雲間に霞む月明かりに、朧気に照らされている桜達。
周囲に満ちているこの気配は、短い時間を懸命に生きている証を訴えているんだろうか。


花闇酔夢 〜桜奇譚 <弐幕 水支> 


研究室の連中と夜桜見物と称した宴会のために、満開の桜を見ながら食事が出来るとうたう店へ訪れた。
学生達が…というよりも、あの研究室の主である助教授が先導をきっているのだから、拒否権なんて学生達にはないも同然。
こういうときの彼女に逆らっても、いいことなんてないことはわかりきっているから。
その店は桜が植えられている公園を見渡せる位置にあったため、花見の季節は特に込み合っている。
この時期だけ華やかにライトアップされた公園に、桜達はぼんやりと浮かび上がっていた。

もっぱら花よりは酒宴が主になってしまった宴会は、桜を照らしていた照明が消えた頃にお開きになった。
この後、2次会に流れる者達や家路に着く者に分かれたが、オレは彼等を笑顔で見送っていた。
照明を消された公園内に、ひっそりと残された桜の存在が無性に気になっていた。
月明かりだけが唯一の光源となり、人気も無く静まる公園。
時折雲間に隠される、頼りない明かりが浮かび上がらせるその姿は、どこか幻想的だった。
アルコールの心地よい浮遊感が、その幻想的な桜とあいまって、現実離れした空間に迷い込んだような錯覚を起こした。
咲き誇る花を根元から見上げていると、月が濃い雲の中に隠れて、辺りが闇に包まれた。
風が、花弁を散らす。
それは一瞬のことだった。
雲間から現われた月が闇を払い、花びらに遮られていたオレの視界が戻った刹那、その人物はそこに現われた。
もしかしたら前からいたのかもしれない…オレが気付かなかっただけかもしれない。
それにしても、ここにいることが思いもよらない人物。
その人はオレと同じように桜の幹に手を触れて、豊かに咲く花を見上げていた。
 「…せん…ぱい……。」
オレの呼びかけが聞こえたのか、先輩はゆっくりとこちらに視線を向けた。
レンズ越しの瞳は、心細い月明かりでは窺い知る事は出来ない。
その場から動く気配のない先輩に、オレは静かに歩み寄った。
 「どうしたんですか?こんな、ところで…。」
オレの問いに答えずに、先輩は桜を見上げていた。
近くで見る先輩の視界には、まるでオレなんて見えていないようだった。
微かに吹く風が散らす花びらに、ますます現実から引き離されそうになる。
このまま、先輩がどこかへ…桜の幻の中へと吸い込まれる気がした。
思わず先輩を引き寄せていた。
そんなことなどあるはずは無いのに、不安な気持ちが身体を動かしていた。
いつもなら、ふざけてこんなことしようものなら、激しく抵抗されている。
そして、この後にはたっぷりとお小言が待っているんだ。
だが、何の抵抗も無くされるがままの先輩に、オレは違和感を感じていた。
 「あ、あの…先輩?」
胸元に引き寄せたまま、一応確認するように問い掛けてみるが、見上げる先輩の瞳からは感情を読み取る事が出来ない。
ただ、ふっと微笑むだけだった。
感情のない笑顔だった。
あの人は、こんな笑顔だったろうか…。
先輩は目の前にいて、確かにこの腕の中にいるのに、どうしても現実とは思えなかった。
このまま掻き消されそうな、儚い現実…。
ますます膨らんでいく不安を紛らわすために、背中にまわした腕に力を込めた。

どれくらいそうしていただろうか。
オレは、先輩の肩に顔を埋めて、ただ抱きしめていた。
でも、気付いていたんだ。
いつもの先輩のコロンや整髪料とは違う香り…。
神経が麻痺するほどの甘い香りに、はらはらと舞う花びらの乱舞に、これは現実であって現実ではない事に。
 「先輩…抵抗、しないんですか?」
 「何故だ?」
ここで会ってから初めて先輩の声を聞いた。
その声も、口調も、先輩のものに違いないけど。
これはきっと、アルコールと咲き乱れる花達に酔いしれているオレの幻想。
この散り急ぐ桜に酔わされた、一夜の夢。
そうと知っても、この腕の中にある存在を失いたくはなかった。
今だけは、このまま酔いしれていたかった。
だが、夢はいずれ覚める。
オレは現実に戻る為、名残惜しい気持ちを押さえて抱きしめる腕を解いた。
離れようとした瞬間、背中に添えられた感触。
胸元にかかる、心地よい重さ。
 「……!」
一度解かれたオレの腕は所在無く泳ぎ、ふと見上げた空には闇の中に浮かぶ霞んだ月がポツンと。
 「あなたは…本当にわかってない。」
オレの呟きに、微かな反応を見せる先輩。
 「何を、だ?」
 「あーぁ…本当の先輩も、これくらいかわいげがあれば、苦労ないんだけどねぇ、オレ…。」
 「”本当”の?」
 「そ!本当の…。」
 「私はここにいる。…私は、”わたし”だ。」
見上げる先輩は、静かに微笑む。
笑顔の先輩を見るのは好きだ…でも、きっとこういう時に、先輩は笑わない。
オレはこういう時の、気まずそうに視線を逸らして、苦い顔してる先輩も好きだったりする。
 「夢でも、幻でも…先輩がそこにいればいいと思ってたけど…。」
 「…水支。」
そう、それが一夜で消えてしまう露のような存在でも、オレの名を呼んでくれるのならいいと思ってたけど…。
 「やっぱりオレは、本当の先輩を知ってしまったから。だから…ありがとう、”先輩”。」
オレの背に添えられた腕をゆっくりと解いた。
本当に名残惜しかったけど…先輩の肩を押して、身体を離した。
触れていた部分の温もりが、外気にあたって徐々に冷えていくのがわかった。
 「いいのだな。”わたし”を受け入れたならば、お前が望む”わたし”になれるのだぞ。」
 「…う〜ん、それも惹かれますよねぇ…。キープ、って訳にはいかないっすか?」
 「それは、無理だな。」
 「あははぁ…やっぱ、ね。じゃ、いいや。今だけでも、いい目、見れたしね。」
 「…そうか。」
そう言って、やっぱり静かに微笑む先輩。
でも今度の笑顔は、楽しそうな、満足そうな、そんな感情が込められてるようで、この笑顔なら騙されそうだなんて考えていた。

 「あの…最後にもう一度、抱きしめてもいいっすか?」
何も言わずに頷く先輩を抱き寄せて、耳元でもう一度「ありがとう、先輩…。」そう呟いた。
その途端、背中にまわした腕が、ふっ、と空を切った。
目の前には、風に舞い上がる桜の花びら…その中に映像のように浮かぶ先輩の姿。
 「そなたの心の中に強くある存在を具現化したのだが、やはり偽りの物では用は足さぬということか…。」
花の乱舞は量を増し、先輩の姿を霞ませる。
もうほとんどその姿を見ることは出来ない。
手を伸ばすと花びらは辺りに四散し、一瞬の闇が訪れた後に残されたのは、散り積もった花びらの絨毯。
それと、人を惑わす桜の魔性に、すっかり憑り込まれてしまった、オレ…。
一歩、二歩と歩くたびに、花びらが左右に流れて、足元で小さく舞い上がった。
見上げると、咲き急ぐ花の合間から覗く月明かり…そして、闇が広がるばかり。
オレは、手放してしまった”先輩”の事を思い浮かべて、ちょっともったいない事したかな?なんて、少し後悔していた。
きっとこんな事話したら、呆れた顔してため息つくんでしょうね…本当のあなたなら…。



<2005/4/2>

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