たった一晩、空けただけだというのに、何故こんなにも気遠しく感じるのだろう。
たった一人、いないだけだというのに、何故こんなにも物足りなく思うのだろう。

自分独りで、生きて行こうと思っていた。
自分独りで、生きて行けると思っていた。

それなのに…。
誰もいないこの部屋が、こんなにも広く、こんなにも切なく感じるなんて。

思いあがりも、甚だしい。
きっと自分は、独りで生きて行けるほど、強い人間ではなかったのだ。

Don’t Stand so Close 8



あの、不穏な出来事から一夜が明け、中里はまだ覚束ない足取りで、自分の部屋へと帰ってきた。
透史のことはもちろん気にかかったが、あの涼介が付いているのだから心配することは無い。
背中に負った怪我も、もう出血は治まっていたため、涼介が引き止めるのも聞かず、中里は家に帰ると言い張った。
中里の脳裏に、昨夜の慎吾の様子が蘇る。
あの、心細げな瞳をワザと逸らした、小さく映る姿。
どうしても早く戻らなければならないと思っていた。
手遅れになる前に…。

部屋はしっかりと、施錠されている。
もう、手遅れだったのか…いや、まだ、この中で震えているのかも……。
最悪な結論を押しやってしまう都合の良さに呆れながら、中里は鍵を回した。
空間が開かれた音に、ノブを握る手が微かに震える。
この向こうに、慎吾は待っていてくれるのだろうか?
祈る思いで、震える右手に力を込めて、ノブを回した。

ゆっくりと引き開けられたドアの向こうは、耳鳴りがするほどの沈黙に包まれていた。
玄関に脱ぎ捨てられていた、少し埃まじりのスニーカーも見当たらない。

 「慎吾…?」

郵便受けから、冷たい金属音。
本当は、気付いていた。
認めたくなかった。
諦め切れずに、名前を呼んだ。

 「慎吾!」

乱暴に靴を脱ぎ捨て、中へ駆けこむ。
静まり返った部屋には、中里の声だけが虚しく響く。
寝室を、浴室を、クローゼットを、開け放っては確かめるが、当然慎吾の姿はない。
昨夜の惨状を忘れさせまいというように、部屋中の物は散乱したまま。
フローリングには、点々と赤黒いシミが残されていた。
なのに…最も求めていた存在は、もうここには無くて…。
中里は、力無くその場に跪いた。
すっかり乾ききったシミをなぞり、嘲笑する。
…こんな、慎吾にとって居心地の悪い部屋に、いつまでもいるはずが無い。
それなのに、「ここにいる。」と言った慎吾の言葉の、僅かな可能性に縋ってしまった。
わかっていたのに…慎吾は、いつも出て行きたがっていたのだから。
嘲笑はいつしか嗚咽に変わり、中里は拳を床に打ち付けた。
一粒、二粒と、透明な雫が零れ落ち、昨夜の名残に溶け込んでいった。

中里は、独りで生きて行けると思っていた…実際、これまでの独りきりの生活を、不自由だと思ったことは無い。
だがそれは、自分の生活の中に他人を踏み込ませなかったからというだけのこと。
心のどこかで、透史とのことに捕らわれている自分がいて、無意識に他人との関係から一歩退いていたのかも知れない。
それが、必要に迫られていたとはいえ、慎吾を引き入れてしまった。
たった半月ほど同じ空間にいたお互いの距離感に、あれほど恐れていた誰かと一緒にいる時間の心地良さを思い出した。
両親が亡くなった時の様に、誰かを失うという、酷い喪失感を、思い出した。
自分の中に占めていた慎吾の存在が、こんなに大きくなっていたなんて、思ってもみなかった。

