中里には、すでに両親は無かった。
父親は、中里が小学生の時に病気で亡くなっている。
それからは、母親一人で中里を育てていたが、父方の伯父が何かと面倒をみてくれた。
その母親も、仕事中に交通事故であっけなく…中里が高校生になってすぐの時だった。
母親の葬儀の日、ためらう事無く一人になってしまった中里を引き取ると申し出てくれたのが、その伯父だった。
伯父は、地元でそれなりに大手と言われる企業を経営しているが、それを鼻にかけることも無い堅実な人間だ。
父親が亡くなってからずっと世話になっていたこともあり、中里のことも自分の息子のように接してくれた。
親戚中でたらい回し、ということも考えていた中里にとっては、ありがたい申し出だった。
伯父の家には、遅くにできた透史という一人息子がいる。
中里より5歳年下の彼は、一見物分りのいい大人しい子に見える。
だが、一人っ子で、両親も仕事で家を離れていることが多いため、本当は寂しさを隠して強がっているのではないか…。
中里が抱いた透史への第一印象はそんな感じだ。
だからといって、いきなり入り込んできた中里に対して嫌悪する事は無かった。
かえって兄のような存在が出来たことを、喜んでいるように見える。
実際、一緒に暮らすようになってから、透史は中里から離れようとはしなかったから。
もしかしたら、伯父はこうなることを望んで引き取ったのかもしれない…。
そんなことも思ったが、兄弟がいなかった中里も、弟が出来たようで悪い気はしなかった。
透史の奇妙な言動が気になりだしたのは、少し経ってからのことだ。
中里は、高校での行事や付き合いで、なかなか透史のそばにいてやれない日が続いていた。
何度かわがままを繰り返していた透史だったが、そのうち諦めたのか何も言わなくなった。
それを納得してくれたと理解して、余裕が出来たら遊んでやろうと考えていた矢先…。
学校から帰った中里が見たのは、玄関先に散らばっている壊れた玩具。
そのなかで、虚ろな瞳で蹲っている、透史の姿。
「毅くん……壊れちゃった、んだ…ボクの、おもちゃ…。」
中里を見つけると、ホッとしたように薄く微笑んで、じっと見上げる。
その瞳の奥に潜む感情に、中里は何かひっかかり、急いでそれを振り払った。
そんなこと…ありえない…。
壊れた玩具は、すぐに直せるような…逆を言えば、壊し方が、あまいのか…。
中里でも修理できる程度のもので、直した玩具を手渡した時、透史は大袈裟と言えるぐらい喜んだ。
「ありがとう!すごいや、毅くん!また、壊れたら、直してね。」
”また、壊れたら―”透史のその言い回しが気にかかった。
でも、その考えをすぐに打ち消す…そんな事は、ない―透史はまだ、小学生だ…。
しばらくは、様子を見るしかない。
見た限りは、透史は普通の小学生でしかないのだから。
だが、透史の側にいることに、微かな抵抗を覚えたのも事実だった。
それからは特に何事もなく、透史は中学校へ入学し、中里は高3になっていた。
中学に入ってからは透史も自分の生活で忙しく、次第に2人の生活も別々の物になっていた。
高校を卒業してからの進路について、中里は伯父から打診されていたことがある。
大学へ進学したいなら、その費用は心配することは無い…就職するならば、伯父の会社に勤めるといい、と。
それは、いずれこの会社を継ぐであろう透史のために、側近として彼を支えてほしいという伯父の希望だった。
だが、中里はそのどちらも断った。
別に、伯父の会社が嫌だとか、透史のことを気にしているとか、そういう訳ではない。
今までこれほど世話になった伯父夫婦には、言い表せないくらい感謝している。
会社を継ぐ透史を支える、という伯父の希望に答えることも、恩返しなのかもしれない。
でも、これ以上世話になるのは心苦しかったし、自分の力で生きていきたいとも思った。
自立できるようになったら出て行こうと、引き取られてからずっと考えていた。
そう告げた時、伯父は怒ることもなく、ただ静かに「そうか…。」と言うだけだった。
残念そうに瞳を伏せて、気にすることはない、と言う姿は、出会った頃よりも随分小さく見えた。
「私達はお前も自分の息子だと思っているよ。だから、いつでも頼るといい。」
その言葉が、どれほど中里にとってありがたいか…すぐに追い出されても文句は言えないと覚悟していたのに。
深く下げられた中里の頭を、優しく撫でる手は、とても暖かかった。
高校卒業後の就職先を、中里は伯父の会社とは関係の無いところへ決めた。
本当は伯父の家も出るつもりで、密かに物件も探していたのだが。
家を出られない、事情ができた。
内定が出た日、家に帰った中里を出迎えたのは、段ボール箱を抱えた透史だった。
「壊れちゃったんだ…オレの、おもちゃ…治してくれるよ、ね?」
ゆっくりと三日月をかたどる瞳が、偽りの笑みを見せた。
「ねぇ、言ったじゃん。また、壊れたら、治してくれるよね?って…。」
恐る恐る近寄り、箱の中を覗いて、中里は声を詰まらせた。
「なっ……!」
「治して…くれるだろ?毅くん…。」
箱の中には、辛うじて息をつないでいる小さな白い…猫。
白い身体に、点々と彩られた血の色が、紅い花弁のように散っていた。
この猫は確か、最近庭に迷い込んで来た、透史がよくミルクをあげていた猫だ。
「毅くん、親父の会社に就職しなかったんでしょ?
