中里の腕の中、グッタリとしたまま動かない、透史。
携帯を握り締め、動かない透史を抱きしめる、中里。
そんな二人を、ただ視界に入れているだけの、慎吾。
この空間は、一切の音が消えてしまったように、静まりかえっていた。
まるで、時間そのものが止まっていると錯覚してしまいそうなほど、全てのものが動きを止めていた。
その中で、唯一、時間の経過を証明しているのは、中里が握り占めている携帯に表示されたデジタル時計と…。
…その足元に、一滴一滴零れ落ちては、集合し拡がっていく、紅い水溜り…。
****
遠慮がちに数回ドアをノックしたが、中からはなんの応答もない。
静かにノブに手をかけると、それは抵抗なく引き開けられて、涼介は玄関へと足を踏み入れた。
フッ、と、微かに嗅ぎ慣れた匂いが鼻を付き、足早に部屋へと入り込む。
その光景を見た途端、涼介は絶句し、身を強張らせた。
視界に入ったのは、胸元を真っ赤に染めて呆然としている中里と、その腕の中で顔色を失くしている透史。
慎吾は、焦点の合わない瞳で、それでも二人の姿だけは視界から外そうとはしなかった。
「…何が…あったんだ……一体…。」
小さく呟き、強く拳を握り締める。
すぐに気を取り直すと、携帯を取り出して外に待たせた弟を呼び出した。
短く、ここに来るようにだけ伝えると、中里の側に跪き肩を強く揺さぶった。
「しっかりしろ、中里!」
それでも、中里はボンヤリしたまま、腕の中の透史を抱きしめる腕を、解こうとはしない。
2、3度、頬を叩くと、やっと虚ろな視線を向ける。
「…涼…す、け……か?」
「そうだ。わかるか?」
「あぁ…涼介!透史が…!頼む、透史を…!」
涼介の存在を確認すると、一気に意識が覚醒したのか、中里は縋るように涼介に詰め寄った。
学生の頃からの付き合いだが、こんなに我を忘れたようにうろたえる中里を見るのは初めてだ。
そこへ、呼び出された啓介が部屋に入ってくる。
「何だよ、これ…。兄貴!」
「啓介、彼をウチへ連れて行く。浴室からありったけのタオルを取って来てくれ。
あと、寝室から毛布かタオルケットを…。」
この部屋の光景に動揺する啓介に、涼介はテキパキと指示を出す。
夜も更けていることもあり、あまり音をたてないようにと、一言釘をさすのも忘れない。
啓介も、実家の職業柄こういう状況には慣れているのか、涼介の指示が飛ぶと迅速に行動した。
浴室の戸棚という戸棚を開け放ち、ようやく見つけ出した予備のタオルのありったけを抱えて涼介に手渡す。
そして、すぐさま寝室へと飛び込んでった。
透史の首筋に押し当てられたタオルは、見る間に真っ赤に染まっていく。
傷と出血の状態を診ていた涼介は、その様子に端整な眉を微かに顰めた。
部屋の中は、知らない人が見れば、強盗にでも入られたか、と思うほどの惨状だ。
いつもならある程度整頓されている部屋が、今は開きっぱなしの棚から物が散乱し、床には鮮血の滴った跡が残されている。
だが、この部屋の持ち主である中里は、その惨状に気付かないほど呆然としていた。
それほど…動揺し、憔悴していた。
普段は落ち着いた物腰の彼が、こんなに疲れきった姿を見せるほどの、何が彼等にあったというのか…。
地の色がわからなくなるほど紅く染められていくタオルを見つめて、涼介はその事態に想像を巡らせる。
涼介の思考を中断させたのは、ベットから引き剥がしたタオルケットを抱えてきた啓介だった。
使い道を知らされないまま、タオルケットを手にして傍らに立った啓介は、改めて彼等の姿に呟きを漏らした。
その小さな呟きに答えるのは後回しにして、涼介は次の指示を出す。
「何、やらかしたんだよ…コイツ等……。」
「啓介、彼をそのタオルケットで包んで、静かに運んでくれ。」
血に染まった透史を人目に曝さないため、そして、貧血で極端に体温の下がってしまった身体を少しでも温めるため。
