「はいはーい、どちらさん?」
電話口から聞こえる声は、自分の良く知っている人物の声。
だが、自分の前ではあまり聞かれない声。
少し声を掛けるのを躊躇われた。
「…江藤、か?大月だ。」
途端に電話の向こうで息を飲む気配がして…。
「せ、先輩!どうしたんですか?いつもの番号じゃないから、つい他の奴だと思って…。すいません。」
どうして謝るのだろう?
久し振りに再会してからというもの、ずっと感じていた違和感。
それは学生時代とは違う、後輩の対応。
以前はもっとフランクだったと思う。
子供だったから、と言ってしまえばそれまでだが、お互いに年を重ね対等な立場に近付いたはずなのに。
思いつくことと言えば…彼から告げられた気持ち。
それをすんなりと受け入れられない、自分。
そんな自分が、彼を萎縮させているのではないか?
「…先輩?」
電話から聞こえる声に、我に帰る。
そう言えば、今は電話中だった。
「あぁ、すまない。今、大丈夫か?」
今の時刻、午後9時18分。
残した仕事を片付けているうちに、気がつけばこの時間になっていた。
同僚達も、全て帰った後だった。
電話の向こうからは、賑やかな声が聞こえてくる。
仲間内で盛り上がっている最中なのだろう。
もし、都合が悪いなら、このまま切ろうと思っていた。
「あ、平気です。ちょっと待ってくださいね。うるさいんで、移動します…。」
「いや!都合が悪いならいいんだ。たいした用事では……。」
そう告げる前に彼は動いていたらしく、電話からは彼が移動している気配が感じられた。
もう一度彼が電話口に出たときには、周りの賑わいは消え、彼の声だけが耳を伝う。
「先輩、お待たせしました。あの…何かありましたか?」
「あ…いや、本当にたいしたことではないんだ。ただ、ちょっと渡したいものがあったので…。」
「…オレに、ですか?」
彼の声に、不安な様子を感じた。
表情をうかがえない電話の声だけの会話が、これほどまでに心もとない物なのかと思う。
彼は今、どんな想いでこの電話を聞いているのだろうか。
このままどんどん萎縮させてしまう事になるのではないのか?
「…いや、やはり今でなくても…。友達と一緒なのだろう。私のことは、気にするな。
早く戻らなければ、皆が心配するぞ。では…。」
「先輩…今、どこですか!」
「……え?」
「今、どこに居るんですか!」
いつに無く強い彼の口調に押され、思わず「社に……。」と答えていた。
「…ここからだったら、40分ぐらい……いや、急げば30分で…。」
と、小声で呟いているのが、辛うじて聞き取れた。
そして…
「30分!30分で、そこに行きます!それまで、そこにいてくださいね!絶対、帰らないでくださいね!」
そう言いながら、すでに彼は走り出している。
電話口からは、もう不通音しか聞こえてこない。
それでも、受話器を置く事が出来なかった。
(ここに……来る、って…)
なんで、電話を掛けたのだろう。
別に今でなくても、良かったはずだ。
これを渡すだけなのだから…。
引き出しからそっと取り出した包みは、彼に似合いそうだと思った小さな小ビン。
それは、付け始めはシトラス系だがムスクの香りが最後に残る、さわやかで清潔感のあるコロン。
先月のあの夜に、彼から与えられた気持ちのお礼に。
こんな自分に、真っ直ぐに感情を向けてくれる、彼に…。
程無く、階下の警備員から連絡が入った。
「大月主任、面会の方がみえてますが、お通ししてもよろしいですか?」
「…あぁ、よろしく頼む。」
時間は、午後9時52分。
電話で言った通り、ほぼ30分でここに到着している。
繁華街からは、かなり距離があっただろう。
そこまで無理をしなければいけないほど、自分は彼に気を使わせている。
それがあの不安な声に現われている…そう思っていた。
タッタッタッ……
駆けて来る足音が聞こえ、事務所の入り口に彼の姿が見えた。
4階のこの事務所まで、階段を駆け上ってきたのか?