慎吾を失ったこの部屋に、これほどの寂寥感を感じるのはどうしてなのだろう?
中里は、やっと、その答えに辿り着く。
自分が、慎吾を、助けたのではなく…。

自分が、慎吾に、救われていた事に…。

****

その連絡を受けたのは、ちょうど仕事を終えて帰り支度をしている時だった。

 『透史の意識が、戻った。』

中里は、居ても立ってもいられず、同僚達に短く言葉をかけると事務所から飛び出した。
あの夜、病院に運ばれた透史は、的確な措置のおかげか、何とか命を取りとめた。
出血の割に、傷が浅かったのも幸いした。
それは、一晩点滴を受けなければならなかったとはいえ、中里の怪我にも言えることだった。
後で聞いたが、あの時に使用したカッターの刃は新品で、直接肌を裂いたとしたらかなりの深手を負っていたのだという。
スーツの布地を通して中里の肌に届いた刃は、緩衝され致命的な傷を付けることはなかった。
一度、布地を裂いた事で切れ味も落ち、付着した中里の血液が乾ききった状態で切りつけた透史の傷も、同様だった。
あまりにも出来すぎた話だと涼介は一笑したが、中里にはまだ気懸かりなことが残っていた。
怪我の状態は安定しているはずなのに…まだ、透史の意識は戻らない。
まるで、現実に戻る事を拒絶する様に、透史は眠り続けた。
これが、透史の精神を傷つけてしまった自分への代償なのかと、罪の意識に苛まれる。
透史が無事に戻ってくれたら、その時にはきっと、この作り物のような出来事を笑い話に出来るかもしれない。
そんな気持ちを抱え、中里は毎日透史の元に訪れては、動かないその手を握りしめた。
助けを求めていた手を掴めなかった償いのように、戻って来てくれ、と祈り続けて。

看護師からの「院内で、走らないでください!」という咎める声を聞き流して、中里は病室まで走っていた。
扉の前まで辿り着き、手をかけたまま中里は身体を強張らせた…扉を、開けることを恐れた。
本当に、透史は意識を取り戻したのだろうか?一時的なもので、再び眠りに付いたのではないだろうか?
意識を取り戻したとして、自分の顔など見たくはないのでは…?
最悪な事ばかり思い付き、開けるのを躊躇している中里の目の前で、その扉は呆気なく引き開けられた。

 「こんなところで、何をしているんだ?早く中に入れ。」

そこには、白衣を身に纏った涼介が、呆れ顔で溜め息をついていた。
恐る恐る、中を覗き込む。
明るい色調で整えられた病室の窓際に置かれたベットの脇で、瞳を潤ませて安堵の表情を浮かべる両親の姿。
そして、ベットに横たわり虚ろな瞳をこちらに向けている、透史がいた。
涼介の隣で動けずにいた中里に、透史は微笑を浮かべた。

 「…たけ、し…くん……。」
 「透史……。」

透史の微笑に引き寄せられる様に、中里はゆっくりとベットの脇まで歩み寄った。
まだ、声を出すのも辛そうに、微かに表情を歪ませる。
首に巻かれた包帯がやけに白々として、見ているだけで痛々しい。
それでも、自分に笑顔を向けてくれる透史に、身体中にまとっていた緊張が解けていった。
透史の側まで来た中里と入れ替わる様に、涼介と両親は病室を後にする。
自分と透史に気を使ってくれたのだと、すぐに気付いた。
すれ違いざまにそっと中里の肩にかけられた義父の手の温もりに、思わず泣きそうになる。
こんな自分を受け入れてくれる…本当の家族の様に迎え入れてくれるこの人達の、暖かさが嬉しかった。

 「毅くん…あれから、毎日来てくれてたんでしょ?
  …お袋から、聞いた…。」
 「あぁ…。」
 「…ありがとう……。」

まだ意識を取り戻してからそれ程経っていないためか、弱々しい透史の声。
それはそうだろう…10日近く意識を失っていたのだから、話をするにも体力を使う。
今は、無事な姿を確認出来ただけで充分だと、休ませようとするのを遮って、透史は話を続けた。

