中里は、透史の右手に握られているカッターから、視線を離すことが出来ずにいた。
「もう、お前に用はないよ。もう、いらない…。」
透史の小さな呟きが、シンと静まる部屋の中でヤケに響く。
見上げる慎吾の瞳に映る感情の無い表情に、そこだけギラギラと深い憎悪が込められた透史の視線。
慎吾は、身体中を駆け巡る恐怖という感情に支配され、指先ですら動かすことは出来なかった。
「お前に…お前なんかに、毅くんは渡さない…。」
抑揚のない冷たい声で、透史は呟く。
その表情は、中里からは見えない。
「…だから……もう、いいよ…。」
ゆっくり、ゆっくり…透史の右手が振り上げられる。
ライトに鈍く反射するカッターの刃が、ゆらりと揺れた。
「……もう、壊れてしまえ……!」
「ダメだ!透史…!」
透史の手に握られている凶器に気付き、慎吾は微かに身体を強張らせた。
その視界は、瞳を見開き、高々と腕を振り上げる透史の姿しか映しださない。
届かない制止の言葉に、中里は無意識に動いていた。
透史と慎吾の僅かな隙間に、素早く身体を滑り込ませる。
ギュッときつく目を瞑った慎吾を、中里は庇うように抱きすくめた。
透史の振り上げた右手が、振り子のようにそのまま降ろされた。
いつまで経っても痛みは訪れず、その代わりに暖かな温もりに包まれるのを、慎吾は感じていた。
耳元で響く、微かな呻き声。
恐る恐る目を開けるとそこには、苦痛に顔を歪める中里の姿。
その身体に手を触れた瞬間、ヌルリと滑る生暖かい感触に、思わず触れた手を離す。
中里の肩越しに、赤黒く濡れた自分の手が見えた。
「……なか…さと………お前…。」
慎吾のカラカラに乾ききった喉から、ヒューと笛のような音が零れる。
擦れた声を絞り出し、辛うじて外に出された言葉に、中里は痛みを隠し、笑顔を見せた。
「大丈夫か……どこも、怪我は…ないか…。」
中里のスーツをしっかりと握り占める慎吾の身体は、小刻みに震えている。
慎吾の感じた恐れがどれほど深かったのかを思うと、徐々に熱を持ってくる背中が疼いた。
その光景を、透史は呆然としたまま見つめていた。
「い…嫌、だ……イヤダ、イヤダ…!」
ボンヤリと立ち尽くし、小さな呟きを繰り返す透史の全身から、感覚が失われていく。
カシャン、と、透史が手放したカッターが、床に落ちて乾いた音を立てた。
刃を濡らす赤い液体は、殺風景な室内に鮮やかな色を浮かべる。
目の前で慎吾を腕の中に包む中里の、背中からわき腹にかけて走る一本の紅い線。
スーツの裂け目をじわじわ浸透していく、紅…。
悲鳴のような声を上げ、がっくりと膝を落とし、透史は蹲った。
瞬きもせずぼろぼろと涙を零し、鮮血に濡れる指先で顔を覆う。
血の気が失せた白い肌に、幾筋もの赤い線が辿った。
「なんでだよ……なんで、毅くんがそこに、いるんだよ…なんで、なんで……。」
零れる涙を気にもせず、透史は叫ぶ。
「なんで、そいつを助けるんだよ!もう、そんなの、いらないのに!」
中里は、慎吾を背中に庇いながら、透史と向き合った。
瞳に怒りを込めた透史の姿に、気持ちをうまく伝えられずにただ泣き叫ぶだけの、幼い子供の姿が重なった。
「俺には、毅くんがいてくれたらいいだけなのに!」
「それじゃ、ダメなんだ…透史……。お前に必要なのは、俺だけじゃない…。他のみんなだって……。」
中里の言葉に、透史の瞳が揺らいだ。
****
初めて中里と顔を合わせた日のことを、透史はいつも思い出していた。
父親は、これから従兄弟が一緒に住むことになると言った。
だが、透史は今まで一度も彼と会ったことは無い。
子供の自分にとって、5歳の年の差は随分大きく感じていた。
正直、どんな人がくるのかと、少し人見知りする透史は怯えていた。
まして、家庭教師の彼が突然自分の前からいなくなってから、それ程経っていない。
彼がいなくなって塞いでいた気持ちは、まだ傷のように痛んでいた。
父親に連れられてきた従兄弟と、恐る恐る顔を合わせる。
彼は、真っ直ぐ立っていた。
近寄れずにいた透史に静かに歩み寄り、腰を屈めて視線を合わせる。
瞳に自分の姿が映ってしまうほど近い視線に、身体が強張る。
「毅、です。これから、よろしく。透史。」
変声期を向かえたばかりの微かに擦れる声に、透史の不安がストンと落ちた。
そして、差し出された右手を握ると、自分より少し低い体温を手のひらに感じて、なんだか妙な気分だった。
「透史…毅はこれから、おまえのお兄さんになるんだよ。」
その言葉に、おずおずと父親と中里の顔を交互に見やると、2人とも、透史に笑顔を向けた。
これから毅くんは自分の…自分だけの兄になるんだ。
だったら、ずっと側にいてくれるんだよね?いても、いいんだよね?
