Don’t Stand so Close 1



慎吾は走っていた。
どうして、こんなに走らなければならないのか、慎吾自身にもわからない。
ただ、身に覚えの無い理由から、自分を追ってくる奴等がいるから。
追ってくる連中は、この辺では相当性質の悪い連中だ。
慎吾もこの辺りで粋がってはいたが、こいつらに目を付けられるほどヤバいことまではしていなかったはずだ。
だから、何故こいつ等が自分を追ってくるのかもわからずに、走り続けてた。
切れそうになる息、もつれそうになる足、何度も立ち止まろうとしたが、その都度見え隠れする奴等の姿に、慎吾は走り続けるしかなかった。
雑踏の中、薄暗い路地に入り込み、ゴミにまみれて身を隠した。
追っ手は大声でがなりたてながら、人込みの中に紛れて行った。
その声が遠くまで過ぎ去ったのを確認して、慎吾はやっと大きく息を吐いた。
両手が、震えている…手どころか、体中の震えが止まらない。
言い知れない恐怖を感じていた。
自分の知らないところで、何かが起こった。
そして自分は、追われている。
無意識に、笑みが零れていた。
 「ハッ…ハハハ……アハハ、ハ――」
だんだんと、声を上げて、次第にそれは、嘲笑に変わった。
何してるんだ、俺?こんな薄汚い場所で、人目を避けて、怯えて身を隠して。
惨めで、情け無くて…笑えてくる。
これから、どうなるんだろう。
この先のことを考えようにも、何も考えられなかった。
頭に浮ぶのは、先の見えない、恐怖だけ…。
慎吾は、その薄汚い暗闇の中で、堅く膝を抱えて、時が過ぎるのを待っていた。

****

早朝になり、深夜に暮らす連中が身を潜めた頃、慎吾は路地を抜け出して走り出した。
行き先は、いつもつるんでいた相棒のところへ。
もしかしたら、あいつも追われているかもしれない。
無事であればそれにこしたことはないし、あいつとならこの状況を何とか出来るかもしれない。
あいつと一緒なら、どんな時でも切り抜けられる。
俺達はいつも、そうしてきた…俺は、一人じゃない。
慎吾は、相棒のマンションの近くまで来て、辺りを見渡した。
ここに来るまで、追っ手の気配は無かったし、この辺りにも見当たらなかった。
信じている相棒がいると思ったから、気が緩んでいたのかもしれない。
 「な…んだよ、これ……。」
部屋のドアを開けて、慎吾は唖然とした。
今までの見慣れた風景は無く、ただガランとした無機質な空間が拡がっていた。
家具も、何もかもが、消え去った部屋。
慎吾は、なんの疑いも持たずに、ゆっくりと部屋に入り込んだ。
ダイニングに入った時、物陰に人の気配を感じたが、もう、その時は遅かった。
いきなり頬に鈍い衝撃を受け、床に倒れ込んだ。
声を上げる間もなく、次打が腹部めがけて繰り出された。
息が詰まり、痛みに身を屈める慎吾の背中に、肩に、脚に、容赦なく攻撃が続く。
自分を追っていた奴等は、こんなところで待ち伏せしていたのか。
じゃ、あいつはどうなったんだ!無事なのか!
どうして、俺達がこんな目に…?
相棒の身を案じながら、必死に頭部を庇う慎吾の耳に、聞き覚えのある男の声が響いた。
 「いいザマだよなぁ、慎吾ぉ。」
ずっと、何をするのも、一緒だった…ずっと、信用していた…ずっと、ずっと……。
―― その声は、あいつだった…。
頭の中に浮ぶのは、どうして、という疑問。
裏切られた痛みと、悲しみと、恨みと、寂しさと、徐々に溢れてくる感情に、慎吾の意識 は押し潰されそうで。
 「オレが、頼んだんだよ。いい加減、お前とつるむのもウンザリしてたしさぁ。」
遠退く意識の中に、男の声が微かに流れた。
そのうち慎吾は、プツリと、意識を手放していた。

