桜が咲き誇る季節、俺にとっての始まりの時。
そして、あの人にとっての終わりの予感。
俺は、この季節が、嫌いだった。
9.涙
〜桜奇譚 <参幕 飛鳥>
俺が俺ではなくなって、俺という存在が失われた日から、この地を訪れたのは初めてだった。
あれから俺は各地の護封地を巡り、自分の目で本当の護封の意味を探す日々が続いていた。
その間にもお役目の通達は届けられ、その都度現場に趣き天魔を鎮める…。
いきなり定められた神子という立場、人としての感情を無くしている自分、そんな生活に疲れていたのかもしれない。
それすらも気付かないほど、俺の心は無になっていたのかもしれない。
大津郷司からの一度帰郷せよとの通達になんの感慨も覚えず、いつものお役目と同じ感覚で訪れたこの地。
計らずも季節は春…桜の舞い散るこの風景は、否が応にも思い出さずにはいられない。
一番楽しかった時、そして、一番不幸な出会い。
故郷と呼べるのかも定かではないこの郷だが、やはり最後に還る場所はここなんだろう。
大仰な朱塗りの門を一歩くぐれば、外の空間と隔てられた清々しい空気。
それがこの門の役目であり、いつも張り詰めていた緊張感を解く事が出来る唯一の土地。
ここに住む人達は変わらず穏やかで、郷に護られている事すら知らずにいるかのようだ。
外の世界がどれほどの脅威に晒されているかも知らず、かつてこの郷を襲った猛威すら忘れ去られたように。
あの時共に戦った彼等も鎮守人として各地に散り、俺のことを知っているのは郷司や長老衆ぐらいのもの。
そんな土地でも、故郷であり、還る場所なんだろうか。
門をくぐってからずっとそればかり考えて、目抜き通りである興津小路を足早に歩く。
そのまま抜ければ、あの場所へ出る…忘れてしまえれば楽になる、思い出の詰まったあの場所。
記憶を追い出すように軽く頭を振って、俺は不動庵へと向った。
随分ご無沙汰になっていた話好きな老人に合槌を打ちながら、報告も兼ねた長い世間話をして。
話の中に彼等の近況も混ざり、相変わらずな様子にほっとしている自分に気付いた。
無になった俺の心でも、人を思いやる事が出来るのかと自嘲してみる。
せっかく戻ったのだから、お役目を離れ暫らくゆっくりしてもいいのだと郷司は薦めた。
その申し出を曖昧に受け流して、俺はまた外の世界に戻ろうとしている。
ここから一刻も早く立ち去りたかった。
この、穏やかな世界から出られなくなる前に…思い出の中へと、逃げこんでしまう前に。
不動庵を後にした俺は、知らない内に興和園へと足が向いていたらしい。
夕日が郷全体を朱に染め初める。
園内に見事なほど咲き乱れている薄桃色の花びらも、夕日の色に染まりだした。
どうしてだろう…来るつもりなんて無かったのに…あの日の思い出の場所だから。
あの時は、明るい陽光の中、あの人の姿が花霞の向こうで揺らいでいた。
俺はその姿を、少し離れた所から見惚れているだけだった。
ゆっくりと歩み寄るあの人を、ぼんやりと見てるだけだった。
そうだ…こんな風に、濃い花霞の向こうに………!
俺は思わず、身体を強張らせていた。
こちらに歩み寄るシルエット…信じられないその光景に、体中の血が引いていくようだった。
体温が一気に下がり、身体の震えが止まらない…ガクガクとする膝は、身体を支える限界まできている。
「どうして…ここに…あなた、が…!」
搾り出した声は自分のものとは思えないほど擦れ、視線は一点を見つめたまま、身動きが出来なかった。
その歩み寄るシルエットは、夕日の逆光を浴びて次第にはっきりと姿を現す。
間違いなく、記憶の中のあの人だ。
ここに存在するはずの無い…なぜなら、その存在を消してしまったのは、紛れも無く自分なのだから。
「九条…総代……!」
彼は、癖である髪をかき上げる仕草を見せて、微笑んだ。
あの笑顔、あの仕草、あの時から変わらず俺を惹きつける。
目の前に立つ彼が、おもむろに口を開いた。
「…飛鳥。」
俺の名を呼ぶ彼の声が、記憶をあの日へと引き戻す…初めて自分の名をあの人に呼ばれた日。
何もかもが、あの時へ繋がる。
このまま、あの日からやり直す事が出来れば…出来るなら俺は、命を賭けてもあの地へは行かせないのに。
……そんなこと…無理だ。
…そんなこと、解りきってる。
だとしたら、彼は、何?
妖の進入はこの郷の結界が阻むはず…だとしたら、彼は…!