透史は、この手を離さないようにと、中里の右手を握る手に力を込めた。
****
「何が、ダメなの…?毅くんは、なにもわかっちゃいない…。」
「なに…を……。」
「俺には、毅くんしかいない!俺は、毅くんしかいらない!」
まるで、聞き訳の無い我侭を繰り返す、幼い子供に戻ってしまったように。
でも、幼い頃の透史が、こんなに激しい感情を表に出したことは無い。
「すぐに俺の側からいなくなるのは、他人だからだろ!
兄弟だったら、ずっと一緒にいられるじゃないか!
俺と、ずっと一緒にいてくれるのは、毅くんしかいないのに!」
兄弟だったら…と、透史は言う。
中里も、透史のことを本当の弟のように思っていたはずだ。
その想いは、今だって変わりない。
なのに、どうしてこれほどすれ違ってしまったのか…。
一人にされることの多かった透史の寂しさが、兄弟という概念を極端に歪めてしまった。
すぐにいなくなってしまう他人ではない、自分と強い関わりを持つ存在としての、兄という立場を透史は望んだ。
「透史…。」
透史の悲壮な訴えに、今の今まで気付けなかった自分を、心底悔やんだ。
引き取ってもらったのだからと、どこかで一線を引いていたのは自分だ。
透史は純粋に、兄として自分を認めてくれていたというのに。
たとえそれが、行きすぎの感情だったとしても。
中里は、胸を締め付けられるほどの切なさに、言葉を詰まらせる。
感情の昂りからか、出血によるものか…身体中の血液が抜けていくような感覚に、眩暈を起こした。
裂けたスーツに染み込んだ血が、浸透しきれずにフローリングに赤い水玉模様を描いていた。
「俺が壊した物は、毅くんにしか治せないんだ……。」
力無く項垂れたまま、透史は聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
頬に残る血の跡が、体温で乾き、赤黒く変色していく。
「ねぇ、毅くん……治して、くれる?俺……ねぇ……毅、くん……俺を………。」
透史は、床に転がっていたカッターに、のろのろと手を伸ばした。
時折霞む意識で、どこか遠い出来事のように、中里はその動作をぼんやりと眺めながら、透史の言葉の意味を考えていた。
「……ねぇ、毅くん……俺を…助けて…!」
頬に流れる涙が、乾いた血と交じり合って、零れ落ちる。
透史は、それまでの狂気に満ちた表情が嘘のように、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ひっ…!」
中里の後ろで二人のやり取りを見ていた慎吾が、短く引き攣った声を上げた。
スーツを握る手に力が入り、その軽い震動で中里の意識が引き戻される。
目の前に、赤黒い血の色がこびり付いたカッターを首筋にあてる透史がいる。
一瞬、何が起きているのか、中里には理解出来なかった。
透史は、何をしている?
「助けて…毅くん!」
笑顔を歪ませて、透史は叫んだ。
手に持ったモノを引くと、白い首筋がプツリと裂けていく。
そこから滲み出す鮮やかな紅い色が、やがて量を増して肩口を紅に染めていった。
「透史!!」
噴出した生暖かい鮮血が、中里の顔に飛び散った。
その感触に、霞みそうだった意識が一気に覚醒する。
ゆっくりと倒れこむ透史の身体を抱き止めると、見る間に胸元が赤く染まる。
血は止まることなく流れ出て、中里にはその首筋を押さえる事しか出来なかった。
ただ、成す術も無く名前を呼びながら、徐々に血の気が引いていく透史を抱きしめる。
その時、スーツの内ポケットに入れたままの携帯が、胸元で震動した。
中里は暫らくの間気付かずにいたが、やっとそれに気付くと胸元に手を伸ばす。
動揺して震える手は、なかなか言うことを聞かず、どうにか手にした携帯から聞こえてきた声に、中里は思わず懇願した。
「…助けて、くれ…頼む……涼介!」
中里の黒い携帯が、赤い血に塗れていく。
電話口に縋るような中里に、慎吾はどこか切なげに顔を顰めた。
END
<2007/1/21>
あれ?まだ、終わらない?
書いてる内に、あれもこれもって、エピソードが増えていく。
どんどん、長くなっていくよぉ。
そして、ますます泥沼にはまるんだ…(苦笑)
つくづく、短くまとめるのが下手なんだと実感。
予定では、次くらいで終わらせたいなぁ…と。
まぁ、予定は未定って言うことで(^_^;)
あとちょっと、お付き合いを〜。
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