 「ずっと…声が、聞こえた…帰って来い、って……手を握って、引っ張ってくれた…。
  あんなことしたのに…オレは、戻っちゃいけないって思ったのに…でも、本当は、助けて欲しかった…。
  身動きがとれなくて…ずっと、ずっと……。」
 「もう、いいから…少し、休もう。」
 「ううん…これだけは、言わせて…。ずっと聞こえてたんだ、毅くんの声。
  それから、親父とお袋の声も……泣いてた…オレの名前、呼んでた……。」

途切れ途切れの呟くような声で言葉を続ける透史に、中里は何も言えなかった。
力無い微笑みを浮かべる表情には、もうあの時の凄絶な狂気は見られない。
初めて会った頃の、無邪気な笑顔の透史を思い起こさせる。

 「毅くんの、言う通りだった…。オレには、毅くんだけじゃなかった。
  バカだね…オレは、独りじゃないって、そんな事にも、気付かなかったなんて……。」
 「透史…。」
 「離れてても…いつも一緒じゃなくても…毅くんは、オレのこと見ててくれるのに…。
  ごめんね…毅くん、ごめんね…そんな事にも、気付かなくて…だから、お願い……嫌いに、ならないで…!」
 「そんなわけ、ないだろっ!」

縋るように瞳を歪ませて、静かに涙を零す透史を、中里は何も言わずにそっと抱きしめた。
まだ力の入らない腕を背中にまわして、透史は震える声でそっと呟く。

 「オレ…慎吾ともいい友達に、なれたのかなぁ……。」
 「あぁ…まだ、遅くは無いさ…。」
 「だと…いいな、ぁ……。」

疲れたのか、小さく頷いて涙まじりの笑顔を浮かべ、透史はそのまま眠りについた。
最初から、こうしていれば良かった。
そうしたら、もっと違う形で、自分たちは出会えたかもしれないのに。
睫毛から零れ落ちる涙を拭うと、少し荒い息が心持ち和らいだ気がした。

****

 『まだ、遅くは無い。』

透史に告げた言葉。
それは、自分にも向けた言葉だった。

まだ、遅くない。
でなければ…こんなにも後味の悪い出会いのまま、終わってしまう。
…そんな終わりになんて、したく、ない…。

自分たちはきっと、新しい関係を築くことができるはず。
これほど、出来すぎた偶然が幾重にも重なって、巡り合ったのだから。

また再び、出来すぎの偶然で、自分達は出会えばいい。
何もかも曝け出して、全てを知ったうえで、また始めればいい。

 「…だから、慎吾……もう少し、悪あがきさせてくれ…!」

静かに寝息をたてる透史を見つめ、中里は願う。
透史に、自分に…独りではないと気付く切欠を与えてくれた、慎吾との出会いを。

再び…と。

****




カラオケに行くという同僚達から離れ、中里は賑やかな繁華街から少し奥まった通りを歩いていた。
そこに、こじんまりとした1件のバーがあり、これから店を開けるのか、店員らしい男が看板灯を通りに出しているところだった。
長めの茶髪を、後ろで一つに括り、足元でじゃれる白い猫と戯れている。

出来すぎた偶然も、これだけ続けば…それは、必然。



END


<2007/11/1>

昨年の5月に、キリ番のリクエストとして始まったのが、この「Dont’s〜」でした。
ここまでかかりましたが、これでやっと、完結となりました!
それなのに、慎吾が全然出てませんがね…(^_^;)
最初は1話きりで終わるはずだった話ですが、気が付けばこんなに続いてしまいました。
なので、話に少し無理矢理辻褄を合わせたような部分があるかもしれません。
それもこれも、自分の文才の無さなのですが…(苦笑)
リクエストしてくださった、@ミルク金時さま。
私の我侭のために、リクエストからズレまくった挙句、こんなに長い間かかってしまい、
本当に申し訳ありません。
いつも、暖かいお言葉をかけてくださったおかげで、書き切ることができました。
@ミルク金時さま、そして、この話を最後まで読んでくださったありがたい皆様。
本当に、ありがとうございました。
もう少し、この後の話として短編を書けたら…とも思いますが、それはまたその時に。

7 へ
戻る