中里は、1件の家の前に立ち尽くしていた。
その家は、たった数年しか過ごしてはいないが懐かしささえ感じて…。
そして、もう2度と立ち入ることはないと思っていた。
まだ、ここを離れてからも数年しか経っていないというのに。
中里の脳裏に、伯父と最期に交わした言葉が浮んだ。
「お前には、済まないと思っている。
だが、お前がここから離れたとしても、私達はお前の本当の親のつもりだ。
矛盾してしまうだろうが、なにか困ったことがあれば、すぐに連絡しなさい。」
そう言って、静かに頭を下げる伯父の背後で、伯母はそっと目頭を押さえた。
疲れの見える両親の姿を思い出し、あの時の胸が詰まるような感覚が蘇る。
そこまで自分のことを考えてくれる人達の前に、今さら顔を出してもいいのか。
これから自分がしようとしていることは、さらに両親を傷つけることになるというのに。
****
中里は、携帯を片手に、躊躇していた。
今はちょうど昼休み中で、相手も休んでいるのでは、という配慮もあった。
忙しい人物だから、引き継いではもらえないかもという、心配もあった。
でも、一番の理由は、その人物…伯父に、自分から接触してもいいのか、という不安だった。
伯父は、中里が家を出る前に、居住と車の手配をしてくれた。
最初は断ったのだが、その後の生活費や維持費は自分で捻出するということで、せめてそれくらいはさせてほしいと言う伯父の心遣いを受けた。
それからも、月に1度くらいのペースで、不便はないかと連絡をくれていた。
だが、ここ数ヶ月、伯父からの連絡はなくなった。
それは、透史の卒業の時期と一致していた。
透史が戻ってきたのを感じたと同時に、それほどまでに自分と透史を遠ざけようとしている伯父の意図も感じていた。
そこまでしている伯父が、中里からの連絡を快く思うはずがないと思ったが…。
ふと、あの時の慎吾の顔が…苦しげに歪ませた唇に滲む鮮やかな紅が、記憶を過ぎった。
携帯を握りしめたまま、中里は事務所の傍らで幾度目かの溜め息をつき、ようやく決心して通話ボタンを押した。
あまりにもすんなりと引き継がれた電話に、途惑う暇も与えられないまま、耳から流れてきたのは少し擦れたような年配の男性の声。
『しばらくぶりだな…元気にしてたか?毅…。』
穏やかに自分を気遣っているその口調に、無意識に緊張していたのか、中里は思わず安堵の息を漏らす。
「御無沙汰してます…伯父さん。」
少しだけ近況を告げて、気まずい間が空き、言葉を詰まらせた中里の耳に、伯父の言葉が飛び込んできた。
『…透史が、帰ってきたよ…。』
「………!」
『なにか…あったのだろう?夜になってしまうが、時間を取ろう。』
「でも…。」
『透史は、家にはいない。私が言えた立場ではないが…たまには、帰っておいで。ゆっくり顔を、見せてくれないか。』
「伯父さん……。」
中里は、今日仕事の後に家に行くと伯父に告げ、電話を切った。
透史は帰ってきているが、家にはいない。
その事実は、中里の予想を確信へと近付ける。
できれば、間違いであってほしかったのに…それを確認するために、再び、あの家へと。
****
慎吾は、何もすることなく、シンとした部屋の中でソファに座りこんでいた。
あれから、どのくらい経ったのか、傷はほぼ完治していた。
それなのに、どうしてまだこんな所にいるんだろう…と、考える。
怪我さえ治れば、出て行こうとずっと思っていたのに。
でも、出て行こうと思うたびに、慎吾の脳裏にあの表情が思い浮かぶ。
インターホンを鳴らしてから、ゆっくりと鍵を開けて、部屋に入るとまず声をかける。
それは、中里が慎吾に自分である事を伝えるために。
そして、視線を合わせた瞬間に、ふっと、不安そうな表情が和らげられる。
その時の、あいつの、表情が……。
もしかしたら、中里にあの表情をさせるのは、自分だからか、とまで考えて。