****

慎吾が気が付いたのは、見たことも無い部屋だった。
身体中が、身動きするたびにギシギシと音を立て、激しい痛みに声をあげそうになる。
隣の部屋に誰かがいたらしく、こっちに来る気配がした。
まだ、自分の身に何が起きて、何故ここに自分がいるのか。
下手をすれば自分が何者かも考えられないほど、慎吾の記憶は希薄になっていた。
思い出そうとする行為を、無意識に拒否しようとしているようだった。
 「気が、ついたか?」
声の方を向くと、隣の部屋から心配そうに覗き込む、男の姿があった。
外から帰ったばかりなのか、外したネクタイを手にしたまま、近づいてくる。
慎吾は、男が近寄ってくるにつれ、身体を強張らせた。
そうする度に痛みが走り、辛そうに表情を歪める。
 「無理すんな。ひどい怪我だったんだぞ。」
ゆっくりと、出来るだけ静かに気遣いながら、男は慎吾が横たわるベッドの脇に座った。
まだ警戒心を解いていないのか、噛み付くような視線で見つめられ、男は苦笑いを浮かべる。
 「まぁ、最初は死んでんのかと思って焦ったけど、気が付いてよかった。」
そう言って、慎吾の様子に安心したように、また男は部屋を出て行った。
男の言葉を思い起こして、改めて自分の身体を見てみた。
ひどい怪我…この痛みはその所為か。
肋骨も何本かイッているみたいで、呼吸するたびに胸元がキシッと痛んだ。
口の中の、鉄錆のような味が無くならない。
多分、出血が止まらないのだろう。
だが、致命的となる傷は適切な処置が施されている。
これは、あの男が…。
あの男は、何者なんだ。

****

 「お粥さん、作ったけど、食えるか?…つか、少しでも食っとけ!
  化膿止めのクスリ、飲まなきゃならねえから。」
ラフな格好に着替えた男が、まだ白い湯気を立てている一人用の土鍋をお盆にのせて、そろそろと部屋に入ってきた。
慎吾は男の方を見ずに、傷でまだ引き攣る唇に顔を歪めて、聞いた。
 「お前…誰だよ。」
その男は、サイドボードにお盆を置いて、今、やっと気付いたという様な顔をした。
 「あぁ、悪ぃ…俺は、中里毅だ。そこらのリーマン、ってとこかな。」
慎吾は、この中里と名乗る見知らぬ男に警戒し、そのまま一言も口を聞こうとはしなかった。
だが中里も、無理に聞く事はしなかった。
 「少しでも、食べとけよ。隣にいるから、痛むようなら、声かけろ。」
中里がそう言って出て行くと、また部屋は静けさに包まれた。
慎吾は、久しぶりに、大きく息をしたような気がした。
気分が落ち着いてくると、徐々にはっきりとした記憶が蘇ってくる。
最期に聞いた、あいつの言葉。
サンドバックのように殴られ続ける俺を見ながら、せせら笑う声。
それが、耳にこびり付いて離れない。
ギリッと奥歯を噛み締めると、また新しい鉄臭さが口の中に広がり、薄っすらと唇を紅く濡らした。
あいつを信用していた自分に、腹が立つ…もう二度と、誰も、信じたりしない。
この中里という男が、奴等の仲間じゃないという、保証は無い。
もう誰も信じない…あんな思いは、もうしない。

****

どれくらいの時間が過ぎたのか、多分もう深夜になっているのだろう。
周りから微かに聞こえていた生活感を感じる音は消え、耳鳴りがするほどの静かな空間に慎吾の荒い呼吸だけが響いていた。
眠りそうになると思い出したように痛みが蘇り、その度に慎吾は小さく声を上げる。
浅い眠りにうつらうつらとしていると、隣の部屋から静かに近づいてくる気配があった。
 「…眠ったのか?」
中里の言葉に、慎吾は答えなかった。
意識は残っていた…目を閉じたまま、何も言わずにいた…何か仕掛けられたら喉元に噛みついてでも抵抗してやるくらいの殺気をこめた。
 「やっぱ、まだ食えねえよな。」
中里は苦笑交じりに、小さく呟いた。
サイドボードには、すっかり冷めてしまったお粥がそのまま残っていた。
不意に、慎吾の口元に濡れた布の感触がして、傷の痛みと警戒にビクッと身体が反応した。
 「大丈夫だ…じっとしてろ。……ったく、野良犬みてーだな、お前…。」
乾いてこびり付いた口元の血をそっと拭き取りながら、中里は宥めるように声をかける。
慎吾には、中里の真意がつかめなかった。
どうして、こんな傷だらけの野良犬同然な自分に、こんな世話を焼くのだろう。
今のところは奴等との繋がりは感じられないが、裏があるのかもしれない。
まだ、気を許すな…信用するな…そう自分に言い聞かせながら、それまでの緊張感と疲れからか、慎吾はゆっくりと眠りに落ちた。