呆然として何も言えない自分を見つけ、安心したように大きく息をつく。
「はぁ〜っ……よ、かっ…た…間に……あった…くる、ま…は…つかまら…ねえ、し……
エレ、べー、タ…降り、て…こねえ、し……」
ゼイゼイと息を切らしながら、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
額にうっすらと浮かぶ汗が、どれだけ急いで来たかを物語っていた。
笑顔を見せる余裕など無いほど苦しいはずなのに、彼は自分に笑顔を向けてくれる。
その笑顔が、苦しかった。
「どうして…どうしてそんなに、無理をするんだ。…そんなに、私に、気を使うんだ。
おまえはもっと、自由だったはずだ…。私が…私がそうさせるのか…?」
彼の顔から、笑みが消えた。
そのまま真っ直ぐこちらに歩み寄る。
その気迫に押されて2、3歩後ずさると、すぐに机に阻まれた。
思わず腰掛ける状態になってしまい、体制を整える間もなく両脇に手を置かれて身動きが取れなくなった。
すっ、と彼の顔が眼前に迫る。
「先輩、責任…取ってくださいね。飲んだ後にあんだけ走れば…酒もまわります。
記憶も……理性も…軽く吹っ飛びますよ。オレ…止められない…かも。」
彼の瞳が、ゆらゆらと揺らめいている。
物騒な事を言われているのに、何故かその瞳を見ていたいと思っていた。
「オレが、無理してる?気を使ってる?あなたには、そう…見えるんですか?オレはただ…突き動かされるまま…
考えるよりも先に、体が反応してるだけ…。オレには、あなたの方が気を使っているようにしか、見えない。
どうして…?オレに対して……負い目を感じる…から?そんな、ものなら…オレは……いらない。」
「え…とう……。」
負い目…そんな事、考えもしなかった。
自分は気付かぬ内に、彼を侮辱していたのだろうか?
彼にそれを感じ取らせてしまっていたのか?
喉がカラカラに干からびていく。
声が…出ない。
「…そりゃぁ、先輩を困らせてまで…どうこうしよう、とか……。それは、さすがに考えますけど…。でも、オレは…!」
少し照れたように視線をそらして呟いていたが、再度向き直りじっと見つめる。
その表情からは、迷いは見られない。
「オレは、先輩の事が、何よりも大事です。だから…無理もするし、気も使う。
それはオレがしたいから、そうするだけで…オレはずっと自由です。
先輩は、いつまでも先輩らしく、説教でもしてくれれば、いいんですよ……。さっきの電話…辛そうな、声だった。
…なにかあったんじゃ…!って、すごい不安になった。居ても立っても、いられなくて…気がつけば、走ってた。
……オレに、気を使うのは、止めてください、先輩。その度に走ってたら、いくらなんでも、体が持たないですよ…。」
目の前の彼は、いつもの軽口をたたく後輩の顔に戻っていた。
上がっていた息も、いつしか整えられている。
電話で感じた不安げな声は、私を案じてのものだったのか。
しばらく見つめあう状態が続いた。
シン…とした事務所内に、時折入る空調の作動音が唸っている。
耳鳴りが、した。
ふいに、彼が真顔になる。
何かを言いかけて、言いあぐねて…瞳が、揺れる。
「……先輩…オレに何か渡すものが、あるって…。」
「…あ…あぁ……。」
「それよりも…欲しいものが…オレ……。」
「…………。」
彼は、眼鏡に手を掛けるとそれを静かに外し、机の上に置いた。
一瞬視界がぼやけ、自分の居場所を見失う感覚に襲われた。
おぼつかない視界に戸惑っていると、彼の手がそっと頬を触れた。
唇をゆっくりと指でなぞる。
軽いアルコールの匂いがして、彼の吐息を感じた。
…唇に、柔らかな感触。
でもそれは、女性の持つ厚みのあるものではなくて、薄く肉感が無く、それでも暖かく柔らかい。
頭の中が真っ白になった。
自分の身に起きている事を理解する事が出来ない。
ただ、そこだけ…唇だけに意識が集中している。
彼の舌が、唇の間を割り、口内を探る。
いつしかきつく抱きすくめられ…深く求められていた。
「………っん…ぁ…」
息苦しさも手伝って思わず漏らした声が、妙に艶めかしくて自分の声とは思えない。
その声に、彼はゆっくりと唇を離した。
放心状態の自分を支えるように、彼はもう一度しっかりと抱きしめる。
「…言ったじゃ、ないですか…責任とって、くれって……どうしても……止められ、なかった……すいません…」
抱きしめた耳元で、彼がすまなそうに呟く。
その声は、今にも消え入りそうだった。
自分よりも少し広い彼の背中にそっと手を添えると、それまでの緊張感が和らいだ気がした。
「…謝るな、江藤……。」
「ずっと…いつも……こうしたかった…。」
――自分がしたいから、しているだけ…。
彼は無理をするのも気を使うのも、したいからしていると言う。
まだまだ自分は、彼にそれを強いてしまうだろう。
だが、徐々に緩和していければ…それは自分が彼の想いを受け入れる事ができればということだろうが。
そうすれば、声だけでこれほど不安に襲われる事もなくなるだろう。
時間は、かかってしまうかも知れないが…。
END
水支、走る!(笑)
とうとうしてしまいました!
でも、これで精一杯…。
これ以上の展開は…。
でも、2人とも、なんでこんなに考えすぎちゃうかなぁ…。
私が考えすぎなのか…(^_^;)
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