の慎吾の反応が、自分の反応が…恐かった。
講堂は大きめの窓から降り注ぐ春先の陽光に温まり、マイクを通して響く教授のつまらない講義を子守唄代わりに学生達はまどろんでいる。
そのなかに、ぼんやりと窓の外を眺めている慎吾の姿もあった。
眠気は感じなかったが、教授の声は届いてはいなかった。
最近あまり眠れないのは、目を閉じると生々しく思い出される感覚が、慎吾の眠りを妨げているからだ。
かすかに触れただけだった。
なのに…少しかさついた感触、整髪料の香り、強い視線……煙草の匂い。
一月程たった今でも、はっきりと覚えている。
そして、夢の中にはあの時以上に求めている自分がいるのだ。
その度に、気が遠くなりそうだった。
「庄司、今日の飲み会出るだろ?いや、出てもらわにゃ困るんだけどよ。」
講義が終わり、慎吾のもとに仲間が集まってくる。
今日の飲み会には、どうしても慎吾に参加してもらわなければならない理由があった。
バレンタイン、彼は後輩から慎吾にチョコを渡して欲しいと頼まれた。
その後輩が友達を連れてくるから、慎吾も交えた合コンを企画したのだ。
肝心の慎吾が来なければ、なんの意味も無い。
せっかく彼女達を紹介してもらうチャンスなのに!
折りしも、ホワイトデーの時期。
彼女のチョコを受け取った慎吾に、有無を言わせるつもりも無かった。
洋風のメニューを揃えた居酒屋で、慎吾の隣についたのが彼女だった。
それほど広くはない席で、自然と体が触れる。
飲物が無くなれば頼んでくれるし、食べ物が運ばれれば取り分けてくれる。
煙草を出せば、灰皿を差し出す。
彼女は甲斐甲斐しく慎吾の世話をやいた。
容姿だって申し分ない。笑顔が魅力的だ。
今までの慎吾なら、自分に好意を抱いている相手だし、一度くらい抱いてもいいか。
気が合えば、しばらく付き合うし。
飽きればそれでサヨナラ…そう思ったはずだ。
「ねぇ、慎吾さん?」
彼女の甘ったるい声が、自分の名前を呼ぶ。
その声で呼ばれる自分の名は、何故か他人のような気がした。
妙に媚びた、ねっとりと絡みつく声…今聞きたいのはこれじゃない。
(もっと鋭く、貫くような…)
返事が無いので彼女は顔を覗きこもうとする。
すると自然に慎吾の腕のあたりを柔らかい感触が包む。
その感触は、ずぶずぶと沈み込んで行く底の無い沼のように、体中にまとわりつく。
寒気が、していた。
(柔らかさの欠片も無い、逞しくてしなやかな…)
彼女が慎吾に近付けば近付くほどに、慎吾の意識はこの場から飛んでいた。
今の自分が一番欲しいものは、こんなに甘く、柔らかいものじゃない。
自分のいる場所は、ここじゃない。
―峠に、行きてえなぁ…。
仲間達の騒ぎ立てる声が、どこか遠くのほうから聞こえてくるようだった。
「これからどうする?カラオケでも行かねえ?」
それぞれ意気投合した彼らは、このまま2次会のカラオケになだれ込むらしい。
だが、慎吾はその気にはなれず、このままばっくれようと思っていた。
「慎吾さんは、行かないの?」
みんなについて行こうとした彼女だが、慎吾が離れたことに気付いてその腕を取った。
身長差のある慎吾を見つめる上目使いの瞳は潤みがちで、首を傾げる度に揺れる髪からシャンプーの香りが漂ってくる。
その全てが女である象徴が、只々鬱陶しかった。
「庄司!まさか、これから走るわけじゃないだろうな?」
「え?慎吾さん、走りに行くんですか?私も連れてってください!」
その彼女の言葉で、慎吾の心の中の何かが弾けていた。
(飲んでる奴の車に乗せろって!奴ならこんなこと許さねえ。)
それまでの慎吾には、考えられない事だった。
ノリでドライブにでも行っていただろう。
だが、今の慎吾にはこの無神経な彼女の言葉を許すわけにはいかなかった。
慎吾の中に、嫌になるほど真面目で誠実な男の姿が浮かんだ。
慎吾は、彼女の髪を静かに梳いた。
優しくなでながら、ゆっくりと顔を近づける。
彼女はほのかに頬を染め、じっとされるままにしていた。
そっと抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。
彼女が息を呑むのを感じる。
フッ、と息をつき、囁いた。
「…そんなに乗りたいんなら……族野郎の上にでも乗ってな!」
「………!」
一瞬で、彼女の顔色が青ざめた。
そして見る間に怒りに逆上し、顔を紅潮させる。
パシーン!
甲高い音を響かせて、慎吾の頬を平手打ちする。
彼女は体中を震わせて、慎吾を睨み付けていた。
その瞳からは、とめどなく涙が溢れ出す。
彼女にとって、男からこんな屈辱的な仕打ちを受けたのは、初めてだった。
わっ、と泣き出す彼女を振り返ることもなく、慎吾はその場から立ち去った。
背中から、女友達の心配する声や、仲間の自分を呼ぶ声が聞こえるが、そんなものは無視した。
早くこの人ごみの中から抜け出したかった。
―峠に…行きてえなぁ…
本当にそう思った。
耳に突き刺さるエンジン音、タイヤの軋み、硬質なボディー。
その中に感じるあの男の声、視線、存在…。
誤魔化しきれないほど、あいつを求めている自分に気付いていた。
あの日、かすかに触れた唇が、熱を帯びている。
思い切り拭ってみても、その事実は消える事は無い。
そう思うと、体が締め付けられるようだった。
――峠に…あいつに……
頭の中を占めているのは、ただその言葉だけだった。
END
バレンタイン、その後です。
最低な男ですね、慎吾…女の敵です。
こんなんで、いいんだろうか…(-_-;)
ホワイトデー物のつもりだったけど、2人は会ってもいないし。
まだまだ先は長そうです。
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