****

ブラインドが降ろされた窓から、線条に朝日が射し込む。
瞼に明るさを感じ、慎吾は薄く目を覚ました。
身体中が鉛のように重く、血液が脈打つ間隔と一緒にズキズキとこめかみが痛んだ。
視線を巡らせばここはどこかの部屋のようで、とりあえずまだ生きているのだと思った。
視界の端に誰かの影が掠めて、痛みを堪えてもう少し目を向けると、壁に凭れて座ったまま寝ている男の姿があった。
この男は?…と考えて、昨夜のことを思い出す。
 「…お前……な、んで……。」
寝起きと傷の痛みにかすれる慎吾の声に、身じろぎながら短く呻いて、窮屈だった身体を伸ばすと、中里の関節は悲鳴を上げた。
 「あーぁ…こんな所で、寝ちまうもんじゃねーな…。
  昨夜は、眠れたか?具合はどうだ?」
 「…お前…どういう、つもりだ。どうして…俺を、ここに…。」
少し考えるそぶりをして、中里は慎吾を見つめると、軽く息をついた。
 「通りすがりに見つけちまった行き倒れに、そのまま死なれたんじゃ寝覚めが悪いだろ ?
  だから、拾ってきた。ついでに、手当てもしてやった。
  それじゃ、納得できないか?」
 「俺は…野良犬じゃ、ねえよ…。」
キョトンとした顔をして、一瞬言葉を詰まらせた中里が、気まずそうに頭を掻いた。
 「…んだよ…起きてたんなら、そう言えよ…。」
昨夜見た時は整えられていた髪が、寝起きで乱れていて、少し幼く見えた。
照れたような、人の良さそうな笑顔に、さっきの言葉はあながち嘘ではないと思った。
 「で、他に聞きたい事は?」
 「……どうして…何も、聞かない?」
慎吾の質問に、中里は笑顔を浮かべていた表情を曇らせた。
しばらくの沈黙の後、感情を抑えた落ち着いた声で、ゆっくりと言葉をつなぐ。
 「お前の身に起きた事が、普通じゃないってのは、その姿を見ればわかる。
  …そんなことを、無理に聞きだすほど、俺は野暮じゃないつもりだ。
  お前が言いたければ聞く事は出来るが、そうなると俺は、無関係じゃいられない。」
強い視線は、真っ直ぐ慎吾に向けられている。
自分の周りにいた、いい加減で適当な付き合いをしていた奴等とは、違うと思った。
今までに、自分をこんなに真っ直ぐ見る奴なんて、いなかったような気がする。
それでもまだ慎吾には、心の底から信頼することができない。
それほどまでに、慎吾が受けた仕打ちは深い傷になって残っていた。
中里も、そんな慎吾の様子を察してか、それ以上言う事は無かった。

****

 「まぁ、当分の間は動けねえだろうから、ここにいたらいい。
  でも、少しの間でも一緒に住むんだ。
  俺には、お前の名前ぐらい聞く権利はあるだろ?」
 「……慎吾…。」
 「慎吾、か…。」
中里は、それまで刺さるほど真っ直ぐ慎吾を見つめていた視線を、フッと和らげた。
 「何か用があったら、声をかけろよ。隣にいるから。」
そう言う中里の穏やかな声に、慎吾はそれまでピンと張り詰めていた気を緩めていた。
一人になった部屋で、静かに目を閉じる。
どうして素直に名乗ったのか、中里のことを信じているわけじゃないのに。
ただ、自分を見る中里の視線が、真っ直ぐ過ぎるから…嘘なんて、見抜かれてしまいそうだから。
まだ身体の痛みは残っていて、それが嫌でも辛い事実を思い出させる。
だが、この傷が治まる頃には、それまでには…。

慎吾は、大きくゆっくりと呼吸をして、深い眠りに落ちていった。


END



<2006/5/16>

カウント7500を申告していただいた@ミルク金時様に、
押し付けリクエスト(笑)をお願いしました。
リクエストは「慎吾は辛い過去を持っている。
それは、信じてたツレに裏切られたこと、
そのために人間不信になった慎吾は、中里の「愛」で
心を開いてく…そんなシリアスな話が…」
と言うことでしたが…(汗)
なんだか、ちょっと違うかもしれません(ーー;)
すっかりパラレルになってるし、過去と言うより直前だし…。
なにより、これが続いてしまいそうな…ゲホゴホ…。
まったく、無理矢理リクエスト聞いておきながら、
@ミルク金時様、こんなので、ごめんなさい…m(__)m

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