何も無い心が、俄かに騒ぎ出す。
あの人を撃ったのは俺、あの人を墜としたのは俺、あの人の永遠を…未来をなくしたのは俺…。
この郷は責めている…あの人を奪った俺を。
俺自身がずっと責め続けていたように。
彼は、この郷の想い…この地が愛した、この地を愛した、あの人の記憶。
そうなのか…あなたは俺に終焉をもたらすために現われた、郷の意思。
「総代、俺は…あなたが終わらせてくれるのなら、俺は…。」
この季節に郷を訪れたのは、偶然ではなく必然…郷が俺を呼び寄せた。
俺を終わらせるために…そうしてくれるのが彼ならば、本望だと俺は思った。
「飛鳥…お前は、俺に何を望む。」
「俺を、消して欲しい…総代を失っても、まだここにいる俺を…あなたが手を下すのなら、俺は救われる…。」
「……そうか。了承、した。」
彼は、腰に差した一振りの刀をすらっと引き抜いた。
抜刀 楓…あの人の愛用する長刀。
下段に構える彼の全身から溢れる殺気が、肌に刺さる。
俺は静かに眼を閉じた。
彼が一歩踏み出す気配を感じ…すぐに迫るだろう刃で斬り苛まれる瞬間を思った。
なのに、いつまで経っても衝撃は訪れず、ゆっくりと開いた瞳に映ったのは、彼が鞘に刀をおさめる姿。
「な、ぜ…!」
「お前が本当に望んでいるのは、自身の消失ではないはず…。」
呆然と見つめる俺に、彼は静かに手を伸ばして優しく髪を梳く。
彼に触れられた部分が、小さな痛みと共に熱を持つ。
今まで忘れていた感情が突然湧き上がって、俺はその感情の名を暫らく思い出せなくて…。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
髪を撫でる彼の姿が、水の向こうでゆらゆらと揺らいでいた。
瞳に溢れ出した暖かい水滴が、堪え切れずに頬を伝い零れ落ちる。
これは、何?…そうか、これは涙…。
あの時から欠けてしまった…忘れてしまったもの。
”辛い 寂しい 悲しい 怒り”…涙を伴うほどの、強い感情。
それに気付いた途端に、ほろほろと止めどなく涙が流れ落ちる。
「…お前は、泣きたかったのだろう?」
彼の声が、頭の中に響いた。
その言葉を繰り返し呟いて、俺は泣きたかったのだと…あの時からずっと、こうしたかったのだと思い知った。
あの時、誰かが自分を責めてくれたなら、泣き叫んでしまえたんだろうか。
だが、それは許されなかった。
流されるまま神子となり、誰も俺を責める事はしない。
仲間達も、悲しみに暮れる間もなく討魔は続いた。
俺は、感情が麻痺していった。
本当は泣きたかったのに…ぽっかりと空いてしまったあの人の存在を、埋めてしまうぐらい泣きたかったのに。
あの時の記憶が蘇り、涙を拭う事も知らない子供のように、肩を震わせてずっと泣き続けた。
崩れ落ちそうな身体を、彼がそっと支える。
彼の制服の肩口に額をあずけると、ふっと甘い香りが鼻についた。
「気の済むまで、泣くがいいさ…それが、お前の望みなら…。」
頭の中はただ泣きたい気分で一杯で、彼の声をずっと遠くで聞いていた。
「−−、…すか、飛鳥!」
懐かしい声を聞いたような気がして、俺は目を覚ました。
気が付けば、桜の幹にもたれたまま眠っていたようだった。
先程の彼は、俺が見ていた夢だったんだろうか?
でも、泣きはらした重い瞼とこの甘い香りに、彼は存在したのだと思い込もうとしていた。
彼は…どこへ……?
虚ろに視線を泳がせる俺に、さっきの懐かしい声が続いた。
「もう!何やってんのよ!花びらに埋まっちゃうまで寝込むなんてさぁ!いつから寝てたわけ?」
頭上から呆れたように聞こえるのは、忘れられない幼馴染の声。
もう制服ではない彼女が、あの頃と同じ笑顔で覗き込んでいる。
「アンタが帰ってくるって郷司から聞いてさ、急いで帰ってきたんだから!」
差し出された手を握り返すと、勢いをつけて引き上げる。
立ち上がる俺の身体から、花びらがはらはらと舞い落ちた。
「ほら、行くよ!みんな、待ってんだから!…あそこでさ…。」
彼女は俺の手を引いて駆け出した…あの時、歩み寄るあの人から逃げたように。
まるで時間が遡ったみたいで、思わず振り返っていた。
さっきまで俺がもたれていた桜の樹の下、誰かが立っている。
彼は……!
そう見えたのは一瞬で、その人影は夕暮れの花霞にかき消された。
「お帰り…飛鳥……。」
そんな、暖かく優しい声が、聞こえたような気がした。
校門をくぐり、校庭を抜けて、懐かしい場所へ…朱塗りの柱に囲まれた白壁も、夕焼けに染まっている。
扉を開くと、共に戦った仲間達の変わらない笑顔に迎えられた。
総代…俺はここに帰ってきてもいいんですね。
仲間達の笑顔と、あなたの思い出の詰まったこの場所に。
もう無くなってしまったと思っていた涙がまた浮かんできて、俺は苦笑いするしかなかった。
<2005/4/2>
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