「せーんぱいっ!今、帰りですか?」
待ちわびた人の姿を確認し、さも、偶然通りかかったようなふりをして声を掛ける。
かなり古典的な手なのだが、この人にはこの方法が一番声を掛けやすかった。
あからさまに待っていたり連絡を取ったりすると、この人は決まって何かあったのかと心配をする。
だから、いつも偶然を装って声を掛ける。
本当は仕事が終わるまでずっと待っていたのだけど。
週末金曜日。バレンタイン前日。
オレが先輩を待っていたのには理由があった。
この人は、本人が思っている以上に人気があるのだ。
どうして気が付かないのか不思議なぐらい、在学中からこの時期は注目されていたのに。
学校時代は校則が結構厳しかったし、生徒会役員をずっと務めていたということもあり、バレンタインにチョコを渡せるような
隙はこれっぽっちも無かった。
大学の頃はどうだったか詳しくはわからないが、たまに遠くから見かけた限りではそれなりの数はあったのだと思う。
勤めだしてからは、周囲の女性の数は今まで以上に増えているし、それと比例しチョコレートの数も増えているだろう。
優しい人だから、贈られるものはすべて受け取ってしまうのだろう、その気持ちごと。
それがこの人のいい所だし、オレにとってのいたみになる。
だから…気になるんだ。
「どうしたんだ、江藤、こんなところで?今日は…講義に出たようだな。これから帰りか?」
オレのバッグを確認し、チェックは怠らない。
そして、レンズの奥の瞳を和らげる。
「やだな〜、ちゃんと出てますって!心配性なんだから、先輩…」
そう言いながら、オレの視線は先輩の手元を見つめる。
どう見ても、そこにあるのはいつもの先輩のカバンで。
膨らんでいるわけでもなく、他の荷物を持っているわけでもなく。
いつもの通勤用のカバンに変わりは無い。
貰ってない…わけはないだろう…。
そんな疑問も、今は言い出せずにいる。
「先輩、これから空いてます?美味そうな酒を貰ったんですけど、今晩一緒にどうですか?」
グラスを傾ける仕草をして見せると、先輩は呆れたように苦笑いする。
「お前からおごってもらうなんて、嵐でもきそうだな。まぁ、めったに無い事だから、のってやるか。」
「決まり!これから先輩の部屋に行ってもいいですよね!」
「おい、これから…?しょうがないな…どこかで食事でもして行くか。」
先輩が溜息をつく。心が軋む。
軽く食事を済ませ、先輩を乗せてマンションへと向う。
僅かな距離だが、助手席で静かに眼を閉じている先輩。
そういえば、最近また新しいプランを立ち上げるような事を言っていた。
その疲れが貯まっているのかと、横顔を見ながら思う。
貴重な休日を、邪魔しているんだろうか?
少し、決心が鈍った。
来客用の駐車場に車を入れ、エンジンを切る振動で先輩は眼を覚ました。
「着いた…のか?すまない…眠っていたようだな…」
そう言って車から降りようとして、動かないオレを不審に思ったらしい。
「…どうした?行かないのか?」
「先輩、疲れてるようだから…。」
「ばかだな、心配するようなガラか?気にするな。美味い酒を飲ませてくれるんだろう?」
笑顔が弱弱しい。
でも、それでも、この人の笑顔にこんなに引かれる自分がいる。
ふらふらと誘われるまま、先輩の後を追った。
もう何回か来ている先輩の部屋。
相変わらず綺麗に整頓されている。
が、テーブルの上にはずされたネクタイが1本無造作に置かれていたり、クローゼットの取っ手に掛けられたハンガーにスーツが
掛かったままになっていたりと、最近の忙しさぶりが垣間見られた。
「すまないな、散らかしたままで。今、片付けるから、その辺に座っててくれ。」
着替えを終え、リビングに戻ってきた先輩は、向かいに座り深く息を吐いた。
今日の先輩は、溜息の数が多い。
「…先輩…本当に大丈夫ですか?無理してんじゃないですか?」
「ん…今日はちょっとな…ま、いいだろう。明日は休みだし…。」
「じゃあ、飲み明かしましょう!もう、思いっきり!」
「しょうがないな…。」
そう言いながら苦笑する。
そんな苦しげな笑顔じゃなくて、本当の笑顔が見たいのに…。
荷物から綺麗に包装された箱を取り出す。
今日のために用意した、取って置きのシャンパン。
そう、貰ったなんて…ウソ…。
食器棚から勝手にシャンパングラスを持ち出し、静かにそそぎこむ。