涼介は、衝撃を与えないようにそっと透史の身体に手をかけて、中里の腕から引き離そうとした。
だが、それまで心痛に項垂れていた中里は、それを拒むように透史を抱く腕の力を強めた。
「どこへ…!ダメだ…もう、どこにも、連れて行くな!これ以上、透史を一人には…!」
あの時、自分が離れてしまったことが、こんなにも透史を追い詰めた。
もう二度と戻ることは出来ない、深く暗い闇の中に飲み込まれそうになり、救いを求めて手を伸ばしていた透史を、見放したのだ。
それなのに自分はまた、透史を傷つけてしまった…精神にも、身体にも…助けてあげられなかった。
今、再びこの手を離してしまったら、本当に透史が壊れてしまうような気がした。
その想いだけが、今の中里を占めている…もう、透史を一人にすることはできない。
「いい加減にしろ!このままでは、本当に彼を失いかねないんだぞ!」
「でも…!」
声を荒げる涼介にも、中里は首を横に振り拒み続ける。
感情が昂っている今の状態では、何を言っても聞き入れられないのだろう。
「彼を助けたいなら、俺に任せろ…そのために、俺を呼んだのだろう…。」
もう少し、誰かに頼ってもいいのに…この友人はいつも、大きな選択を自分だけで考えすぎるのだ。
不器用な友人を想い、涼介は宥めるように口調を和らげる。
時間の猶予は、あまりない。
顔色を失っていく彼も、膝を付いてどうにか支えている友人も。
頑なに透史を抱きしめる腕の力を緩めない中里の背中を、慎吾は黙って見ていた。
僅かに歪めた瞳には、慎吾自身気付いていない感情が込められている。
中里の気持ちが向けられている透史への…暗く、歪んだ、感情。
そんな感情が、無意識に慎吾の身体を動かしていた。
震える手が、中里のスーツの袖を引く…まるで、自分へと気を惹かせるように。
ほんの一瞬だったが、それまでずっと透史しか見ていなかった中里の意識が逸らされ、抱きしめる腕が緩められた。
涼介は、その隙に透史の身体を引き寄せると、素早くタオルケットで包み込んだ。
意識を失い、力無くグッタリとした透史の身体は、糸の切れたマリオネットのようにダラリとしな垂れかかる。
慎吾に気を取られた中里は、腕の中から離された透史に気付くと、そちらへと手を伸ばし姿を追う。
その時にはもう、啓介に抱き上げられて外へと向かうところだった。
「透史!」
中里の呼ぶ声にも、透史が答えることはない。
本当に、透史を、失う…自分が不甲斐ないために…。
両親に何と詫びたらいい?とか、どうやって償ったらいい?とか。
そんな事よりも、大事なものが自分の手から零れ落ちる…酷い喪失感に怯え、中里は小刻みに身体を震わせた。
震える中里の身体を、慎吾がそっと支えていることに気付く余裕がないほど、今の中里は打ちひしがれていた。
「中里、お前もだ。傷の手当をしなければ。」
覚束ない身体を涼介に支えられて、中里は促されるままにフラフラと立ちあがった。
背中の傷を隠すように、涼介のジャケットを羽織り、足を進める所々に紅い水滴が後を追う。
涼介が手を貸したと同時に、慎吾の手は空を掴み、やり場のなくなった拳は虚しく下げられた。
だんだん距離が離れていく背中を見つめ、身体の奥から沸き上がってくる切ない感情に、唇を噛み締める。
「君は、怪我はないか?」
その涼介の問いは、慎吾に向けられたものだ。
黙って頷く慎吾に、涼介は安心したように小さく息を吐く。
そこでやっと、背後で自分を支えていた慎吾に視線を向けた。
慎吾の不安げな瞳に、それまで平静さを失っていた中里は、徐々に落ち着きを取り戻す。
…何故かは、わからない。
ただ、それまで何も見えなかった視界が急にクリアになったように、今の状況を理解することができた。
そうだ…慎吾にこんな顔をさせてはいけない。
透史のことは、自分ではどうにも出来ない…ここは、涼介に任せるしかない。
涼介ならきっと、透史を助けてくれる。