バカな事を考えていると、慎吾は頭をかきむしった。
何を考えてるんだ!くだらねぇ…もう、誰も信用しないと誓ったのに…でも……。
グルグルと考えあぐねているところへ、電話がけたたましく鳴り響き、一瞬身体を強張らせる。
別に怯えることもないのに、自分を取り囲む音や声に、過敏になっている自分に気付く。
数回呼び出した後、留守電に切り替わった電話をじっと見つめていた。
無機質な機械音に続いて、聞き慣れた声が流れ、やっと緊張を解いた。
『慎吾…少し帰るのが遅くなるから、先に休んでてくれ。誰が来ても、無視していいから。それじゃ…。』
再び機械音が響き、部屋の中はまた静けさに包まれた。
「遅く…なんのかよ……。」
小さく呟いて、ソファに凭れかかる。
そのままズルズルと滑り落ち、慎吾は力無く四肢を投げ出した。
まるで、あいつが帰ってくるのを、待ってたみたいじゃねぇか…。
すぐにその考えを否定して、慎吾はそのまま目を閉じた。
****
通された部屋を見渡すと、数年前とあまり変わりがないことに、どこか張り詰めていた気も緩む。
家を出てからは電話で話すことしかなかったため、向かいに座る伯父の姿は離れていた年数を感じさせたけど。
そんな伯父を見ながら、中里は考えていた。
いきなりの中里からの電話にも、伯父はまったく動揺を見せてはいない。
いつかこんな日が来る事を、知っていたかのようだった。
もしかしたら、最初からこうなる事がわかっていたのかもしれない。
いざ伯父を目の前にして、中里の決心も揺らぐ。
自分でも、何から話せばいいのか、まだ整理が付いていないのだ。
ただ、ここに来なければいけないと…確認しなければならないと…そんな想いだけが自分を動かしていた。
なかなか切り出せない中里を察したのか、伯父は重い口を開いた。
「お前がここを出て行ったと知ってからの透史は、一見何も変わりないように見えた。
やはり、ひどく落胆はしていたようだが…随分お前に懐いていたからな。
二度とお前と関わってはいけないと、私はあの子に言ってしまった…。
あの子は、私達の言うことに逆らう事はしなかった。それは、狂信的なほどに。
だから、聞き分けのいい子だとしか思わずに、本当のあの子を見ることができなかったのだろう。
私は…間違っていたのかもしれないな…。」
伯父は、自嘲気味に笑った。
その告白は、誰にも言えなかった伯父の懺悔のようだと、中里は思った。
「…お前を引き取る前に、近所の学生に透史の家庭教師を頼んだことがあったんだよ。
透史は、彼にとても懐いていた。お前に懐いていたように。
しばらくして…彼は急に辞めさせてほしいと言い出した。訳を聞いても、言いたくないと…。
私は、彼の勉強も忙しいからだろうと、そのくらいの考えしかなかった。
透史も何も言おうとはせずに、部屋に引き篭もることが多くなった。
そんな時、お前の親があのようなことになって…私は伯父として、引き取るのは当然だと思っていた。
だがどこかで、透史のことを考えていたのだと思うよ。
透史のために、お前を家に呼んだ…まるで、透史のためのおもちゃと同じ扱いだ…。
恨んでくれても、蔑んでくれてもいいんだよ…毅…。私は、それだけのことをしてしまったのだから。」
中里は、辛そうに項垂れるこの初老の男性を、恨むつもりも蔑むつもりもなかった。
路頭に迷うこともなく、普通に生活できる環境を与えてくれた伯父には、本当にありがたいと思っている。
何も言えずに、見つめるだけの中里の前で、伯父は尚も言葉を続けた。
「お前は、何も言わなかったな。だから、私は気付かなかった。
いや…気付こうとはしなかったのだな…お前が密かに送っていたサインに…。
何年か経ってから、彼と話をする機会ができたんだよ。
その時初めて、彼が透史から離れた訳を知った…透史の、異常にも思える執着のためだと。
透史の、高校受験の頃だ…それは、お前も、感じていたのだろう?