もしかして…ここも出て行く気だった…とか?
じゃあ、またおもちゃが壊れた時は、どうしようか?」
口角があがり、唇は笑みを乗せていても、瞳には怒りが込められている。
中里は透史の手の中の箱を取上げて、家を飛び出した。
まだ、子猫は生きようとしている。
助けなければ…とりあえず医者に……そう考えて駆け出した背中を、透史の声が追う。
「毅くんがいなくなったらぁ、オレのおもちゃは壊れたまんまだよねぇ!」
壊れた、まま…家から出て行けば、こんな事をずっと続けるということなのか?
中里は、以前、玄関の前に散らばっていた、透史の壊れたおもちゃを思い出した。
あの時も、しばらく透史に構ってあげられなくて、寂しい思いをさせたかもしれない。
それの反動が、あの壊したおもちゃなのか?
中里の気を惹きたくて、自分のおもちゃを壊してまで、自分の側に置こうとしたのか?
そういえば、その後もいろいろと壊れた物を直して欲しいと、透史は持ち込んできた。
自分のおもちゃから、コンポ、インラインスケート…最近では自転車とか。
明らかに、わざと壊したとしか思えない壊れ方だった。
透史の言う”おもちゃ”とは、もうその名称を留めてはいない。
今後、徐々にエスカレートしていくような、そんな不安を感じたのは、間違いではなかった。
それは、透史だけの世界に飛び込んできた中里を、逃がさないように縛り付ける束縛の鎖のように。
行き過ぎた独占欲が、命までもおもちゃにして、軽々しく戯れる。
そんな、あどけなさが、怖かった。
子猫の息は段々と弱まっているようで、途方にくれたところで出会ったのは、クラスメートの高橋涼介だった。
確か、こいつの家は病院だったはず…医者を目指しているのなら、人も動物もたいした違わないだろう…。
落ち着いて考えれば随分と無茶な話だが、その時の中里にはそんな余裕も無い。
それまであまり親しく話をしたことも無かった中里から、いきなり差し出された段ボール箱に、涼介はいつもは冷静な表情を珍しく固まらせた。
だが、さすがにそれも一時で立ち直ると、自分の家へと招き入れた。
「動物の治療なんて、したことがないから、責任は持たないぞ。」
些か、不服そうな顔をしながらも、自分の処置に満足したのか、涼介は眠っている子猫を見つめる。
その傷が、人為的に付けられたものだとは気付いていた。
涼介の家は、中里の家のかかりつけの病院で、透史のことも、中里があの家に来た理由も知っている。
…透史の隠された人柄も、涼介はうすうす気が付いていた。
「これは、透史がやったんだな。」
その言葉には答えず段ボール箱を抱えて出て行こうとする中里を、涼介は肯定ととった。
「猫は、置いていけ。死んでしまった、と言えばいい。連れ戻せば、また繰り返すだろう。」
驚いたように見つめ返す中里に、溜め息を一つ返して、涼介は続けた。
「俺の、最初の患者だからな。できるだけ、責任はとろう。」
「悪ぃな…頼む。」
この子猫が自分のせいでこんな怪我をしてしまったとは、言えるはずが無い。
そこまでして執着する何が自分にあるというのか、わからない。
ただ、透史から離れようとすれば、また小さな命が脅かされるのだと。
そんな恐怖が、付きまとう…中里を、雁字搦めに、拘束する。
涼介は、何か勘付いている様だが、何も聞かない。
このクラスメートの聡明さに、中里は助けられた気がした。
****
透史はずっと、中里が自分の側にいると思っていた。
将来、父親の会社を継ぐだろう自分を支えるのは、中里だと信じていた。
まだ自分は中学生だけど、決まっている未来を悲観的に感じることはない。
あの日、一人きりの世界に現れた兄が、自分の全てになったから。
だから、中里の卒業後の就職先が、父親の会社ではないことが信じられなかった。
もしかしたら、中里は自分から離れていこうとしているのか。
また、あの一人きりの世界に戻ってしまう…どうしたらいい?どうしたら、俺を見てくれる?