自分には、まだしなければいけないことがある。
巻き込んでしまった慎吾と、ちゃんと話をしなければ。
「君も一緒にくるか?ここには、居辛いだろう。」
「いや…ここに、いる……。」
ここは、慎吾にとって辛い事ばかり思い出す場所だろう。
傷付けられ、裏切られ、無関係なゴタゴタに巻き込まれ…一刻も早く、出て行きたい場所だろう。
涼介の申し出を断り、ここにいると言った慎吾の言葉は、中里にとっては意外だった。
だが中里は、そんな慎吾の言葉の中の、ほんの少しの可能性にも縋る思いでいた。
全てが後手に回った言い訳にしかならないが、それでも話を聞いてほしい。
こんな騙しているような状態のままで、終わらせたくない。
まだ、慎吾との関係を修復する術は残されていると、信じたかった。
座り込んだままの慎吾に向かって、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「しん、ご…。どうか、俺が戻るまで…待っていて、欲しい。
ちゃんと、話がしたいんだ。…頼む。」
俯いたまま、返事のない慎吾も気になったが、透史の状態も気懸かりだ。
涼介の肩に身体を預けて、外に待たせたワゴン車へと急ぐ。
ドアを閉じる間際、部屋に残された慎吾の姿がやけに小さく見え、中里は締め付けられるような思いに胸元を押さえた。
****
一人、部屋に残された慎吾は、床に散った紅い水滴を、じっと見つめていた。
それは、透史の執着の証…中里を拘束する、紅い鎖。
そこまでしても、中里を欲していた透史。
手に入れるためなら、何をしても構わないと思うほどの、狂気が彼を動かしていた。
そんな透史を、狂っていると思う自分と…共感している自分がいる…。
自分の中にも、透史の狂気が潜んでいるのを感じ、慎吾は身体をかき抱いた。
あの時、中里の腕の中の透史へ感じた暗い感情…嫉妬心が、その確かな証拠だ。
このまま透史が消えてしまえば、中里は自分だけを見るだろう。
巻き込んだ自分への罪悪感と、透史を失った喪失感と。
そして自分は、中里を手に入れる…そんな事を望む自分の中の透史に、恐怖した。
ノロノロと立ちあがり、慎吾は玄関へと向かった。
手の中には、預けられたこの部屋の鍵が、しっかりと握られている。
出会ってから、たった半月ほどの短い期間でしかないのに、こんな大事な物を預けるなんて、なんてお人好しなんだろうと思う。
巻き込んだ後ろめたさもあるのだろうが、それを気付かせないほど中里から与えられた誠実な優しさが、あまりにも心地よかったから。
もし、違う形で出会ってたとしても、自分は惹かれていたかもしれないと思う。
今さらそんな事、もう、遅い…慎吾は、自嘲気味に口角を引き上げた。
これ以上、中里の側にいては、イケない。
離れられなくなる前に…今までの自分に戻るだけの事…。
ドアが閉まる音が、暗く静まる廊下に響き渡った。
手の中の鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
閉ざされた、確かな感触が指先に届く。
手のひらに乗せられた小さな鍵を名残惜しそうに見つめると、慎吾は一度だけ強く握り締めた。
そして、最後の中里との繋がりは、金属音を響かせて、郵便受けに…消えた。
音の消えた廊下には、少し引き摺る様な慎吾の足音だけが聞こえていた。
翌日、中里が視たものは、昨夜の出来事の余韻が残る、誰もいない部屋だった。
END
<2007/6/26>
多分、次がラストになる…と、思います(苦笑)
いつも言ってるみたいだけど、きっとこれは本当(^_^;)
気が付けば、もう1年以上も経ってるし…長いねぇ。
それも、あとちょっとです!
もう少し、お付き合いください。
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