私は何も気付かずに、お前に、辛い想いをさせてしまったのだな。」
伯父の悲壮が伺える視線が、中里を真っ直ぐに見ていた。
自分の息子の奇行を知った時、伯父はどれほどの衝撃を受けたのか、それを思うと中里の決心が揺らぐ。
何もかもを否定して、ただ懐かしさを語って、笑顔で再会の約束を交わし、そのまま帰ってしまいたくなる。
これ以上、この傷付いている人に追い討ちをかけるようなことを、しなくてもいいのではないか、と思う。
でも、それではダメだ…また、同じようなことを繰り返すだけだ。
中里は、ゆっくり瞳を閉じて、零れそうになる感情を押し込んだ。
再び開かれた瞳には、躊躇いを捨てた光を込めた。
「伯父さんが、俺のことを考えて透史から離してくれたというのは、今の話で充分わかります。」
「あの子も、お前と離れてもう少し時間を置けば、自分のとった行動を理解してくれると思っていたんだ。」
「そう、ですね。俺も、時が経てばまた兄弟として透史に会えると思ってました。」
「毅…透史には、会っていないのか?」
中里は、静かに頷いた。確かに、透史には会っていない…。
「そう、か…。お前が連絡をよこした時、てっきり透史が会いに行ったものだと…。」
「会わなきゃならないと、思ってます。
そうなると…俺は、透史を傷つけてしまうかもしれないけど。」
「それは…どういうことだね?」
伯父は、驚いたように中里を見る。
「伯父さん…俺は伯父さんからの恩を仇で返してしまうかもしれません。
でも俺は、透史を止めたい…これは、俺の所為でもあるから。」
「毅…お前は、何をしようと……!あの子は一体、お前に何をしたんだ?」
透史の何を止めようというのか、透史は何をしたというのか。
中里を見る伯父の瞳は、驚愕に見開かれていた。
ただ、真っ直ぐに見返す中里の視線に、強い決意を感じ取った。
「透史は、今、どこにいますか。」
****
中里は、街灯の灯る通りに、車を走らせていた。
頭の中で、伯父の話を少しづつ整理していく。
透史は、卒業してからすぐには仕事に付かず、しばらく時間を欲しいと言った。
1年間だけという期限を設け、その後は伯父の会社に就職して仕事を覚えていくということで、透史も了承した。
一人暮らしをするために、社の近くに部屋を借りていたが、半月前に荷物だけが実家に送り返された。
透史はそれから、家に帰ってはいないらしい。
その間、何をしていたかは、伯父にはわからない。
半月前と言えば、ちょうど慎吾と出会った頃だ。
嫌な予想ばかりが、符合していく。
もし、半年ほどの間に、中里の住んでいる処を調べ、慎吾と出会い、あの出来事が起きたとしたら…。
まだどこかで透史ではないと信じたかったが、一度組み立てられた考えは、頭から拭い去れない。
透史は、ただ…一緒にいてほしかっただけだと思う。
自分だけに注がれる愛情を、欲しかっただけだ。
だから、彼や、俺や…側にいた誰かにそれを望んだ…誰も、それは責められない。
でも、俺達は、透史の望むモノを与える事はできない。
伯父達は忙しかったため、仕方がなかったとは思うが、それができるのは、伯父達だけだから。
とりあえず、今日は帰ってゆっくりと考えたいと思った。
どこにいるのかわからない、透史のことも気懸かりだ。
慎吾にはキツイことかもしれないが、あの日のことを聞き出さなければ…その時はきっと、慎吾も傷つけてしまうのだろう。
別れ際の、伯父の言葉が頭に残っていた。
「こんなことを頼むのは、筋違いだとはわかっている。
だがもし、透史が傷付くようなことになっても、それがあの子のためなら…あの子を、助けてやって欲しい。
そして、ここに帰ってきて欲しいと…私達は、待っていると伝えてくれないか。
今の私達は、お前に頼ることしか出来ないんだ。」
でも自分は、誰かを傷付けることしか出来ないじゃないか…助けることなんて、出来ない。
中里は、情けなさに、唇を噛みしめた。
****
中里の部屋の前で、立ち止まる青年の影。
彼はじっとその部屋を見つめ、ゆっくりと口角を引き上げた。
廊下の照明に照らされた彼が、俯きがちに小さく呟く。
「やっと、会えるね。」
END
<2006/9/19>
久しぶりの更新です。
大まかに考えてはいたけれど、なかなか文章に出来なくて。
書いていくうちに、少しづつずれていく気がしたり(^_^;)
こんな考え方、理解出来ない!とか、つじつまが合わないんじゃないか、とか、
いろいろとおかしな所があるかもしれませんが、
そこら辺は、長い目で見てやってください…。
まぁ、オイラの文章力の無さということで(苦笑)
ということで、もう少し続いてしまうこのお話。
お付き合いくだされば、幸いですぅm(__)m
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