呆然と考えあぐねていると、外から微かに鳴声が聞こえた。
あれは、最近迷い込んできた、小さな猫の声。
ふらりとやってきては、またふらりと出て行く…アイツも、俺から離れようとする。
だったら…そうか、壊れてしまえばいい…そして毅くんに、治してもらおう…そしたら、アイツも、俺の側に…。
透史はゆっくりと立ち上がり、庭へと向かった。
透史の姿を見つけた子猫が、またミルクをくれるのかと近寄ってくる。
小さな鳴き声をあげて擦り寄る子猫の頭を優しく撫でながら、右手に持ったカッターを振った。
ギャンと悲鳴を上げて、白い小さな身体から、真っ赤な鮮血が噴き出した。
透史は、ひくつく子猫を段ボール箱に入れ、瞳を細める。
これで…オマエも、毅くんも…俺の側にいてくれるよね……ずっと…。
日がすっかり落ちてから、中里が帰ってきた気配がした。
あの子猫を入れた段ボール箱は、手元にはない。
「毅くん…あの、猫は…?」
「…あぁ、途中で…死んで、しまったから…公園に埋めてきたんだ。」
少し気落ちしたように、視線をすっと逸らした。
死んだ…そうか…アイツは、やっぱりいなくなったんだ。
でも、いいや……。
「おもちゃは、なくなっちゃったけど…毅くんは、いてくれる、よね…。」
透史は、制服の袖を引いて、少し上にある中里の顔を見上げた。
中里は、じっと視線を合わせると、力無く微笑みを浮かべる。
いいんだよ、それで…だって、毅くんは、俺の側にいてくれなきゃ。
俺の壊れた”おもちゃ”を直してくれるのは、毅くんだけなんだから。
だから…これからもずっと、俺と一緒にいてよね。
結局、中里は父親の会社には就職しなかった。
家から通勤するようにしたため、相変わらず透史は中里の側を離れることはなかったが。
その状況に変化が訪れるきっかけは、透史の高校受験だった。
透史は、親から勧められたこともあり、大学付属の高校を受験することになった。
全寮制の学校のため、家から出なければいけないことに、透史はずっと拒否していた。
しかし、この大学は、企業経営の実務教育のカリキュラムが充実している。
これから経営者になるためには、この学校で学ぶことは貴重だと説得された。
透史は、小さな頃から、親に反抗する事はなかった。
わがままを言えば、親にも見離されて、ずっと一人ぼっちになってしまうと、恐れていたからだ。
今回も、親がそれ程強く勧めなければ、了承するつもりは無かった。
だが、将来のこともあると言われれば、透史にはそれ以上拒否する事はできなかった。
透史が家を出ることによって考えられる不安は、現実となった。
入学してからはそれなりに、友人との付き合いや学校に馴染むことに精一杯で、透史には他の事を考える余裕が無かった。
数ヶ月たって、やっと寮生活も安定して来た頃、透史は中里が家を出た事を知った。
やっぱり家を出るんじゃなかった、と、後悔したがもう遅い。
中里は、透史が入学してからすぐに、黙って家を出たらしい。
父親は酷く怒っていて『あんな恩知らずな奴に、二度と関わるな!』と、電話口で憤慨していた。
その後、一時的に家に帰った時も、中里の事は話題にも出ない。
両親が意図的に拒んでいるようで、透史にはそれ以上追求することが出来なかった。
ガランとした部屋の中で、電灯も点けずに座り込んだ。
静けさに押し潰されそうになり、床を拳で殴りつける。
鈍く響く音だけが、室内を包んだ。
また…一人きり、取り残されたんだ…。
もう誰も、自分を見てくれる人はいない…。
あれほど自分の世界の全てだと信じていた中里も、消えてしまった。
透史の感情は、徐々に崩れていく。
表向きは、いつもと変わらずに、時間は過ぎる。
だが、確実に、透史は心を閉ざしていった。
それは、誰にも気付かれることも無く。
****
透史が寮に入ってから、中里は伯父から思いがけない話を聞いた。
「毅…お前は、この家を出た方がいいのかもしれない。」
「え…?まさか、俺が何かご迷惑でも…!」
伯父はゆっくりと首を横に振ると、辛そうに眉をしかめた。
「そうではない…。お前は、透史の側にいてはいけない…。これは、お前のためなんだ。」
それからすぐに、中里は家を出た。
これが、透史に隠した真実。
もうすぐ、透史はこの土地へ戻ってくる。
透史が歪んだ事実を知り、慎吾と出会い、中里と再会するのも、もうすぐ。
時間は、流れていく。
END
<2006/7/4>
中里とオリキャラ・透史の過去話。
中里の過去は、捏造です…申し訳ない…。
やっぱりここでも、兄さまは健在です。
しかも、中里と同じ歳だって(@_@)
ここだけ設定なので、どうか御容赦を…(汗)
それにしても、どういう話なの?って感じでしょ?
実は、私もなんです(苦笑)
おかしいな…もう少し、進むはずだったのに…。
どうしましょ…。
…じゃなくて、頑張りますm(__)m
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