透き通ったサーモンピンクの液体が、炭酸を含んで音を立てる。
無数の気泡が浮き上がり、弾けるたびにフルーツとハーブの香りが漂う。
口に含むと葡萄の甘味が広がり、その後の微かな苦味が口当たりをすっきりとさせる。
先輩は、オレの話に相づちを打ちながら、グラスを傾けていた。
気がつけばボトルは空になり、軽く酔ってはいたが二人ともまだ物足りなさを感じていた。
「もう空いてしまったか。残念だな…。ワインならあるが、もう少し開けるか…?」
戸棚から取り出したワインのコルクを抜いてそのままのグラスに注いでしまい、先輩は「まぁ、いいか。」と呟く。
その深紅の液体は程よい酸味と渋さを持ち、さっきまでの甘さとはまた一味違う味わいがあった。
外は少し風が出てきたのか、ベランダの窓が微かに音を立てている。
先輩の瞳が潤む。
視力のためか日頃から潤みを帯びている瞳が、さらにゆらゆらと水をたたえる。
アルコールには強い方だが、疲労のためかいつもより酔いが早いようだ。
「先輩、明日は何の日か知ってます、よね?」
おもむろに問い掛けるオレに、一瞬戸惑いを見せる。
「先輩…オレ、本当は先輩にこれ渡そうと思って来たんですよ。でも…貰いすぎて、もういらない…とか、ね?」
わざと大げさにごまかし笑い。
小さな包みに込められた、精一杯の感情。
でも、これはただの伏線で。
オレの今日の本当の目的。
どれだけの気持ち達を、先輩が受け取っているのか知りたい。
受け取らないでいてくれたなら、オレの気持ちだけ受け止めてくれたら…それはオレの都合のいい自惚れでしかないけれど。
テーブルの前に差し出されたそれを見て、ちょっと考え込むように眼鏡を上げる仕草を見せる。
困った時や、迷っている時にみせる仕草…先輩…やっぱりオレの気持ちは迷惑なんだろうか。
「江藤…これは…その…バレンタインとして…受け取っていいもの…なのか?」
先輩は途切れがちに言葉をつなげる。
あぁ、やっぱり気持ちを探るようなことはするんじゃなかった。
後悔が津波のように押し寄せる。
オレのあさましい気持ちを押し付けて、この居心地のいい場所を、大事な人の心を、みずから失おうとしている。
「先輩、やっぱ……!」
「…ありがとう、江藤。」
「…え……!今、なんて…!」
小さな声だった。
下手をすれば聞き逃してしまうほど、ためらいながら囁く声だった。
「お前の、気持ちなのだろう…?私に与えられる、大切な気持ちだ…。」
この人は、たとえ酔っていてもいい加減な受け答えをする人じゃない。
本当に、受け取ってくれるのか…オレの気持ちごと…?
「だが、食べるのは後からでもいいだろうか…?今日は、もう、その…。」
「……は?」
そこで初めて、今日の、今までの、先輩のバレンタイン行事を知ることとなる。
「給湯室小話5」参照(汗)
呆れていた。それは、怒りに近い。
先輩…あなたって人は……。
そうやって、全ての人の気持ちに答えようとする。
その万人に向けられる無意識の優しさの、全てにオレは嫉妬する。
この人の全てを独り占めできたら、どんなに楽になるだろう。
無数の硝子の雨に切り刻まれている、この心。
急に黙り込んだオレを、心配そうに覗き込む。
「どうした、江藤?少し、飲みすぎたか?」
「いえ、大丈夫です。あ、別にいつでもいいっすよ、それ。なんならオレも付き合いますか?半分!」
声に怒気がこもる。
抑えなければ、と思っても感情が抑え切れない。
この理不尽な怒りを隠せない自分が情けなかった。
「…いや、これは私が貰う。」
「………。」
「いくら私でも、全部を受け入れるのは無理だろう。本当に受け入れられる気持ち以外はな。」
「それって、どういう…。」
「わからないのか?お前の私への気持ちなのだろう、それは。そういうことだ。」
目の前には、先輩の笑顔。
さっきの疲れた笑みではなく、オレが憧れていた笑顔がそこに。
今の先輩の言葉に、オレは自惚れてもいいんだろうか?
傷だらけの心が、あまいいたみに麻痺していく。
END
バレンタイン、その後…ってところでしょうか?
はにーの溜息が多いのは、胸焼けですかね。
水支も、なんか情けなくなっちゃいました。
やっぱり、もっとよく考えてから文にしなきゃ、と反省です(-_-;)
でも、ちょっと進展した、のかな?この2人…。
戻る